自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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234.  土気 (とけ)トンネル跡切り通し ・房総東線 /土気-大網

〈0002:bO70641:土気切り通しへのプロローグ @〉
『深くて狭いコンクリトの壁で囲まれた切り通しへのプロローグである台地の崖に入ろうとするところの谷の入り口での撮影をおめに掛けた。位切り通しのイメージが伝わるであろうか。』




〈0001:bO70642:土気切り通しへのプロローグ U〉




〈0003:bO70643:土気駅の朝の情景、C57 23スタンバイ〉




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〈紀行文〉
 私が埼玉県の狭山工場で“ホンダ スポーツS800”の塗装技術を担当していた 昭和40年末の頃のことだったろうか、いよいよ外国への輸出との話が聞こえ始めていた。手このクルマにはスカーレット系の鮮やかな濃いレッドの塗装色がシンボルカラーとして採用されていた。果たして、この塗色が紫外線の強い外国の環境に耐えられるかを実証する必要が出てきた。それへの権威のある試験法はアメリカのフロリダ天然暴露試験場での検定であることが知られていた。その予備試験として、関東地方で最も紫外線の強い房総半島の九十九里海岸の片貝集落の一角に自前の試験台を設けて、早速暴露試験を始めていたのであった。
ここへクルマで出かけるには、早朝に東京の下町を横断して京葉道路を経て千葉から国道126号(銚子-千葉)で東金へ出てから片貝海岸へ向かっていた。ある時に「五万分の一地形図 東金」を眺めていると、この国道よすこし南側に昔の街道があるのを見つけた。それは千葉県道20号千葉大網線であって、その愛称が“大網街道”となっていたのだった。このルートの位置は太平洋と東京湾に挟まれた房総半島が最もくびれた場所を通っていて、東京湾岸の内房と外房とを結ぶ最短ルートであった。この県道が沿っている昔の街道である大網街道こと土気往還は歴史のある峠道であった。この旧道は九十九里浜の漁獲物や農産物の外房の物資を内房や江戸へ運ん駄馬の通う物流の道筋で、大網から急坂を登って土気宿へ山を越えて、野田から取、松ヶ丘へとくだって千葉の登戸へと通じていた。この山越えには名前が付いていないようであったが、「土気(とけ)」と云う地名自体が“峠(とうげ)”から転化したものだと云われていることからも、ここにある土気宿の辺りが峠そのものと云える地形であった。
ところで、この峠の北側の標高が100mにも達する台地上は平安時代の昔に蝦夷(えぞ)に対する備えの砦(とりで)が築かれた所であった。そして鎌倉期には千葉氏一族の土気太郎が地頭に任ぜられ拠点としていた。やがて戦国期には酒井氏が150年間、5代にわたって城主としてこの地方を治め、城も堅固に改築されていった。それと同時に麓には城下町が栄えた。その後、秀吉の小田原征伐の後の関東仕置に際して廃城となってしまった。しかし城下町は大網街道の“峠”の宿場として鉄道の開通まで大いに栄えたと云うのであった。
 この宿場から南へ坂を下って現在の外房線の土気トンネルの上を越えて、房総鉄道時代に切り通しの上に架けられた善勝寺跨線橋を渡って台地(標高 90m)へ登ると善勝寺(顕本法華宗)が森の中にある。この台地の南端は善勝寺曲郭と呼ばれる土気城の一角であったようだ、ここは土気駅から東へ約2qの位置に当たっていて、房総鉄道の建設した土気隧道の上を越えた県道20号線が、この崖の下を大網へ向かってと下っていた。また、この台地上から東を展望すれば、眼下には九十九里浜平野が遠く太平洋岸まで続き、東上総を一望できる素晴らしい眺めである。
 この辺りの地形は、先ず房総半島の脊梁をなす房総丘陵(主峰は標高 408mの愛宕山)が北東へ次第に標高を低くして来て、房総台地と呼ばれる房総半島の北部へと移る地域に当たっていた。その房総台地へは西側から下総大地の東端が接していた。下総大地は東部に行くみ従って標高が高くなる傾斜した台地であって、北端部は標高100m程度まで達していて、房総台地との接合センは太平洋と東京湾の分水界を成していて、その東側は落差40〜50mの急崖が連なる東金崖線と云う特異な地形であった。その成員は海蝕によるとか、河川争奪によるとか諸説があるようた。特に、大網の近くには典型的な河川争奪地形が見られることでも有名であった。
 やがて旧街道に沿うように、明治21年(1888年)になって房総馬車鉄道が蘇我−大網-東金間・大網−茂原間に軌道の敷設を申請を行なったが開業には至らなかった。その後の混乱を乗り越えて明治27年(1894年)になって、房総鉄道が創立されて同様の路線を普通鉄道として着工した。この建設の最大の課題は標高9mの九十九里平野の中心の大網から標高 約79.9mの下総大地上の土気までの間 約5q弱の“けわしい”地形を登り詰めるルートの選定であった。それには隧道(トンネル)や橋梁をできるだけ少なくすることを念頭に、際大勾配を25‰、急カーブを曲率半径250mにまで許容して、短い隧道の掘削も含めたルート案が決まった。それは大網駅からは最も近い尾根筋から登り始め、うねうねと小刻みに山際肌を回り込ンで行く。この辺りに大きなSカーブがあったようだ。そして山の中腹からの湧水を水源とした南玉池を左手に見つつ、右手の土気城跡と左手の善勝寺のある台地との間を東西に走る「大切取り」と呼ばれる切り立った谷へと向かってゆく。この入り口は台地と平野の境目の自然の崖の切り通しで、薄暗い崖沿いの鉄路となっていた。やがて善勝寺の立派な山紋へ至る小道が崖の上に寄り添って来る近くまで登り詰めたところで
