自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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277.
北信五岳の麓を登る
・信越本線
/豊野−柏原(黒姫)
--飯縄・戸隠・黒姫・妙高・斑尾の五つの山々--
〈0001:2-3-2-1: 浅野の築堤を登る下り貨物列車・豊野→牟礼〉
〈0003:bO30142:北国街道小玉坂からの冬景色、牟礼−古間〉
〈0004:bO30144:急行「白山」古間駅通過〉
〈002:黒姫山をバックに復活D51が行く〉
・転載元について:
N家 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/odyss_70
コノサイトの中の「黒姫山とD51」に所載。キャプションには、
『信濃町の景色の良い所でちゃんと見に行ってきました。田んぼの真ん中、本格的なカメラマンの中をちっちゃなカメラでパチリ!』
転載の了解が得られておりませんが、厚く感謝申し上げます。
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〈紀行文〉
SLを撮り始めたのが昭和40年の頃だから、全国の各地で電化や無煙化の動力車近代化が進められていて、蒸気機関車が消えて行くのが目前に迫っていた線区が数多かった。中でも信越線は実家が新潟市で、学校は長岡市であったことからなじみが深かったので、何とか信越本線のD51の姿を残そうとして電化直前の昭和41年の前半に豊野から柏原(現、黒姫)までの沿線に通いつめた。その頃の乏しい知識を携えながら沿線をロケハンに精を出したのだった。今から思うと的外れだらけなのが判ってきた。それでも数枚のショットを選んでwebサイトをまとめようとしている現在なのである。
その鉄道が開通したのは明治の随分早い時期であった。それは、この前身の直江津線は当時計画されていた東京から神戸を結ぶ幹線である「中山道ルート」の鉄路建設工事の資材を日本海岸の港である直江津から上田から松本へ向かう地域への運送を目的として、明治18年7月に日本海沿岸の港町の直江津から官設鉄道として着工したのであった。しかし、明治19年になると、着工中だった中山道ルートは「中部山岳地域は難工事が予想され、列車の運行上の問題も多い。工期、工費も、また完成後における列車の所要時間も、東海道に鉄道建設をした場合の比ではない。」との報告が現場からもたらされた結果、急きょ幹線の建設は「中山道ルート」から「東海道線ルート」へと計画が変更されてしまった。そこで目的を失った直江津線は、日本海側と太平洋岸を結ぶ本州横断鉄道として建設工事が続けられた。そして明治21年に直江津〜長野間が開通したのでアった。その時の豊野からの駅は牟礼、古間、柏原の順であった。当時は、資金の掛かるトンネルや鉄橋を極力避けるために、急勾配と急曲線や築堤などを使ってルートの距離が伸びるのも止むを得ないと云う建設方針であったようである。ここの下り列車は豊野駅(標高:334.6m)からサミットの柏原駅(標高:671.8m)までの約19kmの間には、25‰急勾配と、と曲率半径300mの急カーブ、それに築堤が続きている難路となっていた。
今の信越本線は南の小諸から長野を経て豊能までは信濃川の上流に当たる千曲川に沿って北上してきたが、豊野付近で向き尾変えた千曲川と別れ、その支流である鳥居川に沿ってサミットの柏原に至り、そこからは妙高高原を下って直江津を目指している。
ここで先ず、この沿線の地形について触れておきたい。この長野県の東部に南北に広がる善光寺平(長野盆地)を延々と北流してきた信濃川の上流部に当たる千曲川が信越国境に横たわる頸城山塊(くびきさんかい)に行く手をはばまれて、流れを東北に急に変えて飯山盆地を下って、名を信濃川と変えて越後平野に向かっている。この千曲川の流れを変えさせた信越国境に横たわる山岳地帯を横断するのが明治時代に開通した信越本線の前身である直江津線の直江津〜長野間であった。ここで取りあげるのは豊野〜柏原間の約19qにおよぶ山岳地形に付いてである。
この善光寺平を南北に通過している信越本線の高崎から直江津までの地域は本州島を西南日本と東北日本に二分していた「フオッサマグナ(大地溝帯)」と云う太古の海峡の中に位置していることは地理学の教える所である。
