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232.  桜の咲く白鳥峠 ・舞鶴線 /東舞鶴−西舞鶴

〈0003:桜満開の白鳥峠・舞鶴線/東舞鶴-西舞鶴:カラースライドus明〉


〈撮影メモ〉
早朝の白鳥峠です。手前右から左へ桜満開の枝が伸びている。
その先の低い所は稲を植えたばかりの水田、続いて低い築堤。
この画像をモノクロで撮った写真は次に掲示してあります。
カラースライド画像のモノクロ化した:
【31】D-1-3:(旧aF31-9−3)


〈0001:31-01-9-3:桜咲く白鳥峠の朝の客レ〉


〈0002:31-19-1:重連貨物が行く白鳥峠〉
舞鶴線/白鳥峠の東舞鶴を登る

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紀行文〈〉
 昭和43年ころからであろうか、SLのサウンドの収録に興味を持つようになった。その頃の雑誌に峠越え特集があって、宗谷本線の塩狩峠、石北本線の常紋峠、花輪線の竜が森、山田線の区界峠などが並ぶ末尾に舞鶴線の白鳥峠(しらとりとうげ)が載っていたノニ気がついた。この関西の日本海沿岸を訪ねたことがなかったので、これを機会に様子を伺う積もりで舞ズル線と宮津線を訪れる気になった。初日は山陰本線の綾部から舞鶴線で東舞鶴へ、そして小浜線で小浜まで遠征し、直ぐに、戻ってから、宮津戦を宮津を経て峰山までを往復して沿線の風景を確かめた上で、東舞鶴と西舞鶴の間の白鳥峠越えの社内走行音を収録したりして過ごした。
 ところで、現在の舞鶴は明治初期以前は田辺と呼ばれていたのだったが、紀州の田辺藩と単語田辺藩との重複を解消するため政府からの要請で城の別名に因んで舞鶴藩となったのだと云う。そして政治的には、戦国時代に織田信長の命により丹後国は細川藤孝(幽斎)の領地となり、国府のあった宮津城に入った。しかし都の京都からとおいことを理由に田辺に統治の中心として田辺城を新築して移ったので、城下町として発展した。その後、細川家は九州に去り、関ヶ原の戦功により丹後に封じられた京極高知は居城を宮津城とした。その次男の京極高三は3万5千石の田辺藩を立藩して、再び田辺城を再建して今日の繁栄の基礎を築いた。一方商業面では、舞鶴湾の地形的優位さから田辺港は日本海を往来する北前船の寄港地として重きをなスようになり、日本海側でも有数の商業港として栄えていた。明治になってから、帝国海軍では日本海側にも軍港を設ける必要性が高まッテきていたそして海軍水路部では1)海岸部の寒村であって、立ち退かせ易い、2)斜面がなだれ落ちる地形の海が深いこと、3)入り江の奥にあって秘密を保ち易いことの条件で日本海沿岸の港を実地調査した。そして明治22年(1889年)に全国で4番目の鎮守府(軍港)を舞鶴に設置することを決定した。この舞鶴港は
西からは丹後半島の金ヶ岬が防壁のように突き出ていて、東側はもっこりした大浦半島の西へは「ばくち岬」と云う名の出っ張りがあって、両者が日本海へ番兵のように入り江を守っていたのであった。湾内は逆Y字の形をしていて左は昔からの港であったが、東側はさびしい漁村であったこの地形から湾内の干満の差が極めて小さく、四方を3〜400m級の山で囲まれていることから、強風や荒天をも避けることもでき、日本海から湾内を目視する事ができないため防御に適しており、しかも湾内は多くの艦船が停泊できるなどの利点が評価されたのであった。
