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260.  小学唱歌“故郷(ふるさと)”の山里 ・飯山線 /替佐−蓮

〈0001:bR10466:北信濃の山村風景・飯山線/替佐−蓮 間〉
唱歌「ふるさと」の中の“兔追いしかの山”をバックに替佐/
注記:フイルムの旧bヘ 31-18−6 です。
なお、この写真にはカラースライドがあります。

〈0005:bQ41041、冬景色:昭和24年2月下旬〉




〈撮影メモ〉。
この上野二枚は同じ場所からの撮影です。
 右側に白い壁の瓦屋根の土蔵、ところどころくずれかけている。
その先はしばらく棚田が続く。登り坂の築堤が斜線にへばりついていた。
左からの白い煙の列車、
背景は近い山々と遠い台形の山が見える。
ここは小学唱歌“故郷(ふるさと)”の山里です。

〈0002:千曲川に沿った笠倉集落の俯瞰風景:山田恒幸さま1972年2月撮影〉
替佐から飯山へ向かう国道の
この写真のオリジナル画像は下記のサイトをご覧下さい。
〈飯山線の蒸気機関車 1970−1973 - Yahoo!ブログ−千曲川通船と大笹街道−〉   
http://blogs.yahoo.co.jp/c56_iiyama/folder/478560.html

〈0003:a@24-1:C56102牽引の飯山行き客レ〉
土手には紫色の花を付けた豆科の雑草が茂っていた。昭和46-8-16

〈0004:2-3-1-5:信越本線豊能駅にて:昭和41年9月撮影〉
飯山線にへ向かうC5696号の引く旅客列車、早くも架線が

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〈紀行文〉
 小学唱歌“故郷(ふるさと)”:作詞 高野辰之、作曲 岡野貞一、大正3年
♪ 兎追ひしかの山
  小鮒釣りしかの川
  夢は今もめぐりて
  忘れがたき故郷♪

