自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・関西のアラカルト
235.  京都の保津峡を行く ・山陰本線 /京都口(嵯峨-保津峡-馬堀)

〈0001:bO71135、保津峡俯瞰 T 、上り貨物列車〉
『初秋の早朝、京都嵐山の亀山公園の高台から保津峡を見下ろした風景です。その右岸には嵐山を訪れた人々のための旅館のたたずまいが散見されます。白煙をなびかせた列車はもうすぐ亀山トンネルに入ります。』




〈0002:bO71142、保津峡俯瞰 U: 921レ下り貨物〉
『早朝の静寂を破ってD51のドラフト音が山峡に反響し続けていました。』




〈0003:bQ30542:冬枯れの保津川の巨岩を前景に、昭和41.1月〉


〈撮影メモ〉
昭和46年正月休みに北九州の長崎本線を大村湾沿いで撮ろうとしてクルマで遠征の帰途に2年前から狙っていたさ山陰本線狭路口の保津峡の巨岩を前景に下C57の撮影を敢行した。
手持ちのコニカプレスが威力を発揮した。この画像は「国鉄時代」の山下編級長の手によって画像を調整してもらった結果C57 5号の姿も浮かびあがることが出来たのであった。有難うございます。

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〈紀行文〉
 昭和42年の初秋に大阪の枚方へ仕事で突然出掛ける機会がやって来た。そこで未だ行ったことのない山陰本線の保津峡辺りを訪ねることにした。
当時の京都駅は、駅舎側の1番線の西に山陰本線の屋根の付いた一本のホームがあって、それが山陰1番線と山陰2番線となっていた。ここには機関車を付け換えるための機まわり線が設けられており、その西には留置線があって旧型客車の編成が置かれていて、その先頭にはDF50やDD54、時にはC57の顔が見られた。
C57の牽引する園部行の普通列車は、京都駅を発車してから丹波口、二条、花園と市街地から住宅地へと進み、間もなく嵯峨駅に到着したので下車した。そして人気もまばらな保津峡の入り口である嵐山公園に向かった。
それは次のようなガイドブックの文章に誘われたからである。
『嵐山公園は保津川渓谷が平野に達したあたりに位置し、その中の亀山公園は標高295mの小倉山の南東部の小さな山全体を占めていた。この辺りは、「あかまつ」を主とし、「サクラ」、「カエデ」、「ヤマツツジ」などが生い茂っていた。その西側からの眺望は保津川の流れが一望できて、その山すその崖を山陰本線の列車が走り、それに保津川下りの船がゆっくりと通り過ぎると云う光景な俯瞰(ふかん)できる。』
まだ人もまばらな山道を登って俯瞰ポイントを定めた。
そこで1時間半ほど粘って3本の列車を撮った満足感に浸りながら駅へ戻った。
ここで掲げた〈0001〜2〉の2枚の写真の撮影ホイントについて、フイルム アルバムには「京都〜福知山 間」としか記載がなく、思い出せずに戸惑っていた所、HP 『思い出の車窓から』を主宰されておられる小田健一さまから多大なご示唆を頂き、この紀行文をまとめることが出来ました。厚く御礼を申し上げます。
〈参考サイトのリンク〉: 「想い出の車窓から」
 http://omoidenoshasoukara.web.fc2.com/
上のサイトの中に「山陰本線嵯峨-保津峡」・「山陰本線保津峡旧線」・「山陰本線馬堀 旧線」をご覧下さい。
 さてここで、沿線のロケハンを兼ねて再び列車に乗ることにした。
嵯峨を出ると程なく人家がなくなり嵯峨野の竹林の間を抜けて亀山トンネルに入った。(現在は、このトンネル手前に嵯峨野観光鉄道の「トロッコ嵐山駅」が設けられ、その手前で複線の新線が長い小倉山トンネルへ向かって右に分岐している。)この短いトンネルを抜けると、嵐山の上流の保津川が左に見えるようになる。左に大きくカーブして、トラス形式の保津川橋梁を渡った。これは径間 85.3nのワーレントラス形式一連の“二代目”の鉄橋であった。たしかに、山陰本線が保津川を渡る唯一の鉄橋であった。
その先ですぐに煉瓦造りの清武トンネルに入る。あとからしったのだが、このトンネルの京都側の坑門は最も装飾が立派で、上部には『清武』と刻まれた扁額が掲げられているそうだ。そこを抜ければ右の車窓に保津川が移っていた。やがて右手の保津川に架かる吊り橋が見えると保津峡駅に着いた。
地形図をみると、対岸に通じている道路は京都府道50号線京都日吉美山線で、右へは六丁峠を越えて嵐山へ抜けており、左はしばらく先で支流の水尾川の谷を回り込んで約3qほどで柚子(ゆず)の里で知られる水尾へ通じていた。従って保津川上流に沿っている道路は通じていないようであった。
