自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・関西本線の「加太(かぶと)越え」の風景・加太〜柘植:付録
290.  亀山駅界隈(かいわい) ・関西本線 /亀山駅&亀山機関区

〈0001:bO41222:亀山機関区の転車台辺り〉


〈0002:bO71234:[亀]、[竜]のD51たち〉


〈0003:bO71254:926レ、名古屋行き、亀山駅発車〉
『昭和40年11月ころの早朝、駅東側の踏切付近にて。紀勢本線の紀伊田辺発の夜行列車の名古屋行を牽引シテ来たDF50は、亀山駅でC57にバトンを渡した。』


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〈紀行文〉
 三重県の亀山と聞けば、先ず眼に浮かぶのは広重の描く浮世絵 「東海道五十三次之内」リーズの中の『亀山 雪晴れ』と題する版画のシーンである。これは、亀山の城下町の西端辺りでの街道を南東側からやや俯瞰(ふかん)気味にの視点で描いていた。
『前夜まで降り続いた雪がやみ、早朝の晴れ渡った空の下で、山の斜面に降り積もった雪が陽光にキラキラと輝いている。雪の朝の亀山城の凍(い)てついた高石垣の前を京口門に向かう急な坂道となった街道を松の間から見え隠れしながら黙々と登ってゆく人と馬、それに長持ちなどの続く大名行列が小さく描かれている。その画面左手の遠景には、徐々に緩やかになる雪景色の山々と家並みの屋根の重なりを配して風景の奥深さを表現し、画面上端の深い藍色で静かな早朝の雰囲気を表している。』(解説文より)
・版画をご覧になりたい方は下記をどうぞ。
〈東海道五十三次之内 亀山 雪晴 | 知足美術館〉
 http://chisoku.jp/collection/au-0014/i00412/
 江戸時代の亀山の地は、伊勢国鈴鹿郡を治める伊勢亀山藩六万石の藩庁の置かれた亀山城の城下町であり、同時に東海道の鈴鹿峠越えを控えた46番目の宿場である亀山宿として栄えていた。この亀山城は歴代の江戸幕府の将軍が上洛する際の宿所としての役割を果たしていた。
明治に入ると道路が整備され、東海道は国道1号線となり、隣の関の西追分で東海道から分岐して奈良に向かっていた旧東海道は大和街道となずけられ、次いで国道25号となった。また関の東追分で東海道から分岐する伊勢参宮街道の一つである伊勢別街道も三重県道10号津関線として整備が進められた。
ここで、国道一号線を四日市から鈴鹿峠に向かってドライブすると、右には鈴鹿山脈、左手には布引山地が近ずいて来て伊勢平野が尽きようとする頃、左手の鈴鹿川土手の方に、「かめやまローソク」の巨大なローソクのタワー看板が見えて来ると、間もなく亀山駅と、それに続いて機関区や広大な操車場の脇を通過する、この右手の高台が亀山の城下町であった。昭和42年の当時の亀山は、「かめやまろうそく」の地場産業と、と鉄道の町で知られていた。この「カメヤマローソくは昭和の初めの創業で全国の60%、それに輸出品を生産しており、界で初めて「ねじり模様のローソクを作ったり、結婚式のキャンドルサービスを考案した会社として知られていたのであった。
さて、ここで鉄道の発展について述べておこう。
明治時代の初期のことであるが、東京−神戸を結ぶ幹線鉄道の建設ルートは中山道経由と決まり、京都から名古屋へのルートは長浜から関ヶ原経由のルートの建設が先行して進められていた。そして、明治13年に京都−大津間が開業し、大津−長浜間は琵琶湖上の汽船によるれんらくとして、その間の鉄道建設は保留されていた。やがて長浜−関ヶ原−大垣間は明治16年(1883年)に開業し、さらに南への木曽川鉄橋が架橋工事中であった。このように幹線鉄道ルートから見放された伊勢谷伊賀の人々に幹線鉄道への便をもたらそうとする機運がたかまり、四日市に私設鉄道会社を設けて、四日市を起点にきょうと、名古屋、奈良などの各方面に通じる鉄道建設を目指していた。手始めに、四日市−亀山−柘植−京都の本線と亀山から津への視線の建設を当局に打診したのは明治14年頃であった。これに対する国の官設鉄道局の考えは、現在連絡航路となっている大津−長浜間の鉄道である湖東線の建設を早急に実施して、その途中の草津駅を起点とする関西鉄道線(かんせいてつどうせん)の建設を検討するよう示唆した。そして、明治21年(1888年)に伊勢や伊賀の人々は関西鉄道を創立して草津から着工した。やがて明治23年(1890年)12月には四日市-亀山-柘植間が開通して、念願の四日市から官設鉄路の神戸―東京間の幹線の草津駅に至る本線が開業した。続いて翌年には亀山から津に至る支線が開通して、その先は宇治山田に通じる参宮鉄道に連絡した。明治28年(1895年)11月には弥富-桑名間が延伸開業し、名古屋-亀山-草津間が全通している。
