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257.   笹森丘陵の折渡峠と鳥海山遠望 ・羽越本線 /折渡〜上浜

〈0001:24−1−3:折渡峠へ向かう上り列車」
折渡−羽後岩谷間の折渡トンネルを目指し

〈0002:カラーbP335:残雪の鳥海山、上浜-象潟間〉



〈撮影メモ〉
『下回りがくまなく見えているので、もう夕方近い時間でしょう。ラジアスロッドが下がっていることから、快調に飛ばすD51の快いブラストが聞こえてきそうですね。』(「国鉄時代」編集長 山下さまからの解説です。
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〈紀行文〉
 昭和46年のゴールデンウイークの北への撮影行からの帰り道を羽越本線沿いの国道7号線を南下することにしていた。そして泊まった秋田市郊外をクルマで早朝に出発した。ここの秋田駅を出ると奥羽本線は左にカーブするのに対し、羽越本線はまっすぐ南下して市街地を走り抜け、全長約600mの雄物川橋梁を渡った。やがて、工場地帯への貨物支線が左右に分かれている新屋駅を過ぎると、急に丘陵が迫り短いトンネルを抜けた。そして日本海が見えてきて、桂根駅を過ぎた。実は、秋田駅の西方約3kmにある八橋を中心として、北は旭川、南は新屋に至る南北約15km、幅約500mの細長い地域が八橋油田であり、その南に桂根油田が続いていた。この羽越本線の沿線が秋田の油田地帯の一つであったのだが、その日本一の原油湯生産を誇った面影は既にすっかり消えてしまっていたのだった。
この先の沿線の地図を見ると、下浜から羽後亀田までの間の線路が海沿いを走っていたので、日本海をバックにSLが狙えるのではと思ったが、行けども 行けども松の防風林ばかりで、海が見えなかった。そう云えば、この羽越本線は日本海の海辺沿いを延々と走っており、この沿線独特な“飛砂防止林”が大正10年(1921年)から約に2qにわたって植えられたのを手始めに、今では延長約94qにも達しており、今や最初の場所は鉄道記念物となっている。それは冬の日本海からの強い西の季節風に飛ばされ運ばれてきた海砂が線路に堆積する被害が発生した上に、ここを走っている蒸気機関車のむきだしになっている足回りの走り装置の車軸やピストン棒などの滑動部分に付着して、軸焼けや部品の損傷などの支障を与えていたからであった。そして、江戸時代中期に地元のの亀田藩の篤農家、石川善兵衛さんが黒松 1151万本を3代にわたって植林し続けて、飛砂から耕地を守る防砂林を作り上げた先例に範を取っておこなった対策であった。
次の道川(みちかわ)駅も駅前は海水浴場であって、ここは戦後に始まった日本の宇宙開発の原点である初のロケット発射実験場が設けられていた祈念すべき地なのであった。
この少し先で、海岸に沿って南下する国道7号線としばし分かれて、鉄道は内陸に向きを変えた。そして岩城亀田藩2万石の城下町である亀田町にほど近い羽後亀田駅を通ってから、さらに信号場然とした風情を残す折渡駅を通過して、間もなく列車は笹森丘陵の一端を貫く折渡トンネルに突入して行った。一方、クルマの私は、羽後亀田駅の辺りから秋田県道69号本荘岩城線にはいり、トンネルに向かう線路に沿うってすすみ、つづら折りの峠道を標高 140mほどの折渡峠を超えて小盆地の中信である大内町へ向かっていた。私も昔ながらの峠への坂道の途中から上り列車を俯瞰(ふかん)撮影することができた。
 このトンネルを出た列車は芋川の流れる小さな盆地の大内町の中心駅である羽後岩谷駅を経て、鳥海山の北麓に広がる本荘平野を流れ下る子吉川を渡ると本荘の街並みに入った。ここも県南の中心地で古い城下町の面影を残していた。
さて、ここで一休みして、羽越本線の建設の話題に入ろう。この
羽越本線は今でこそ日本海縦貫線の一翼を成している堂堂たる幹線であるが、今後全国に敷設すべき鉄道路線を33区間を一括指定した鉄道敷設法が明治25年に発布された時には、この33路線ノ中に羽越線に相当する路線は見当たらなかった。当時の路線選定には、海運と競合する場合の鉄道の敷設はなるべく認めない方針であったからであろうか。確かに羽越線の走る日本海沿岸は伝統的な北前船の航路に辺り、当時の海運は活況を呈していたことは確かであった。
この3路線の中に今の羽越本線となっている区間が該当する路線としては、
「新津−新発田 間」が、「一 新潟縣下直江津または、は群馬縣下前橋、もしくは長野縣下豐豊野ヨリ新潟縣下新潟および新発田ニ至ル鐵道」が北越鉄道の手で建設が進められていた。その他に、「新発田−坂町? 間」については、北越線と奥羽線の連絡線として「一 新潟縣下新發田ヨリ山形縣下米澤ニ至ル鐵道もしくは新潟縣下新津ヨリ福島縣下若松ヲ經テ白河、本宮近傍ニ至ル鐵道」となっていた。しかし、そのルートは明確ではなかった。その後、明治28年に鉄道敷設法を改正して、羽越線(新発田−米沢)を岩越線とは明確に区別して、磐越線は予定線と定めた。(文献@)
次に明治26年に行われた全国鉄道線路調査に際して、「新発田−秋田 間」の羽越線が計上された。それは、その頃の冬の日本海は荒天が続いて、舟運は途絶し勝ちであったことから鉄道の敷設を計画したもののようである。(文献A)
その後、明治38年12月23日召集された第22回帝国議会で「新潟県新発田から村上、山形県鶴岡、酒田、そして秋田県本荘を経て秋田に至る鉄道」が予定線として可決した。(文献B)
なお、直江津−新発田間は北越海岸線として計上され、北越鉄道に免許されていたが新津から新発田までの建設は、その途中にある阿賀野への長大なの架橋が着工をためらわせていたが国有化後に大正元年9月2開通している。
