自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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276.  南酒々井の大築堤と佐倉機関区を訪ねて ・総武本線

〈0001:bP60345:八街台地へ登る重連貨物 283レ〉


〈0002:bP60335:佐倉機関区のひととき〉




〈0003:bP60342:C5755号の牽く。242客レ、佐倉発車〉



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〈紀行文〉
 ここでは関東平野の「ど真ん中」に位置する貴重なSL撮影地の一つである「総武本線の南酒々井戸の題築堤を佐倉電化直後の昭和43年7月に尋ねた時の記録です。このような平野の中に、長さがほぼ4qも続く勾配 10‰の大築堤が比高 31m もある丘陵の崖を駆け登っていると云う光景があることに地形的な興味がそそられた。ここは千葉県北部一帯に広がる下総台地(しもふさだいち)の一角にあった。
この台地の成り立ちは、約50万年前から10万年前頃にかけて、古東京湾と呼ばれる浅い海域で堆積した下総層群と呼ばれる地層が隆起して陸地化した上に、約1万年前までの間に富士山からの火山噴出物が約6〜8mの厚さに降り積もって出来た関東ローム層に覆われて出来た標高20mから50mのなだらかな丘陵からなる台地である。
その範囲は、北は利根川、
東は銚子、南は上層台地、
西は松戸市に至る広大なちいきで、武蔵野台地の2倍はあると云う日本有数の台地なのであった。
その地形的特徴は、ホボ中央部に印旛沼(いんばぬま)と云う低地帯が存在していることである。
これは今から約二万年前の海面が著しく低下していた時代に、雨水が柔らかい地層の下総台地を侵食して出来た谷が起源であるとされている。時代が下って縄文期の海麺が上昇する海進期になるとそれらの場所は地盤沈降もともなって溺れ谷となり、約1000年前頃に銚子辺で太平洋に開いていた内海である香取海の一部が深く湾入していたと考えられている。その後の海面の低下による香取海の後退と、鬼怒川から洪水によって運搬された土砂が沼の出口がせき止められて、さらに江戸時代の利根川の付け換えによって現在の印旛沼が出来たとされている。今も沼からの水は北から長門川を下って利根川へ排出されている。
かっては、W字形をした大きな湖水で合ったが戦後の食料増産のための干拓によって水面は可なり縮小されたものの自然は濃くほぜんされていて、ここを中心とした市町村には、南は佐倉市・酒々井町、西は八千代市・印西市、
北は印旛村・本埜村・栄町、東は成田市となっている。この沼の南側沿岸には京成本線、JR総武・成田線が走ッており、台地には産業都市とベッドタンンを兼ねた佐倉市街が発展している。また東側には成田ニュータウンがあり、北西には千葉ニュータウンが存在している。
この沼への最大の流入河川は延長32qの鹿島川であり、その水源は標高 95mの千葉市昭和の森公園のある上層台地に接した高所からほぼ真北に流れ、狭い谷津田地形を作っている。やがて谷が開け、比較的広い水田地帯となる。四街道市物井で小名木川、佐倉市寺崎で高崎川を合流してやがて印旛沼の開拓地を経て西印旛沼へ流入している。
この佐倉市街の広がる台地直下の谷底平地の幅は700mもある広さとなっている。この鹿島側から西側は四街道台地で東京湾と利根川との分水界をなしていて全体的に標高は低い。その東側は八街台地(やちまただいち)で標高は比較的高く銚子まで続いており、その一部は佐倉市街の広がる台地となっている。
さてここで千葉から総武本線の沿線をたどってみよう。
千葉駅を出た下りの総武本線はほぼ90度左にカーブし、佐倉駅までの約16qの複線となって北東へ進む。まで沿線は住宅地が続いていたが、次第に標高が高くなり東京湾側と利根川側を分ける四街道台地に入り、四街道駅を過ぎると沿線は一変して田畑が広がるようになる。やがて物井駅。田園地帯を進んでいくと短いトンネルで抜け、カーブして東方にむかいながら勾配を下って佐倉機関区が設けられた佐倉駅へ到着する。この場所は佐倉の水田地帯と読まれる鹿島川と高崎川が合流する谷底平地(幅が0.7qもある)の中にあった。
一方の佐倉市街は、この鹿島皮の低地の東側の下総台地を占める八街台地の一角で馬の背のように東西に幅狭く延びた標高30m程度の丘陵上に広がっていたのである。その先端には江戸の東北の守りとされた佐倉城(鹿島城)がいとなまれていたのであった。
この佐倉駅からは電化複線の成田線が分かれて12.5qさきの成田えつうじており、一方の総武本線は、ここから終点の銚子までは非電化の単線で運転されていた。
佐倉駅を出ると複線の成田線と2kmほど並行。
国道51号と交差後に成田線は北側に離れていき、総武本線は南東の雑木林の中を進む。やがて線路は次の南酒々井駅の手前(起点から57km付近)から榎戸駅手前(起点から61km付近)までは、10‰の連続勾配の築堤を築いて佐倉の水田地帯から比高31mもある八街台地へと登る“南酒々井の大築堤”が現れる。このように長い築堤が横断する低地は高崎川とそれに東側から並行しながら合流する南部川の谷を小さい角度で斜めに横断しているからであった。その途中に、佐倉から単線の最初の駅である南酒々井駅が谷間に設けられていた。この築堤を煉瓦積の溝渠(こうきょ)で流れ下る南部川の上流には本流とみまちがえるほどの支流の勝田川が流入していて八街台地から流下る水を受け止めているのであった。
また、「親孝行息子の井戸から酒が湧いた」と云う“酒の井戸”の伝説を起源とする酒々井市街は南酒々井駅より西に少し離れた成田線の酒々井駅の周辺に広がっている。この連続した築堤を登って台地の上の平野部にある榎戸駅、続いて八街(やちまた)駅となる。
この広大な下総台地の奥は、水利の悪さから人が住むむ集落が作られず、原野のままか、牧草地として利用されるていどであったが、明治期に入ってからは、これらの原野は陸軍(習志野原)の施設や三里塚の御料牧場(今の成田国際空港)などに開発される一方、藩籍を失って失業してしまっていた士族たちを積極的に集団で入植させる制作が行なわれた。これにより現在の鎌ヶ谷市の初富を皮切りに、2番目に二和(船橋市)と次々と広がり、それぞれが開拓の順番に因んだ地名を名乗って発展して行った。総武本線の通ジル「八街(やちまた)」は八番目に入植して落花生の栽培に成功して大発展した一つである。
再び丘陵の間を進んで日向駅を過ぎ、進路を東方向に変えて平野部に出ると、東金線が分岐する成東駅に至る。
成東駅からは南東の太平洋に面した九十九里浜から5kmほど離れた平野部を進んで銚子を目指していた。
この長い大築堤にはC57の旅客列車、C58の貨物列車、時には重連で登って来た。それにこの築堤の下には明治中ごろに建設された煉瓦つみのトンネルが二課所そんざいし、
特に第1上勝田拱渠(きょうきょ)は農道のために作られた煉瓦積のトンネルであり、昔の姿を留める土木産業遺産として保存の対象となっているとのことであった。その先の第2上勝田拱渠も南部川を通すレンガアーチの溝渠(こうきょ)であるのだが、現在は鉄筋コンクリートでほきょうされているようだった。
この開けた水田を前景に築堤を登る重連の 283レ貨物を撮ってから、帰り際に佐倉機関区を除いてスナップを撮って引き上げた。
参考資料:
小学館刊『日本鉄道名所第3巻 首都圏各線』
この 101頁には「総武本線線路断面図」が掲示されています。