自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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259.  海抜ゼロメートル地帯を行く ・関西本線  永和−弥富

〈0001:31−41−6:早朝の釣り堀のある風景〉
関西本線・永和−弥富


〈0002:31−10−3:夕陽を浴びて発車するD51〉
関西本線 八田

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〈紀行文〉
 私の勤めるホンダには三重県の鈴鹿市にも乗用車組み立て工場があったので、度々クルマで出張して、その往復の途中で関西本線のSLの姿を撮ることを試みたことがあった。そのスナップの中から、に二枚ほどの印象深かかった写真をお目に掛けたい。
夜明け近くになって名古屋市内に入り国道1号線から分かれてバイパスの名四国道を南下して、ようやく市外が途切れて田園地帯に入った。そこで、この朝は蟹江の町から木曽川を渡る手前の弥富の町の辺りまで国道を外れて関西本線に沿うように道を探しながら南下した。なんとかして、この地域の風物詩を見付けて、それを前景に通勤列車を引くC57の姿を狙おうとする魂胆からであった。
この地域は濃尾三川と呼ばれる木曽川・揖斐川(いびがわ)・長良川が伊勢湾へ注ごうとする河口に近く、長年にわたって木曽川が運ンできた土砂の堆積によって生まれた広い低湿地があって、江戸時代から明治の初めにかけて盛んに行われた新田開発によって豊かな農村が開かれていた。それで、ここの地形は元々平らで地面が低かったことに加えて、昭和30年代中ごろからの多量の地下水の汲み上げによる地面が急に沈んでしまって、今や全域が海面より低い海抜ゼロメートル地帯になってしまっているのだった。この関西本線の弥富駅の標高は海抜マイナス0.93mであって、日本一低い地上駅なのであった。この弥富周辺の土壌の地質は木曽川のもたらした粘土質であって、これが“金魚(きんぎょ)”の赤色を鮮やかにする効能がアルコとが判り、江戸時代から“弥富金魚”を産する日本一の金魚養殖の地として繁栄してきたのであった。そこで金魚の養殖池を前景にと探し回っているうちに、遠くに釣り堀を前景に関西本線の築堤を発見した。そこで釣り人のたたずんで居る釣り堀に恵まれて撮った作品が一枚目である。すこし遠過ぎて135o望遠を使ったこともあって、機関車の前半分しか撮れず、それに足回りに夏草が邪魔をしてしまった。時間のゆとりと意欲さえあれば草刈りを敢行するところなのだが、会議の時間に急がされてしまった。
確か、撮ったのは永和駅から弥富駅の間ではと思うのだが、周辺は田園地帯であった。その後に、この辺りに設けられた白信号場では、稀に亀がポイントやレールに挟まって列車が止まると云う事態が起こるほどの土地柄のようであった。
その昔の江戸時代には、東海道の本会道は宮宿−桑名宿間は「七里の渡し」と呼ばれた伊勢湾を舟で渡る海路であった。それに対して脇街道は「佐屋路」であって、北を回って宮宿−桑名宿間を9里の陸路であったが、もの末端には「三里の渡し(佐屋の渡し)」が含まれていたが、こちらも船酔いを嫌う人たちで賑わっていた。この渡しは佐屋宿の面する佐屋川から木曽川へ入り、鰻江(うなぎえ)川を通って桑名宿で東海道に合流する3里(12km)の航路であったが、江戸時代後期になると佐屋川が土砂の堆積で浅くなり大型渡船が航行に支障が出始めていた。これに対して、明治二年(1869年)に弥富村の人が干拓された新田を通って弥富宿の前ケ須から熱田の宮宿に至る近道「前ケ須街道」を提案していたが、明治五年(1872年)に政府は佐屋路に代わって新東海道(前ヶ須街道)を正式に定めて開通させているのである。
さらに時代が下って、明治中頃になると、今の関西本線の前身である関西鉄道が既に全通して間もない官設鉄道の東海道線の通るルートから外れてしまった三重県や滋賀県の旧東海道沿いの地域を東海道線の通る草津駅に連絡する鉄道として明治21年(1888年
)に三重県の四日市に設立された。そして明治23年には東海道線の草津から亀山を経て四日市まで開通させ、続いて南は津へ、北は桑名まで伸びていた。続いて西へは奈良、大阪へ、東は名古屋への延伸する計画を進めていた。中でも桑名−名古屋間の建設での最大の難所であった桑名−弥富間に横たわる濃尾三川(木曽川と長良川を合流した揖斐川)を渡る長大な架橋を克服して名古屋へ開通したのは明28年であった。この低い平地に路線を敷設するには水害を避けるためと、川面の高い天井川となっていた多くの河川を渡るため、築堤の上に線路が敷かれているところが多かったようだった。
さて二枚目は、仕事が早めに終わったので直ぐに帰途についた途中でのショットである。海抜ゼロメートル地帯を抜けて名古屋市内に入った所で、行く手の左に黒煙の立ち昇っているのを目ざとく見付けた。近づくと貨車の入れ替えがあるらしくDLの鋭いホイッスルが聞こえてきた。ここは関西本線の八田駅であって、大正7年(1918年)に名古屋−蟹江間に設けられた信号所が始まりで、その7年後からは専用線発着の貨物の取扱いが始まったと云う歴史がある。それは東側へは三菱重工業の専用線で、西側には秩父セメントと野田セメントの包装所のサイロのある袋装所があってセメント専用貨車の群がた発着していた。最近は三岐鉄道の上藤原駅発のセメント専用列車が関西本線の富田駅経由で到着していた。これは三重県の鈴鹿山脈の一端にそびえる藤原岳(標高 1,144mから採取された石灰岩を原料にしたセメントを小野田セメントと日本セメントの両藤原工場が製造しており、この工場の専用鉄道として建設された三岐鉄道によって原材料や製品が関西本線を経由して運ばれていたのであった。
午後の八田駅の側線には既に入れ替えを済ました下りの貨物列車が待避中で煙を上げていたのだった。都合の良いことに、その西側には近鉄名古屋線の走る築堤が通っていたのをみつけて、その土手から、冬の斜光線を浴びて発車して行くD51の姿を捕らえた。
そう云えば名古屋から桑名にかけては、関西本線と近鉄の線路がお互いにまとわりつくように並行して走っていた。その隣接した高い築堤があったり、昔の近鉄の廃線痕が関西本線を跨いでいた築堤が残っていたりして、思わぬ所で平地を走る関西本線のC57を俯瞰撮影が出来たりして楽しかった。このようにお互いの線路が接近しているのも、近鉄の前身である参宮急行電鉄が桑名から名古屋へ延伸を果たす際の事情に負っているらしい。その一例には、この建設における最大の難題は濃尾三川(木曽川・長良川を合流した揖斐川)への架橋における技術的と資金面の不測であった。その数年前に国鉄の関西本線では蒸気機関車の重量化・大型化に対応できないため、明治中頃に架けられたイギリス製の木曽川橋梁(865m)と揖斐川橋梁(987m)の寿命が残っていたのにも関わらず、昭和4年(1929年)には新鉄橋を並行して架橋したので、旧鉄橋は配線となり他への活用を待っていたのであった。ここに着目した参宮急行電鉄では、「電車なら蒸気機関車より格段に軽量であるから、充分に運行が可能であろう」との判断して、旧鉄橋の払い下げを受けて、この部分だけを単線とし、その他の区間は複線として桑名−名古屋間を昭和13年(1938年)に開通させたのであった。この鉄橋は昭和34年(1959年)まで使われていたと云うのであった。


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