そのような大地溝帯の西側の境界線は北アルプス山脈の東麓に沿って北南に走る糸魚川−静岡構造線であり、その東側の境界線は異説もあって確定していないが、柏崎−小出−銚子を結ぶ構造線とも云われている。それらに挟まれた幅広い地帯は数百万年前までは海であり、当所は深さ 6,000mを越えるU字形断面をした海溝となっていたと云う。この奇妙な地形が生まれた経過は次のように説明されていた。まず、原始の日本列島は南北に直線的であって、現在よりもユーラシア大陸に近い存在であった。約2,000万年前に、日本列島の近くの海底でプレートの沈み込みに伴う背弧海盆の形成が始まった。これは沈み込んだプレートがマグマとなって上昇し、海溝の内側のプレートを押し広げてできるものであるが、これによって日本海が現在のように広がり、日本列島も大陸から離れて行った。しかし、日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフと日本海溝の二つだあったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形となった。そのため、折れた原始日本列島の同士の間には日本海と太平洋を結ぶ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、砂や泥などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に南から接近してきた。この時、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。それによって、地溝帯の海底が徐々に隆起し、それに新生代の堆積物が加わって現在の陸地で見られる地層になったと云う。それに
海溝の割れ目から火山が噴出して妙高山から志賀高原、浅間山、八ヶ岳と続く山地が形作られたとされている。
この説明から分かるように豊野から先の行くてを阻んでいる山々は頸城山塊(くびきさんかい)の一部である
妙高火山群(富士火山帯の最北部)に属する山々で、長野県側からは北信五岳と呼ばれるやまやまである。
それは東の斑尾山(まだらおやま、標高 1,382m)、西の飯綱山(いいづなやま、標高 1,917m)、黒姫山(標高 2,053m)、それにその西の戸隠山(標高 1,904m)、北西の妙高山(標高 2,454m)などである。これを地元の長野県の人々は、東から頭文字を取って「斑飯黒戸妙」→「まみくとい」と読んで覚えたと云う。それらの山はいずれも成層火山で長い裾野(すその)を引いた広い高原を伴っているのが特賞であった。
それらの間を南流する鳥居川が地不磨側に合流するまでの中・下流部に繰り広げる渓谷や盆地を通って建設されたのが直江津線なのであった。
その豊野を発車してしばらく住宅地を走り並走してきた飯山線は信濃浅野駅へ向かうが、信越本線は分かれて大きく左カーブを切り長い築堤を抜けて鳥居川西岸を谷へ入って行く。実は、信越本線の前身である直江津線を建設しようとする際には、豊野から浅野を通って鳥居川を渡って大蔵を経て鳥居川の東岸を北上し、牟礼宿の対岸に牟礼駅を設けて北上する計画であった。しかし飯山街道の宿場であった浅野の人々も、北国街道の通る牟礼の人々も鉄道の駅が来ることを嫌って反対運動を起こしていたようであった。そこで鉄路は浅野村の手前で大きく左(西に)カーブさせて、続いて大築堤を築いて鳥居川の西岸を通って谷間に入ってゆくこととなった。そして牟礼宿から離れた手前に牟礼駅を設け、牟礼宿を西に迂回するように避けながら北上した。その先ではこの経路の最大の難所である飯綱山から尾を引くような裾が伸びた尾根が、東側の斑尾山からの尾根とが接する谷間を刻んだ鳥居川の峡谷を直江津線は通り抜けており、北国街道や国道18号線は西側の尾根をこ小玉坂”と呼ばれる急坂を上って柏原に向かって北上しており、ここは北国街道随一の難所として知られていた。
ここで掲げた一枚目の作品は、25‰の急勾配が始まっている大築堤を力走するD51重連牽引の下り貨物列車のショットである。この築堤の下には江戸時代に作られた鳥居川から取水する米作用水堰である石村堰からの水路に掛けられた三段の煉瓦アーチ水路橋が現役であった。この辺りの鳥居川の扇状地には「りんご園」の広がる農村風景が多く見受けられた。この先の2qにわたる深い谷間は最初の難所であって、ここを過ぎると牟礼盆地に入り、やがて標高 451mの牟礼駅となる。この地名の起源を「飯綱山の見える村々」(矢野恒雄著・ほおずき書籍出版)で調べると、牟礼(むれい)は、四方を山に囲まれて凹んだ蒸れる「室」のような土地で、「蒸室」「蒸飯」から「むれい」と転じたものとされるとなっていた。
ここの駅のホームには、その昔話に町内の飯綱山には天狗がいたと言い伝えに因んで天狗堂が祭られているのが有名であった。
この駅を降りて、北へ0.5qほど北へ行き、右折して信越本線のガードをくぐて八蛇川(やじゃがわ)に架かる牟礼橋を渡って左へ進むと北国街道の牟礼宿の東の入り口の「ますがた(枡形)」が現れる。ここは鳥居川とその支流の八蛇川に囲まれた水便の良い地点であった。
牟礼宿は江戸期の慶長十五年(1610)の成立で、東西約600mの宿場通りに約140軒の家屋が並んだという。ここは戦国時代の有力な山城であって、矢筒山(標高 566m)に築かれた矢筒城の南にあった表町が、矢筒城廃城によって現在地に移転したものと云うのが宿の成立の物語であった。それに、牟礼から古間、柏原にかけて“信州鎌”の製造が盛んで全国第2位の生産を誇った。これは薄刃の片刃草刈鎌で、軽くて切れ味がよく、古間の問屋が全国に広く流通させたと云う。
