自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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233  岩手山東麓を行く滝沢大築堤 ・長根(信)-滝沢(東北本線旧線)
(「東北本線/ D51三重連」、番外編)

〈0004:bP31016:盛岡機関区の扇形庫をバックに待機する重連貨物〉


〈0005:bO20535:北上する特急「ゆうづづ」〉


〈0001:bO70361:珍しい盛岡発のD51三重連貨物列車、S42.7.29.〉


〈0002:bO70411:リンゴ果樹園の中の築堤を行く下り重連貨物〉


〈0003:bO70462:長根信号場を通過して築堤を登り始めた三重連〉
『手前に映っている架線の張ってある線路は勾配緩和を目指した迂回新線である。その新旧の高低差の大きなのには驚かされた。』


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〈紀行文〉
 東北本線のD51三重連のメッカである沼宮内〜一戸 間に通いなれた頃、どうも盛岡から一戸まで三重連の通し運転をしてくる貨物列車が一日に何本か運行されていることに気が付いた。そこで五万分の一地形図を調べると盛岡の次の厨川(くりやがわ)駅の先にある長根信号場から滝沢駅に掛けて長い築堤が続いていることが判った。そこで、昭和42年7月29日の早朝に間に合うように前日の夕刻に埼玉をクルマで出発してひたすら国道4号線を北上した。夜明け間もない盛岡駅構内で、威厳のある盛岡機関区の扇型庫をバックに重連貨物の待機を撮り、その近郊でdd51重連牽引の特急「ゆうづる」をスナップすると云う前哨戦をこなした。
今回は、真夏と云う季節だったが、早朝の三重連の噴き上げる三本の白煙に出迎えられたのは感激であった。そして、思わず午前中をこの築堤の周りで過してしまった。やって来る下り列車は富士のような威厳を見せる岩手山に向かって築堤を登って来るので、素晴らしい山容を背景にまとめるのは難しかった。ここでの盛夏の中から数枚を選んでお目に掛けた。その後、冬にも訪れてはみたが、北西からの強い季節風にあおられた煙を捉えることがかなわなかった。当時、この区間では東側に勾配を緩和を狙った複線電化の迂回新線を“よんさんとう”(昭和43年10月時刻改正)の開通を目指して建設中であったから、この築堤には河川用のホール柱が建てられることを気にする必要のない絶好の撮影ぽいんとであった。ちなみに、新たに東へ300mほど移設の予定の滝沢駅は、今の高台の駅からは遠く見下ろすような低い所に見得た。
それから40年余りも経ってから、webが閲覧出来るようになり、
「十三本木峠越えの 話、三重連のハンドルを握った男たち」
を目にしたことがあった。これはHP「ナメクジ会の鉄道写真館」を主催されている寺井洋一さんが司会してまとめた座談会の貴重な記録であった。
http://home.a00.itscom.net/yosan/hiwa/hiwa.html
『-司会者:常務はどこまでだったのですか?。
-元 一戸区の機関士:通常一戸〜沼宮内間でしたが中には盛岡までの通し補機があり、半分くらいは盛岡まで乗りました。これは2往復乗務で、一戸から出て沼宮内で折り返して一戸に戻りもう一度今度は盛岡までいく乗務です。』
このことから一日に2本くらいは盛岡一戸間の三重連が設定されていた時期もあったことが判ります。
この20‰の勾配のある滝沢の大築堤が始まる長根信号場は盛岡駅の次の厨川(くりやがわ)駅の北 3.4q、次の滝沢駅から南へ2.9qの地点に輸送力増強のため昭和19年(1944年に交換型の信号場として開設されていて、下り列車は勾配を控えていたから通過することがおおかったようで、加速線などは無かったようである。現状の位置関係から云えば、IGRいわて銀河鉄道の巣子駅(すごえき)の1.2q南の地点が旧信号場であったようだ。この駅の盛岡側にある長根踏切の更に南側付近が元 信号場の北端であって、旧線の分岐点であったと思われる。