更に明治31年(1898年)4月には奈良・大阪を目指した柘植−加茂間が開通して、名古屋-加茂間が関西鉄道の本線となッた。その年の11月には念願の大阪の片町から名古屋に至る本線を全通させた。
明治33年(1900年)6月には大阪鉄道を買収して、名古屋-加茂−奈良-天王寺−湊町を結ぶルートが本線となった。
関西鉄道は、当時開通したばかりの官設鉄道の東海道線の大阪〜名古屋間との激しいサービス合戦を繰り広げることになった。その競争に勝つためには、外資を導入して複線電化の実現をはかる計画が進められていた。しかし、明治40年(1907年)の鉄道国有化法の施工により関西鉄道は国有化されてしまい、サービス合戦は終止符が打たれた。
その後の関西線の複線電化がいつまでも先送りされてしまい、往時の亀山の繁栄の輝きは失われつつあった。
それでも、東京−奈良-湊町を結ぶ急行「大和」、東京から南紀を結ぶ急行「那智」、それに東京から伊勢参宮のための直通列車などが運行されていた。
やがて近鉄が電化、広軌、複線の路線を大阪−宇治山田・名古屋間が開業すると大きく客を奪われタ。
それでも、東海道本線の代替路線の役割を担った関西本線は東海道新幹線の開業に伴い、また、紀伊半島東岸への玄関口の役割を担った紀勢本線亀山〜津間はショートカット線の伊勢線の開通に伴い、その役割を譲ることとなり、亀山はローカル線の中心駅となってしまっている。
私が訪ねた昭和40〜42年頃の亀山では、国道1号線の東側、鈴鹿川との間の幅広い敷地が長さ1qも続く中に、亀山駅、亀山機関区、亀山客車区、亀山操車場などの大阪の天王寺鉄道管理局所属の鉄道施設が集中的に配置されて鉄道の町としての活況を見せていた。
 先ず亀山駅だが、そのホームは単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線、合計3面5線のホームを持つ地上駅であった。通常は北側の2面3線を関西本線、南側の1面2線を紀勢本線が使用する。1番線と2番線の間に電車留置用の側線が1線ある他、構内に多くの側線がある。
駅舎は構内北側、単式ホーム(1番線)に隣接しておかれている。大正生まれの小さな木造駅舎を改造しながら大切に使っている。ホームに入れば構内の広さに圧倒され、亀山駅がいかに巨大な駅であるかを実感できる。今は優等列車はバイパス線の伊勢線経由となり、現在、この駅にやってくる優等列車の姿は見られない。短い編成のローカルが発着しているだけである。
この亀山駅のホームの西端(柘植方)に立っ見ると、左側が亀山機関区、右端が亀山客貨車区があり、そして柘植方に亀山操車場のヤードが広がっていた。また、亀山駅の東側には二つの大踏切が並んでおり、その南側に立つと、手前が紀勢本線、50m先が関西本線の踏切であった。その先に緑の高台が見えるのが、亀山城跡や旧 東海道が通る街の中心に当たっていた。この場所はC57牽引の旅客列車の出発シーンを捉える格好の撮影ポイントであった。ここの紀勢本線は右にカーブして踏切を横断し、すぐに鈴鹿川を渡り、丘陵地の中を南下していた。この鉄橋は明治の古風な石と煉瓦を組み合わせて積んだ橋脚の上に架っていた。
 さて、亀山機関区へは踏切を渡って左へ行けば正門が現れた。ここではいつも親切に撮影を許してくれたのは有難かった。ここは明治39年に設けられたと云う中規模の機関区の雰囲気が感じられた。スレート屋根、板張り壁の三線式の矩形機関車庫であって、屋根には煙抜きの天窓が設けられていた。その前には二代目だと云う下路式転車台があった。左手の方に、少し変わったガントリークレーンと給炭槽が、それに貯水槽を支えているのは廃レールを利用した鉄骨の脚であって、その下に煉瓦積のポンプ小屋が設けられていた。それに後方には巨大な照明塔や時計が見えた。
ここの1964年/昭和39年の機関車配置表を見ると、
C11:2両、2C50型:2両、C57型:10両、C58型:3両、
D51型:6両、DF50:21両であった。
それに、稲沢第1区のD51、名古屋区のC57、奈良区のD51なども見られる一大拠点であった。
一方、亀山操車場は四日市の工業地帯の貨物駅である塩浜駅から仕立てられた貨物列車が到着すると、草津線、紀勢本線、それに城東貨物線の竜華操車場への列車へと再編成されていった。
ここの入れ替えにはC50の154号、109号(C50型のラストナンバー)などがドラフトを響かせていた。その後、亀山が無煙化されたのは昭和48年(1973年)9月30日の紀勢本線亀山口・参宮線のC57110牽引の 821・826レであった。

撮影:昭和42年9月17日。