頭上に架けられた跨線橋の下をぬけると、やがて勾配を保ったままで関東ローム層を掘削した少し長い土気隧道によって大網街道の下を抜け、さらに深い切り通しの坂を登り、それを出ると下総台地上に設けられた土気駅に着いた。ここの北側を大網街道が通ってはいるものの昔の宿場の家並みから南西に離れた場所となっていた。
この千葉県内初の隧道(トンネル)は、25‰の片勾配が続く全長354mの煉瓦積の馬蹄形断面を持っていた。そして明治29年(1896年)に蘇我〜大網間の19qが開通したのであった。
一方、土気駅から蘇我までの約14.3qは下総大地の緩やかな斜面を下って、野田を駅をへて、最後に「生実坂(おゆみさか」を下れば東京湾に沿った平地に到着した。ところで、当初の路線は蘇我-大網-東金が本線であったから、大網から茂原方面への路線はスイッチバックをする形となっていた。
そして、明治40年(1907年)に鉄道国有法により官設鉄道に編入され、房総線となった。さらに順次延長されて、既に開業していた安房鴨川駅まで達していた北条線(現在の内房線)を吸収している。しかし、昭和8年(1933年)には再び千葉駅-大網駅-安房鴨川駅間が分離され、房総東線となり、1972年に現在の外房線に改称された。
 そして房総東線時代になって列車の編成も大きくなり、牽引する蒸気機関車も大型化されてくると、この大網-土気の区間は「土気の坂」と呼ばれる県内でもトップクラスの運転難所で知られるようになった。それは急勾配のレールが露れ濡れたり、落ち葉が付着したりして蒸気機関車の動輪をスリップさせてしまい、坂を登りきれずに立ち往生させてしまうからである。そして
大網駅まで戻り、再度勢いをつけてトンネルを抜けたり、時には補機の応援を頼んだりしたと云う。特に終戦後の食糧難の時代には早朝の勝浦始発の両国行きのC57牽引のオハ61系客車の一番列車は「カツギ屋専用車両が2両も連結されていて大変に重かったようで、この「土気の坂」では苦戦したと云う。それに狭いトンネルのために機関車の煙にも悩まされ、乗員乗客双方からも評判の悪い“魔のトンネル”だったようであった。
 大正12年9月の関東大地震では10月17日まで通行出来なかった程の被害を受けた。築後40年を経た昭和13年(1938ねん)には大網街道交差部と現 介護施設下のトンネルの各40mと35mは改修工事でコンクリートによる全面改築工事が行われている。
そして遂に、昭和26年(1951年)から3年がかりで断面の狭いことと老朽化を理由にして、土気トンネルの全面改良を施した2か所を残してトンネル上部の土被りを撤去する開削工事が行なわれ、そこは切り立ったコンクリートに覆われた20m以上にもなる狭い切り通しとなった。
この「切通し」と云うのは、トンネルの掘削技術が発達していなかった時代に、切り立った地形の難所に 道路を切り開く手段として広く用いられたしゅほうであったはずなのだが、ここではトンネルの課題を解決するために利用されようとは極めて稀な事態であったことだろう。この地形を不自然に切り裂いたV字谷の異様な景観は“知る人ぞ知る”鉄道写真の撮影ポイントとなっていた。
実はわたしはトンネルを開削した後の深くて狭い切り通しでの撮影はしっぱいしてしまっているので、この切り通しのある谷へ入りかけた辺りでの作品を代わりにお眼にかけた。
ここに残った二つのトンネルとコンクリートの切り通しは配線後に新トンネル掘削で生じた排出残土で埋め立てられて元の地形に戻されて住宅地となりつつある。
時代が下って、昭和47年の複線電化に際して、土気駅の先から少し北方へ向かって土気城跡の下を潜り南玉池の北約300m地点に抜ける千葉県最長の880mの新トンネルを貫き、その先は鉄筋コンクリートの高架橋で25mの高さで小さな谷を渡り、切り通しを抜けて、再び谷津田を高架橋で跨いで、急カーブと
25‰から20‰への勾配緩和を実現した新線が開通した。同時に大網駅も、移設して高架化され、同時に
千葉から外房に向かう線路が本線となり昔のスイッチバックは消えたのだった。
 最後に、この土気隧道の開削により生まれた深くて狭いい切り通しを登って来る上り列車を捉えようとする撮影の困難さはまたは区別である。先ずこの切り通しは東西房総台地を横断しているから上り列車には逆光となる。それに深くて狭いため光が回らないのである。私は白煙が適度に抑えられる真夏の早朝を選んで撮影に訪れたが、これ以上「列車の通過と日の出が合致する季節を」に挑戦する意欲が湧かなかった。それは他に撮る者が多すぎたからでもあるのだが。
それに、こ特異な地形をもたらしている房総台地(房総半島)のなりたちについても今の所すんなり納得できる成り立ちが説明できた説を見たことがない。その峠の辺りの東側に連なる急崖(東金崖線)の成員にも興味を持っているが同様に雲のなかにあって理解していないのは写真と同様に消化不良の有様であるのが現状です。


撮影:昭和42年(1967年)8月6日。