次に明治45年法律第2号として、「羽越および岩越予定線の内、新潟県下新発田より村上、山形県下鶴岡・酒田・秋田県下本庄を経て秋田に至る鉄道中、新潟県下新発田より村上に至る鉄道」が一期予定線に編入された。大正1年9月着工し、大正3年6月1日中条に至り、11月1日村上まで開業した。
続いて、大正4年6月に鉄道敷設法が改正されて、第7条第6項の第1期線に羽越線の海岸線(村上−秋田 間)が追加された。そして北線は秋田−象潟(きさがた)間、中線を酒田−象潟、余目−鼠ヶ崎間とし、この中線は既に開通していた陸羽西線を利用して工事の速成を促すものであった。南線を村上−鼠ヶ関間とした。
その南線と中仙は予定通り大正10年までに開通し、そして羽越線として全通したのは大正13年(1924年)であった。
  しかし、全通が遅れた背景には、羽越北線の秋田〜象潟間の二箇所で難工事に直面していたからであった。その第一は羽後牛島−新屋間に架ける雄物川橋梁は雄物川の度重なる増水により頻繁に工事が中断していたし、第二の、羽後亀田−羽後岩谷 間では粘土層の軟弱地盤のためトンネル建設が一時中断して大幅に工事が遅れていたが、南側は、大正11年には象潟から羽後本荘を経て〜羽後岩谷までがかいつうして、トンネルの完成を待っていたのだった。やがて日本初のシールド工法を採用してトンネルを完成した。着工から8年の歳月を費やして、大正13年(1924年)4月に羽越本線として全通した。
  この羽越線の建設は最急勾配を10‰に抑える方針で進められた。これは先に開通していた東北本線や奥羽本線には急勾配区間が存在していて、効率的な列車運用が思うに任せなかったことを避ける目的があったものと推察される。
その羽越線のルートは起伏の多い日本海岸に沿って南下していたのだったが、亀田町から海岸を離れて折渡峠を越え、大内町を経て本荘町に至る内陸ルートが敢えて選ばれた。それは海岸に沿っても別に工事が困難だった訳では無かったが、広がった豊かな田園地帯の中心の街並みの栄えた内陸にある亀田町や大内町、本荘町を経由するための迂回ルートとであったのだった。そのため、その間によこたわる出は丘陵の一つである笹森丘陵西端の折渡峠の下をトンネルで抜けることとなり、勾配を10‰におさえるためトンネルは 1,438mの全長となった。この掘削が進み出してから、その途中で地質が軟弱な粘度質に変わり、坑内を支えていた支保工と呼ばれる柱が壊れ、大正8年8月に工事が中断してしまった。その原因としては、「掘ると上下左右からばかりでなく、下からも圧力が掛かり、岩が上ってくる」と云う現象であった。この土のの膨張は最大90pであった。これを克服するために日本で初めてシールド掘削機を投入することになった。これは、鋼鉄製の円筒などで土や水の圧力から切羽と呼ばれる内部を守り、軟弱な地盤での掘削を可能にする工法で、十九世紀中ごろまでに英国で実用化されていた。そして、大正8〜9年にかけ鉄道総合研究所のの前身の鉄道院総裁官房研究所が設計し、横河橋梁製作所(現横河ブリッジ)で完成した。当時は3層に分かれた掘削機の中に十数人が入る手掘り式であった。その外径7.37m、長さ3.66m、重量86トンで、推進用のジャッキの扱いが難しく、大正9年9月から11年12月にかけて176.3メートル進んだところで動かなくなった。その搬出が困難なので、外周の一部としてそのまま埋められたとみられる。従来工法で残りを掘り進めて大正13年に折渡トンネルは開通した。
ところが、昭和47年のトンネル電化工事の最中に、このシールド掘削機が発見され、保存用に先端を幅1・2m、長さ2mを切断して、鉄道総合研究所が保管している。そのトンネル南口である岩谷側坑口付近には、この工法による掘鑿折渡隧道竣工記念碑が昭和21年ニ建られており、それに並んでトンネル工事での殉難者の供養碑も建てられている。
 ここから、再び沿線描写に戻ることにしよう。この折渡トンネルを抜けると本庄平野である。この平野の中央部を鳥海山を源として 63 kmの長さの子吉川と、その支流である芋川などが流れていた。そして、この平野は東部を笹森丘陵、南を鳥海高原、西を日本海に囲まれており、水田をはじめとする農地が多く広がり、下流部には本荘の市街地がある。町から3kmほど下ると日本海に注ぐ河口があり、両岸には黒松の防砂林が広がっており、海岸沿いに国道7号(酒田街道が南北へ伸びていて、ここから分岐して本荘街道、矢島街道(それぞれ国道107号、108号)が内陸部に通じている。
羽後本荘駅を出ると左側に(矢島線(今の由利高原鉄道)の線路がしばらく並走してから街外れで離れていった。西目駅を過ぎると
右手には再び日本海が見えてきて、国道7号線と並走しながら二つ駅を通り過ぎて、「奥の細道」の舞台である象潟(きさかた)駅となる。沿線には、かって「西の松島」と称された絶景の“なれの果て”である水田には九十九島跡のこんもりと盛上がった小丘がいくつか見えていたのだった。
 象潟駅を出てしばらくするとスパン長 12.2mのプレートガーター桁4連の奈曾川橋梁があって、左手に鳥海山の山容が見えてきた。この上流には国の名勝となった奈曾川の滝が鳥海山噴出の溶岩絶壁にかかっていて、高さ26m、落口の幅11mの滝の周辺は老杉などが繁っていると言う。この山は山形県と秋田県に跨がる標高 2,236mの活火山で、秋田県では秋田富士とも呼ばれていて、日本百名山であり、日本の地質百選にも選ばれている。次の上浜駅が近づくと、この一帯は鳥海山のすそ野が日本海に断崖をなして落ち込むところであって秋田県の南端に近い。






