自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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236.  城東貨物線を訪ねて ・片町線貨物支線 /蛇草−竜華操車場
−蛇草(はぐさ)信号場・竜華操車場・関西本線大和川鉄橋(河内堅上−王寺)-

〈0001:bO71222:近鉄 俊徳道駅からの城東貨物線の跨線橋〉



〈撮影メモ〉
『昭和42年頃の近鉄 俊徳道駅は地上駅で、ホームの先の不ミリ理の向こうには城東貨物線が近鉄大阪線を跨ぐ跨線橋が眺められて、貨物列車を牽いたSLが通過
して行く所であった。現在は近鉄がJRの上を越えて
います。 貨物線は今や大阪東線
として生まれ変わりました。』

〈0002:bO71154:蛇草信号場、867レと868レとの交換〉



『早朝の信号場には868レが先に到着していた。やがて867レが力行して通過して行った。未だ周りの町工場は眠っているようであった。』

〈0003:bO71215:蛇草信号場、D52牽引の877レ発車〉



『集煙装置を煙突に装着したD52 142号の牽く貨物列車が蛇草信号場を発車して行く。この下町のど真ん中に設けられた信号場には踏切が3か所も設けられてあったが、ここは最も幅の広い踏切である。』

〈0004:071166:竜華機関区のひととき〉




〈0005:071215:関西本線大和川第4鉄橋(河内堅上-王寺)辺り〉



『このサイトでしばしば出てくる大和側は奈良県桜井市の北東部、貝ヶ平山(かいがひらやま、標高822m)近辺を源流として、奈良盆地を西に向かって多くの支流を集めながら流れ下り、生駒山系と葛城山系の間を「亀の瀬」と呼ばれる峡谷を抜けて、大阪平野にでると柏原市で南河内を流れてきた石川と合流してまっすぐ西へと流れ、大阪と堺の間で大阪湾に注ぐ延長 68 kmの大河である。この峡谷に沿っている関西本線は大和川に6か所も鉄橋を架けて通り抜けていた。その中の手近な河内堅上駅で途中下車して大和川第4鉄橋の辺りを訪ねて驀進する 595れを捉えた。』