この築堤の幅は複線が敷けるほど広かったようで、配線となってから、真ん中の道路を挟んで両側に民家が建てられていたほどであった。そこを登り詰めた辺りから森の中に入った。ここは「アカマツの森」と呼ばれていた所で、今は岩手大学農学部の演習林となっていたのだった。そして長い石垣の切り通しを抜けると滝沢駅構内の南端に近ずいはいった。やがて
高台の滝沢駅を出ると、その先は鉄道暴風林の杉林が続いている。この辺りは岩手山にさえぎられた季節風の通り道となっていたようで、日本鉄道では吹雪による積雪の吹き溜まりを防ぐための防風・防雪林を初めて試みた地域の一つであった。やがて鉄道防風林がとぎれるようになると、渋民駅が近ずいて来る。
 さて、ここらで周辺の地形を述べておこう。この南から北上し続けて来た広い谷間の「北上盆地」は北上川流域に広がっていて、東は北上高地、西は奥羽山脈に囲まれていて、北は滝沢市、盛岡市、紫波町付近から、南は一関市付近まで、東西の幅約10〜20q、南北約180qにわたって続く細長い盆地である。この盆地を南北に縦断する北上川の舟運、それに陸上交通の街道は古代の東やまみち(ひがしやまみち)、江戸時代の奥州街道(正しくは松前路)、明治になってからの陸羽街道→国道6号線→国道4号線、日本鉄道欧州線→国鉄東北本線などが順次整えられた。特に道路については明治12年になって、道路種別が国道、県道、里道と制定され、一等国道は東京から主要開港場に至る道と指定され、道幅は12mと定められた。この陸羽街道も一等国道の候補となり整備が進められたと思われる。続いて明治18年には国道6号線(東京-青森-函館港)が制定されて、盛岡市内の通過には新しいルートが開かれているようである。
この滝沢の大築堤のある辺りは、将に北上盆地の最北端に位置していた。この地域の中心の盛岡を取り巻く地形は、北西に堂々たる山容の岩手山(標高 2038m)、北東に長くすそを引いた美しい姿の姫神山(ひめかみさん、標高1124m)、西に奥羽山脈の秋田駒ケ岳(標高 1,637m)、東に北上山地の盟主である早池峰山(標高 1917m)、南に南昌山・東根山が取り囲んでいた。そこからの河川としては、先ず第一に北方から北上川の本流がが流れ下っており、その右岸(西側)からは北から南八幡平山系の大深岳(おおぶかだけ、標高 1541m)に源を発して、上流に硫黄鉱山として知られた松川鉱山跡を持っている赤川を合流する全長40kmほどの大支流の松川が岩手山の北側を回って合流しており、さらに南西では秋田駒ケ岳を源とする雫石川が盛岡の城下町の対岸の南でごうりゅうしており、それに左岸(東側)からは北上山地からの水を集めた中津川が南東方向から北上川本流に合流していたのであった。そのような地形の中を奥州街道は南から北上川の西側を花巻宿から北上し、次の日詰郡山宿(紫波町)を過ぎてから、北上川を東岸へ渡っていた。ここでは当初は舟わたしだったが、やがて舟はしとなり、明治7年には旧明治橋が掛けられていた。そして、山すそを小さな峠を繰り返して渋民宿を目指して北上していた。やがて、時代が下がって江戸時代の寛永10年(1633年)になると西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地にあった花崗岩(かこうがん)丘陵に平山城である盛岡城が築かれ、その中津川以北の湿地帯を埋め立てて近世的な城下町作りを行い、中津川には三ほんもの橋を掛けていたと云う。その中を奥州街道が通り抜けていて、盛岡宿が設けられた。また、城の南は北上川の舟運の河岸(かし)が栄えていた。そして、明治時代の中ごろになって日本鉄道が1の席から盛岡を経て青森に敷設されるに当たっては、先ず、花巻から北上川の西側を北上して来た線路を、そのままほくじょうさせて、雫石川を渡って盛岡の城下町の対岸に停車場を設けるルートが本来の案であったらしい。所が、雫石川への架橋工事が地質的に困難と判断した当局では、奥州街道に沿った形で盛岡の城下町を迂回するルートを立案するに至った。この盛岡の街並みは珍しく、街道の通過する地点に盛岡城が築城され、その周辺に城下町が計画的に配置され、街道はその中を通過するようになると云う特異な成り立ちであった。そのためであろうか、この鉄道を改めて城下町に敷設することは極めて困難だったらしく、遠回りをして迂回することにならざるを得なかったようだ。