この懐かしい唱歌の作詞は国文学者である高野辰之さんである。氏の生まれ故郷は信越線の
豊野駅で飯山線に乗り継いで四つめの替佐(かえさ)駅から数qほどの山あいに入った永江(中野市永江)であった。ここには歌碑と高野辰之記念館、それに変わることのない自然に触れることができる。この唱歌の中で歌われている「兎追ひしかの山」は、斑尾山(まだらおさん)から広がる斑尾高原の山麓にあって、自宅の裏手の山とでも云える「大持山(だいもちやま)」を指しており、また「小鮒釣りきかの川」は、斑尾山をに永江の村を流れ下って千曲川に注いでいる斑川を指していたのだった。
 冒頭の2枚にお目に掛けた「北信濃の山村風景」に写っている背後の山々が『兔追いしかの山』なのであった。正に、この飯山線は“ふるさと”の原風景の中を走っていたのであった。
 さて、島崎藤村のの「千曲川スケッチ」を見習って、この「ふるさと」の地形と飯山線の沿線風景を素描してみよう。長野市から千曲川の流れに沿ってを下って行くと、左に飯綱山(いいずなやま、標高 1,917m)の山並み、右に高井富士と呼ばれる高社山(たかやしろやま、標高 1351m)の美しい姿が近づいてくると、善光寺平は尽きて、千曲川の流れは長野と新潟の県境をなす関田山脈からの山地に行く手をはばまれ流れを東に変える。そして谷底平野を下ると、やがて南から立ケ花丘陵が、北から奥手山丘陵が迫ってきて、ここを蛇行した峡谷で抜けると飯山盆地の広がりのなかへ流れ出た。ここまでの南岸は高社山へ続く平野が広がっているが、西側は関田山脈にそびえる斑尾山(標高 1,382m)から分かれ出た米山塊、奥手山丘陵などがちくまがわに迫っていて、それらの山地の谷を斑川が流れ下って扇状地を作りながら千曲川に注いでいた。
一方、善光寺の門前町の長野を抜けた北国街道は千曲川の左岸の河岸段丘の上を北上して牟礼宿を経て越後へ通じていた。この本道に対して屋代から松代、須坂を経て牟礼宿で本道に合流する北国東街道と云う脇道があって、その途中に神代宿(今の豊野地内)がある。ここは千曲川が流れを東へ変える辺りに位置していた。そして4万石の城下町である飯山へ至る飯山街道(古くは飯山道)は神代宿で北国東街道から分かれて千曲川左岸沿いに戸隠山(標高 1,904m)を源とすぃて南流してきた支流の鳥居川を渡ッて、向かう丘陵を越え曲川へ注ぐ支流を渡って替佐のむらへ、そして内陸に回り込んで替佐峠をくだれば飯山盆地に入っていた。明治34年頃になると千曲川にほぼ沿うように飯山盆地へ通じる新道が開かれるようになり、それが国道117号となり、それにほぼ並行して飯山鉄道も通じるようになった。
  飯山に向かう列車は豊野を発車するとしばらく住宅地を走り、信越本線が左へカーブして分かれるとすぐに信濃浅野に着く。その後は戸隠山を源に流れ下ってきた鳥居川を渡り田園を眺めながら走り、やがて蟹沢の切通しを抜けて、東へカーブすると右側を流れる千曲川に近づき蟹の船着き場のある立ケ花駅となる。千曲川を挟んだ対岸は中野市の中心部の方向に当たっている。ここは明治21年に信越線が開通すると豊野駅から蟹沢の船着き場まで1里の道を歩いてきて、飯山行きの舟便に乗る人々で賑わったのだった。明治34年〜37年に島崎藤村が飯山を訪れた際にも船便に乗っており、その時の様子を写生文である『千曲川スケッチ』で描写している。これを記念する文学碑が近くに建てられている。
ここを発車後は千曲川に沿って丘陵地を蛇行しながら流れ込む川の谷を渡る度にアップダウンしながら淡々と日本の農村の原風景の中を走り続ける。次の上今井辺りまでは、積雪も意外に少なく、昔は水田では米と麦の二毛作が行われており、山の斜面では「りんご」、桃、それに梨や「あんず」、「プラム」などの果樹園が広がると云う恵まれた土地柄でもあった。やがて斑川を渡って2qほど走ると小学唱「ふるさと」のメロデーが迎えてくれる替佐駅となる。
ここは斑尾山の南東山麓に当たるの奥手山丘陵から米山山塊に掛けた辺りを、ゆったりと流れ下る斑川が作り出した永江盆地から千曲川左岸に広がる扇状地であった。このように村内を斑川が流下する地形が“狭隘「かいさ」”であることから「替佐(かえさ)」の郷名が生まれたとする説が云われている。この斑尾山の一帯の豊かな森林は落葉樹林が多く、その落ち葉の堆積によって出来た厚い土壌は降雨の保水力が高いため、ここを源に流れ下る斑側には堰が一つも必要のない穏やかな川であることが渓流釣りの世界では良く知られているほどであり、唱歌に歌われる「小鮒釣りしかの川」にふさわしいじょうけいであり、また永江盆地は菜種油を採るための菜種の畑が広がっている風景でもあった。それに加えて、この辺りは戦国ロマンの里としても知られており、千曲川を挟んで二つの山城痕が残っている。その一つは替佐駅の西0.5qにある90mの城山に替佐城があり、もう一つは対岸の蛇行した川に着きだしている高さ190mの断崖の上に壁田城跡が望まれるからである。
 替佐駅を出た列車は20‰の急勾配に、R180のSカーブの続く築堤を登って行くと、右手眼下には蛇行する千曲川に沿って笠倉の集落が見下ろすことができた。この風景は、二枚目に掲げた国道117号から撮った写真から推察して頂きたい。この長い坂道は昔の飯山道で云えば替佐峠に当たる峠道なのだが、この先には石積みのトンネルを二本抜けるようになっている。この区間は飯山線の中でも千曲川の眺望が一番良い所と云えるだろうか。
 それに、冬の夜明け前の笠倉集落の辺りで、夜中の静寂の中を替佐駅を通過して長い築堤を登ってトンネルへ消えるまでの長い録音を何回も試みたことが思い出された。それには客車三輛を従えた急行「戸狩スキー号」を牽いたC12が歯切れの良いドラフト音を谷間に響かせて制限速度30q/hで通り過ぎて行く情景はたまらない魅力であった。その帰り際に、一枚目の写真の前景となった美しい白壁の土蔵を見付けたのであった。今はこの二つのトンネルの区間は新線に切り替えられており、古いトンネルは村の道路に使われており、二つ目のトンネルの壁には「硲(はさま)トンネル」の銘板が残っているようである。
しばらく走ると飯山市へと変わり、蓮(はちす)辺りからは周囲が開けて盆地の田園風景へと変わり、やがて市街地へと入ると飯山に到着する。
 ここからは飯山線の生い立ちについて触れておきたい。明治初めに東京と京都を結ぶ幹線鉄道のルート決定を委託されたイギリス人技師長R.V.ボイルは、信州を通る中山道ルートを推奨し、これに付随して上田から分岐して、千曲川東岸を通り、屋代−松代−飯山−十日町を経て、新潟に至る北越ルートも合わせて報告していたと云われる。そして明治17年の中山道線の着工を受けて、明治18年には中山道線の資材運搬を目的として信越線が日本海岸の港町 直江津から着工され着々と進んだ。しかし、肝心の中山道ルートは難工事が見込まれたため東海道ルートへと計画が変更となってしまったが、直江津〜軽井沢間は明治21年に開通していたのだった。続いて新潟〜直江津間の北越鉄道が私鉄として開業したこともあって、先に北越ルートとしての新潟を目指した千曲川沿岸鉄道の夢は消えてしまったようだ。その証拠には、政府がこれから建設すべき鉄道線を定めた明治25年公布の鉄道敷設法には篠ノ井線だけが予定線に載っていただけであったからである。
この信越線の開通によって千曲川の西岸(左岸)の町々は大いに繁栄したのだったが、このような恩恵にあずからなかった河東の町々での鉄道を敷設しようとする機運が次第に生まれつつあった。そして明治43年の軽便鉄道法の制定後の全国の地方私鉄建設ブームの影響を受けて急に動きが活発になった。そして北信鉄道や佐久鉄道などから鉄道敷設の免許申請が出された。例えば、大正5年の北信鉄道では、長野より千曲川を渡って東岸を須坂・中野を経て飯山へ至る計画であった。最終的には、免許は佐久鉄道が得手、屋代−須坂間の実測を川東セントして始めた。そして大正9年になると、その事業を受け継いで設立された川東鉄道が千曲川東岸の町々を連絡する鉄道の建設に入る一方、将来は新潟県の十日町への延伸が計画されていた。しかし実現したのは須坂から木島まで延伸開通したのは大正14年(1925年)のことであった。
飯山の人たちにとっても鉄道敷設は長年の悲願であったが、大正5年ころに計画された北信鉄道では、長野から千曲川を渡って須を経て飯山へ来ると思っていだのだったが、再び千曲川を渡る架橋の資金が不足したことから対岸の安田までとなったことに危惧を抱いたのだった。そこで、飯山の人たちは信越線の豊野から千曲川西岸沿いに、他の町村を通らずに直接飯山に至る飯山鉄道の敷設運動を高めた。その後も飯山地方の人たちは、この鉄道の重要性を主張しつつ再三にわたって国への請願を行ったが実現に至らなかった。やがて、北信鉄道は資金難で消えたが、免許を得た河東鉄道(現長野電鉄)はなかなか飯山へは来なかった。それは千曲川の架橋の問題、そして他の町村、例えば中野や野沢温泉村などのの鉄道計画との綱引きがえいきょうしていたのであった。そして、大正6年には豊野の(蟹沢)−飯山の舟運に代わる交通手段として、飯山の経済人たちは千曲川西岸を通る明治34年ころに開通した飯山街道の新道に沿った飯山鉄道を計画し免許を得ることができた。しかし第一次世界大戦の影響で工費が高騰、着工が危ぶまれる事態になった。これは千曲川西岸のけわしい山沿いのルートで、カーブや勾配が多く、切通しや築堤やトンネルなどが必要であったから尚更であった。やがて、地元の熱い期待を受けて、豊野〜飯山間19.3kmが大正10年10月に開業した。それは大きく蛇行する千曲川の河岸段丘にへばりついて等高線にやさしく寄り添うように多くのカーブとアップダウン、それに切り通しや築堤を築き、トンネルヲ掘った簡易線であったが、飯山の人たちに取っては県長のある野野へ僅か46分で行ける便利な鉄道となった。遅ればせながら大正11年(1922年)に公布された改正鉄道敷設法では予定セントして『53 信越線 豊野より飯山ヲ經テ新潟縣十日町ニ至ル鐵道、および飯山ヨリ分岐シテ屋代ニ至ル鐵道』が記載されたのであった。