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〈紀行文〉
私が“城東貨物線”の名をを知る契機となったのは、書店の店頭に並んだ「鉄道ジャーナル」誌の表紙を見てからである。それには、城東貨物線の淀川土手を行くD52の姿が沈み行く真っ赤な大きな太陽の中にシルエットとして捉えた寫眞であったからである。そして、地図を調べてみると、ここには“蛇草(はぐさ)信号場”とか、“竜華(りゅうげ)操車場“などの地名が見えて、興味をそそられた。昭和42年初秋に大阪への出張があり、これをのチャンスに城東貨物線を尋ねた。
この城東貨物線と云うのは通称で正規の線名は片町線貨物支線だとのことであった。この片町線とは大阪駅の環状線外周りを4.2qほど南へ行った3番目の京橋駅を終点にして東へ鴫野(しぎの)駅(京橋より1.6q)から放出駅(京橋より3.2q)を経て京都府南部の関西本線の木津駅(京橋より44.8km)に至る学研都市線とも称される郊外路線である。この線の前身は1895年(明治28年)2寝屋川の舟運に代わって開通した浪速鉄道(片町−放出−四条畷(しじょうなわて)間)を買収した関西鉄道が東へ木ッまで延伸して、片町−名古屋間を直通する本線なった由緒ある路線であった。後に関西鉄道が大阪鉄道を買収して港町−天王寺-奈良−加茂−名古屋が本線となると、支線に格下げされ、国有化後にはさ片町線となったの手あった。
この貨物支線よ成り立ちの略歴は、東海道本線と関西本線とお連絡する貨物列車の運行を市街地の中心を通る大阪駅-京橋駅-天王寺駅のルートから迂回させるために昭和の初期に設けられた路線であった。当初の貨物線のルートは東海道線の梅田〜片町線の放出〜関西本線の平野間で予定されていたが、大阪駅でのスイッチバックの煩雑を避けるため、東海道本線の吹田操車場から放出へと直結させることになった。そして、片町線の放出駅を起点に西へ鴫野(しぎの)駅(起点より1.6q)で分岐して淀川を渡り東海道線の吹田操車場(起点より(10.7km)に至る北線が昭和4年(1929年)に開業した。続いて、放出駅を起点に南下して関西本線の平野駅(起点より8.4q)に至る南線が昭和6年に開通した。やがて、昭和13年(1938年)になると関西本線のひらの駅と八尾駅の中ほどにある久宝駅付近に竜華操作場が設けられて
昭和14年(1939年)に平野駅から竜華操車場を経て八尾駅までの2.0qが延長されて、放出-八尾間の片町線貨物支線の北線は10.4qとなった。
その後の昭和18年(1943年)に放出から4.8q、関西本線平野から3.6qの位置に列車行き違い用の蛇草(はぐさ)信号場が開設された。続いて竜華操車場へ阪和線からの貨物列車を直通させるために関西本線貨物支線(通称、阪和貨物線)が関西本線の八尾駅を起点として、竜華操車場(起点より0.8q)-久宝寺(起点より1.2q)-阪和線の杉本町駅(起点より11.3km)が計画され、戦時中の中断を経て昭和27年(1952年)に開業した。これによって、竜華操車場は関西本線・臨港線・和歌山からの阪和線・東海道本線からの貨物の仕分けを担当することになったとあった。
 初日には夜明けと共に城東貨物線の「蛇草(はぐさ)信号場」へと出かけた。宿を飛び出して、環状線の外回り大阪駅起点7.7qほど南に行った鶴橋駅で降りて、近鉄大阪線に乗り換えて三つ目の俊徳道(しゅんとくみち)駅で降りた。降りたホームの先方のすぐ先には城東貨物線が近鉄大阪線をオーバークロスる跨線橋が見えていた。そこでしばらく待っていると左手からSLに聞かれた貨物列車がゆっくりと通過して行くのを撮ってから、徒歩で密集した市街地の中にある蛇草信号場へ向かった。
この“「草(はぐさ)”は関西の有名な難読地名の一つである。この地域は古代には大和川の川口一帯に広がるの湿地であった。そして、ここには蛇を祭る式内社「波牟許曾(はむこそ)神社」が存在している。この社名にある“波牟”は元来、物を口にくわえることを意味していたことから、「蛇」を指すようになったと云う。これが蛇草が“はぐさ”と読まれる起因だとされていた。いずれにせよ、蛇は福をもたらすものとして祭られていたのであった。しかし、この大字名の蛇も、信号場の名前も今や、この辺りは長瀬と云う町名に改名されてしまい、人の記憶の中から消え去ろうとしている。ちなみに蛇草信号場跡に設けられた「おおさか東線」の駅はJR長瀬駅となってしまった。
ここは列車交換を目的にした信号場であって、貨物列車は一時間に上下各1本はやって来た。
翌日の休日も同様に早朝から“竜華(たつはな)操車場”へ向かった。けさは環状線で南の天王寺駅へ下車し、ここで関西本線の普通列車に乗り込んで久宝寺駅で下車した。当時、ここは普通列車さえしばしば通過するほどの小駅だったが、現在は城東貨物線を活用して建設された「おおさか東線」(将来は新逢坂駅方面へ通じる予定)の起点駅として発展している。
ところで、“竜華(たちはな)”と云う神秘的な地名だが、八尾市に合併される前の中河内郡龍華町に基ずいていた。この地域は大和川と平野川に挟まれていて、昔から「橘島(たちばなじま)」と呼ばれていたちであったと云う。この地には奈良時代に創建された「龍華寺(りゅうげじ)」があったと云う。橘(たちばな)の別称「立花」を「龍華」と表記したのが起因とする説が有力のようであった。
ここの操車場の入れ換え作業の主役は大正生まれの9600、および8620型蒸気機関車であった。ここは平面上に並んだ仕分線に貨車を押し込む方式の平面ヤード式の操車場であった。ここでも仕分け作業をより効率的に行なうために「突放入換」が行なわれていた。
『それは先ず、入換機関車が仕分けする貨物列を仕分け線の前法にに引き出してくる。そして、必要箇所の連結器をを解放した後、推進運転でドラフト音を響かせながら貨車列を加速すして、ある程度スピードのついたところで機関車が急ブレーキをかける。これを「突放」という。解放された連結器より先頭側の貨車は慣性で切り離されて自力で走り続ける。貨車に添乗した操車係が、必要に応じて足踏みのブレーキを使い、いくつものポイントを渡って待ち受ける貨車に連結され、行き先別に組み替えられて貨物列車を編成してふのであった。』
その竜華操車場の一角に竜華機関区があって、ここの扇形庫(ラウンドハウス)は木造の渋い雰囲気を持っていた。
ここには、関西本線、片町線(城東貨物線、和歌山セン、その他周辺路線用の機関車として昭和39年(1964年)には、8620(14両)、9600(2両)、C58(9両)、D51(8両)など合計33両が所属する大所帯であった。それに出入りする機関車としては吹田第2区の2両の
D52、DD13などがあって賑やかであった。その後の昭和47年(1972年)3月に無煙化されてしまった。
 なんと云ってもスター的な蒸気機関車はD52であった。吹田第一機関区に所属するD5228とD52142の2両である。
そして、無煙化後は北海道の五稜郭機関区へ転属して行った。
 この時の帰途のルートは関西本線経由とした。そして、王寺付近での大和川鉄橋、ずっと東へ進んで中在家信号場、亀山機関区と駅などへの訪問を計画して城東貨物線に別れを告げた。

撮影:昭和42年(1967年)9月。