(現在の「トロッコ保津峡駅」と保津峡駅とは直線距離で500mであるが、歩行できる道路は水尾川の谷を迂回しているため道なりの距離にして約1,100m離れている。)
さて、保津峡駅を発車した列車はすぐに短いトンネルを抜け、支流に架けられたプレートガータの鉄橋を渡って行く。ここからが保津峡の渓谷美の本番となるところであるようだ。6ヶ所に及ぶトンネル群、鉄橋、落石覆いや立派な石垣の擁壁(ようへき)などの連続は地形のけわしさを物語っている。特に保津川がΩのように蛇行する所では、少し長いトンネルで抜けてさかのぼって行く。
やがて周囲が開け亀岡盆地の地域に入ったようで、保津川が右に離れてしまうと、水田が見られる築堤を下って右に大きくカーブすると馬堀駅に到着する。
(現在は、この手前に嵯峨野観光鉄道の「トロッコ亀岡駅」が設けられた。)
ここで保津峡の区間が終わったので下車して、再び保津峡駅へ戻って来た。将来のためにもと、付近を2時間ばかり歩き回ってから、今回の撮影を切り上げた。
 しばらくして、本命のC57を保津峡で捉えるには周到な下調べさ必要なことが判った。その当時のC57は、梅小路機関区に6両、福知山機三区には主にDD54の予備機的存在の3両が在籍しており、京都−園部間の朝夕の通勤列車を中心に運用されていたので、朝晩の撮影条件の悪い時間帯だけだったのを覚えている。
いずれ、正月の連休に中國から九州方面へ出かける際の前哨戦で挑戦することにきめたのであった。この山陰本線京都口が無煙化になったのが4年後の昭和46年4月のダイヤ改正の時だったから2回は訪れて居いるはずである。
その時はクルマでの遠征だったから、まだ薄暗い京都嵐山から六丁峠(標高 181m)を越えて保津川沿いの左岸に出ると、亀山トンネルを抜けて、保津川橋梁を渡り、清滝トンネルを抜けた右岸の線路が見下ろすことができるのだが見落としてしまっていた。峠を降りると保津峡駅の対岸に出る。冬の水量の少ない河原に降りて列車を見上げるアングルをさがし、巨岩を前景にC57の下り普通列車を狙った。しかし山間は位のが難点であった。
 さて、この山陰本線が沿っている川は桂川(かつらがわ)と云うのが正規の名前で、延長が107qのある淀川水系の大支流であった。これは丹波山地を水源にして、広河原・花脊・京北・日吉を経て亀岡盆地に流れ込んきて「保津川」と称されるようになる。保津峡を流下り、嵐山付近からは大堰川の愛称で親しまれている。そして堰のある渡月橋からは再び桂川の名に戻り、そして伏見で鴨川と、大山崎にて木津川、宇治川と合流して淀川となり大阪湾に注いでいる。
桂川が亀岡盆地から京都盆地に出るまでの11.5qにわたって京都盆地の西北にそびえる愛宕山(標高 924m)の南麓の狭い山間部を蛇行して流れていることになる。この山の頂上には愛宕ジン社が祭られていて、かの明智光秀が本能寺の変の直前に参詣し、「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会(愛宕百韻)を催した山でしられている。
この部分が保津川であり、この山間部の渓谷が保津峡である。直線距離にして7.3qを11.5qもかかって落差約60mを蛇行しながら流れ下っている。この蛇行の原因は保津峡が★先行谷★であることによるとされている。これは勾配が緩いため川が自由に蛇行していた後から、川を横切るように東西に走る古生層の岩石からなる老ノ坂山地(丹波高原の一部)が徐々に隆起したが、その速度よりも谷の侵食速度が速かったために、蛇行していた流路がそのまま山地を削ったようなV字渓谷が出来たとする特異な地形なのであった。
 この山陰本線の前身である京都鉄道は軍港である京都の北部、舞鶴をめざして建設が始められた。そして明治32年8月に嵯峨(現・嵯峨嵐山)〜園部間を開業させた京都鉄道ではあったが、この保津峡工区があまりの難工事であったために資金が底をつき、やがては国有化された。そして山陰本線となった。
その後昭和50年代後半から始まった京都〜園部間の複線化、その後の電化などの計画に際して、この内、嵯峨〜馬堀間は急峻な保津峡に沿った屈曲の連続する線形であったため、長大なとんねると橋梁を多用した新線を平成元年3月にかいつうさせた。これにより一旦は廃止された嵯峨−保津峡−馬堀間の旧線は、沿線の景観の良さから1991年に嵯峨野観光鉄道として、山陰本線の嵯峨駅に隣接するトロッコ嵯峨から馬堀駅近くのトロッコ亀岡まで、DE10型ディーゼル機関車のプッシュプルによるトロッコ列車の走る区間として復活している。

撮影:昭和42年(1967年)9月15。