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〈大変参考にさせて頂いたさいとのリンク:
「飯山線の蒸気機関車 1970-1973 - Yahoo!ブログ」  
http://blogs.yahoo.co.jp/c56_iiyama

ここに掲載された写真のキャプション:
・飯山線最大の難所、替佐から笠倉の峠にかけての急勾配をMAX10両の貨車を牽いてC56が登ります
替佐出発の汽笛が鳴ってからどの位たったでしょう。笠倉の田んぼで待っていると漸く坂を登ってくるC56が見えてきました。非力なC56がMAX10両の貨車を牽いて喘ぎあえぎ坂を登ります。速度は20km/h以下でしょうか
峠のトンネルまでもう一息、ドラフトが笠倉の田んぼに響き渡ります
・1972年10月1日で飯山線のC56は引退し、新鋭のDD16にバトンタッチしました
笠倉の峠まであと僅かのS字カーブです。鉄道ジオラマにありそうなカーフです

明治43年の軽便鉄道法制定により、鉄道敷設が容易になり、大正10年飯山の人たちは独自の資本で飯山鉄道を敷設しました。財政的に厳しかったため、ご覧のようなカーブの多い軽便鉄道に近いものとなりました

飯山鉄道開通から遡ること33年前の明治21年に官営鉄道として開通した信越線の立派さに比べると、等高線にやさしく寄り添うように敷かれた飯山線の線路は、健気ささえ感じます

手前のカーブはR200、奥のカーブはR180-速度制限35km/hで、ここに来ると列車は最徐行です。
〈引用させて頂き有難うございました。〉