 
■参考文献
@:山形の鉄道建設熱を考える(続) - 仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル - 楽天ブログ(Blog) 
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200701030000/
A:川上幸義の奥羽線羽越線鉄道史 
http://ktymtskz.my.coocan.jp/kawakami/ouu.htm
B:「羽越本線の90年」、瀬古龍雄監、郷土出版社、平成 9年(1997年)発行。

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〈蛇足〉:参考文献Aの全文を転載します。
 羽越北線の亀田−本荘間は先に述べた理由で、海岸から離れて岩谷を経由することになり、折渡(おりわたり)峠経由折渡トンネル(延長1,438m)を掘ることにしたが、地質は頁岩で非常に悪く、坑道が通って10日もしないうちに、上下左右の壁が盛上ってきて、塞がってしまった。最初は全然異常がなかったのであるし、大抵はそう長い距離に亘るものではないのであるが、折渡はそうでなく、普通の工法では見込がないので、シールド工法を採用することになった。

 1823年イギリスのM.I.ブルネルがテームズ河底にトンネルを掘るに際して案出したもので、鋼鉄の円筒の周囲に水圧ジャッキで動く刃を付け、小部分ずつ掘り、でき上れば直ぐ鋳鉄のセグメントで被い、全周が被われると、それを足がかりとして、ジャッキを動かしていく方式である。今日では珍しくないが、当時は水底トンネル以外に用いた例はわが国にはなかった。これは主任技師八田嘉明(後の鉄相)の英断であった。 
 もともと、羽越線は最急勾配1/100として計画されたが、折渡トンネルの中には短距離ながら1/60勾配が出現し、秋田側の1/110勾配3.4km、本荘側の1/100勾配2.2kmの連続とともに、羽越線の難所とされている。
折渡トンネル工事の遅延により、象潟−羽後本荘間の方が早く、大正11年6月30日開通し、同10月16日亀田−羽後本荘間が開業し、秋田−三瀬間が開通した。