そして、この宿場のスグ北を右手に鳥居川を見下ろしながら小玉集落に入ると、右手に「金附場(かねつけば)跡」の案内板がある。この北国街道は佐渡の金を江戸城に運ぶ重要な街道で、ここで新しい馬の背に付け替える中継基地だったようだ。その先の左手に「武州加州道中境碑」がある。ここは加賀百万石の前田藩の参勤交代の道中120里の中間点を示す標識であった。すなわち、ここが加賀の金沢と江戸のの中間地点であったのである。ここに到達した藩主は江戸と金沢に境を通過した知らせを持った飛脚を発信させたと云う。その後に開通した鉄道での、牟礼駅から金沢駅間と牟礼駅と東京駅間との運賃は同額であったと云うから面白い。
元へ戻って、牟礼駅を出ると、再び登り勾配が始まり、町並みが途切れて水田が広がるものの、やがて盆地は尽きて山すそに突き当たった。ここは北国街道の難所の一つである「小玉坂」への急坂に向かおうとする国道18号のしたをぬけて、飯綱東高原のすそが斑尾高原へと繋がる谷間を流れ下る鳥居川にそうようになる。この辺りは並走する道路も集落もなくなり山深い景色の中を延々と北上する。やがて短いトンネルを抜け鳥居川に沿って進み、再び短い大廻トンネルを抜けると水田が一面に広がって戸草集落に出る。そして戸草トンネルを抜けて鍋山を回り込むと開けた盆地となり古間駅(標高:633.2m)に到着する。この駅も鳥居川を挟んで北国街道の柏原宿と「合いの宿」であった古間宿とは距離が離れていた。この古間から柏原に掛けての盆地は木賀氏に斑尾山、西に飯綱山、黒姫やまなどの北信五嶽に囲まれた長野県最北の高原であって上信越国立公園の一角であった。ここを出ると左側に黒姫山の雄大な姿が見えてきて、列車は右へ左へカーブする。
鳥居川と少し並走してそれを渡って別れると、やがて頭上を跨いでいる国道18号をくぐるり、右へカーブすると列車は県境の駅黒姫駅に到着する。ここの駅は信越国境のサミットであったから、補機の転向も必要だったのであろうか、明治44年 川崎造船所製の「枕木締結式バランスト型上路式、長さ18m級、骨組み付き桁転車台」があった。復活蒸気機関車の運転に重宝されているとのことである。夕暮れなら正面に特徴的な形のシルエットの妙高山が迫って見えるだろう。
ところで、この勾配区間を共に寄り添って通過している鳥居川の素性について明らかにしておこう。鳥居川は長野市の中心部から北西へ直線で20kmほど離れてそびえる戸隠山を源に、戸隠神社奥社の湧水や沢の水を集めて奥社への参道の鳥居の手前を流れ下っていることから名付けられた名であると云う。そして、大橋で黒姫山・佐渡山(さどやま、1827m)の山麓の河原や沢の水を取り入れて東の方向に流れ、飯綱山・黒姫山両火山の合わさった間をV字谷を流れ下っている。この辺りには中部電力の4ヶ所の水力発電所が営まれている。そして古間盆地へ出て大きく南へ向きをかえてから、斑尾山と飯綱山からの尾根の接するあいだを渓谷を作って流れ下り、牟礼盆地に入ると河岸段丘を形成しつつ、八蛇川(やじゃがわ)を合流してから再び最後の渓流へと流下して行く。この牟礼−大倉の間の2qは川底が大変深く削られた深い谷となっている。ここを抜けると扇状地の中となり豊野町を南東方向に流れ、国道18号+飯山線の鉄橋をくぐって蟹沢で千曲川の中に流れ込んで消える。この川の長さは僅か34.8km足らずなのに、その標高差は約940mもあると云う大変な急流であって、信越本線は、この蛇行するた中・下流域を少なくとも何回かは横断しながら通過していると思われる。
さて、次の二枚の写真は昭和41年正月の2日に帰省していたワイフの実家のある長野県塩尻在から遠く北信濃までクルマで遠征した時の撮影である。
積雪に悩まされて行動は制限されてしまった。
一枚目は牟礼の街並みを国道18号で抜けて小玉坂と呼ばれる急坂を登った峠は標高700mほどであろうか、この先は、それほど下ることなく高原を柏原に向かって北上していた。この峠の少し先の右手には鳥居川に沿って開けた谷間があって、僅かな民家が散在していた。この積雪に埋もれた谷間には信越本線が古間駅に向かって登っているのが俯瞰できた。運よく晴れ間に重連の下り貨物が正月なのにもかかわらず運休にならずにやって来た。初心者の私には標準レンズしかなく、散漫な写真となってしまったが、俯瞰(ふかん)写真の魅力に取りつかれるようになる最初のショットであった。
この後に坂を降りて、古間駅の近くで急行“白山”の通過する姿を取って引き上げた。
その後もこの区間の山の中に分け入って撮影を試みたが、ご覧にいれるものは得られていない。そこで、黒姫山をバックに捉えた素晴らしい作品をお許しを得て転載させて頂いた。ここで厚く御礼を申し上げます。
参考資料
「飯縄・戸隠・黒姫・妙法の四山が一望できる」眺めのよい所として紹介されているそうだ。
この四山に斑尾山を加え、信越五岳と呼ばれる。
覚えると、最
。
ちなみに飯