鉄道が到来すようとする明治15年ごろには、江戸時代に藩の重臣屋敷の立ち並ん盛岡城内丸跡には、官庁街が形成され、岩手県庁をはじめ、多くの官公庁施設や金融機関、病院などが集中シテイタから、当時の石井県令は雫石川に鉄橋をかけて、官庁街の近くに停車場を設ける案の実現を強く求めた。実は石井県令はかって土木局長をしていたことから、県の土木技師に命じて自前で雫石川の川底の地質調査を行なわせて、橋脚の建設が可能であることを記した上申書を鉄道局に提出した。激烈な議論の末に、鉄道局長官の裁定により「」仮橋の架設案」で進めることになった。そして、見事に鉄橋の架設が成功したのである。やがて、北上川の西岸約0.5q離れた位置に盛岡停車場と盛岡機関区などが設けられることとなり、石井県令は“私費”で北上川に開運橋を架けて城下町と停車場を直結する道を鉄道の開業に間に合わせたと云う。この道筋こそが現在の全長僅か750mの岩手県路2号盛岡停車場線である。
 さて、盛岡停車場を出た線路はそのまま北進し、陸軍の「観武ヶ原練兵場」が置かれていた厨川地区を抜けて、岩手山の東麓の斜面の勾配を登り始めた。この辺りが左手の岩手山と右手の姫神山とが向き合っているところであって、鉄道局では、ここの山越えを“滝沢峠”と呼びならわしていたようだ。
(注記: 川上幸義の東北線鉄道史
http://ktymtskz.my.coocan.jp/kawakami/tohoku.htm )
また、対岸を通る奥州街道にも「座頭転がしの坂」などと云う小峠が残っている。
なお、この辺りに北上川本流に唯一のダムである頂頭約50mの「四十四田ダム(しじゅうしだダム)」が設けられて、洪水調節、発電に利用されている。やがて
滝沢を過ぎると渋民駅を抜け、奥羽山脈の八幡平を源に流下って来る大支流の松川に架かる
19連プレートガーターの鉄橋を渡ると、再び段丘を駆け上がると花輪線の分岐駅である好摩駅の広い構内に入った。
この東北本線の前身である日本鉄路欧州線の盛岡-青森間が開通して上野-青森間が全通したのは明治24年(1891年)9月であって、との時の盛岡停車場の次は約20qも北に離れた好摩停車場であった。その15年後の明治39年(1906年)に滝沢駅が開業している。ここは北上川の西岸に広がる農村地帯であり、明治以後は陸羽街道から秋田の鹿角へ通じる津軽街道(現在の国道282号線)の分岐点であった。それに何と云ってもこの地を有名にしているのは、初夏の風物詩である「ちゃぐちゃぐ馬っ子」と云う民族行事が催される土地であったことである。次に厨川駅が設けられたのは大正7年(1918年)であった。また、江戸時代の奥州街道の盛岡宿の次の宿場として栄えていた渋民宿には当初から停車場は設けられず、運転上の必要性から信号場が設けられたのが昭和18年(1943年)のことで、これが駅に昇格したのは戦後のことであった。いかに明治の渋民宿の有力者たちが鉄道を嫌っていたかが判るような気がする。この渋民で誕生した石川啄木は盛岡へ汽車通学のために北上川を渡って好摩停車場まで徒歩で通ったと伝えられている。それだけに故郷の風情を詠った単価がうまれたのであろうか。皮肉にも最近になって、駅前に啄木の歌碑が建てられた。それには、
『   なつかしき    故郷にかへる思ひあり
   久し振りにて汽車に乗りしに
                     〜 啄木』

撮影:昭和42年7月29日