これを契機に舞鶴の発展を見越して、京阪神と舞鶴を鉄道で結ぶ計画が高まり、京鶴鉄道(後に京都鉄道となる、京都〜園部〜舞鶴)、摂丹鉄道(尼崎〜福知山〜舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪〜池田〜園部〜山家〜舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪〜池田〜綾部〜舞鶴)、南北鉄道(加古川〜氷上〜舞鶴)、播丹鉄道(飾磨〜生野〜福知山〜舞鶴)などが乱立新政したが、やがて1887年には阪鶴鉄道や京都鉄道が建設を開始した。しかし、先行して進められていた呉や佐世保での軍港の整備が優先され、舞鶴の軍港建設の着工は遅れていた。この舞鶴は山地が多いため、敷地の開削の大工事が必要であったが、明治32年(1899年)末には、土地造成工事がほぼ出来上がった。その頃になるとシベリアから南下を続ける帝政ロシアとの関係が急速に悪化をたどっていた明治34年(1901年)には、舞鶴東港に鎮守府・海軍工廠などの軍関係の中枢施設が完成したのだった。この時代、軍港建設に必要な資材は、阪神方面からの船便か、または明治33年に開通した阪鶴鉄道によって福知山に送られ、そこから先は鉄道がないため由良川の水運などを利用して舞鶴まで運ばれていた。その後、京阪神から兵員、軍需物資を迅速に輸送するため、日露の開戦を前にしての緊急敷設路線として、福知山から東舞鶴までの鉄道を突貫工事で敷設することが明治35年に決まった。翌年の春から全線38.7kmにわたって突貫工事が始まり、「各工区の請負人は競争の態度で臨み、昼夜の別なく専心一意で工事を急ぎ」、僅か1年半で完成させた。この区間は、滋賀・福井・京との境にある三国山(標高616.4m)を源に若狭湾へ注ぐ由良川に沿って福知山から綾部へ、由良川を渡ってから二つの真倉トンネルを抜けて隣の伊佐津川(いさづがわ)の谷へ出て、そこを6回も渡って舞鶴に至った。更に城のある舞鶴と軍港のある東舞鶴の間を分けて横たわる五老岳(標高 325m)や白鳥峠のの下を白鳥トンネルを通関して開通させると云う大工事であった。この区間にあった多くのレンガトンネルや、そのレンガポータル(坑門)や、橋脚・橋台を築造するための膨大な赤レンガ材は、明治 30年(1897年)に、舞鶴軍港建設のためにドイツからの技術で隣の神崎に築いたドイツ式のホフマン窯(リング状の連続焼成のできる窯)で製造したものが使われ、今も現役で国の近代化遺産として登録されている。
そして日露戦争が始まっていた明治37年(1904年)秋に官設鉄道 舞鶴線と軍港への支線と共に完成し、阪鶴鉄道に貸与されて開業した。これで2週間かかっていた阪神地区からの輸送が約6時間に短縮された。そして明治40年には京と鉄道や阪鶴鉄道が国有化されてそれぞれ参院選、福知山線となり、綾部−東舞鶴は舞鶴線となった。
 さて、ここで撮影ポイントとして選んだのは、西舞鶴〜東舞鶴間の6.9kmの間にある白鳥トンネルの東舞鶴側であった。この舞鶴を通関する国道27号(敦賀から小浜、舞鶴を経て山陰道の綾部付近まで)が海沿いを抜けているが、昔からの若狭街道(わかさかいどう)と呼ばれる京と府道28号 小倉西舞鶴線が双鶴トンネル(標高 84m)を抜いて国道のバイパス的な役割を果たしていて、ほとんど舞ズル線に寄り添っていることから、バスに乗って峠に向かった。
この道筋は田辺城下町の田辺大橋を起点に、福来、清道などを経て白鳥トンネルの上を昼なお暗い森林の茂る山道で峠を越えて、森、浜、市場(今の東舞鶴)み、小倉を通って吉坂まで続く道であって、若狭から教徒へへ至ることから「北国街道」とも呼ばれていた。江戸時代には西国33札所巡りに使われており、宮津市の28番札所の成相寺から29番の松尾寺までの巡礼の道であった。この松尾寺は舞鶴市の福井県境に近い青葉山(舞鶴市側の標高は650m)の山腹にある真言宗の寺で、秘仏の本尊 馬頭観音坐像、国宝の絹本著色普賢延命像や文化財の木造阿弥陀如来坐像(快慶作)が祭られていた。
 この早朝の一枚は、谷間に遅い陽光が辺り始めた頃にやってきた客レであった。この府道の白鳥峠の東舞鶴側は桜並木の名所のようだが、線路脇に桜の樹を探すのに手間取ってしまった。列車に光が届かなかったが、満開の桜花は輝いていた。
二枚目はお目当ての重連貨物であった。舞鶴の港は国際貿易港としても大活躍で貨物輸送の需要が大きいのであろうか。このポイントでは、若い鉄道フアンとご一緒したのだったが、彼から積雪の白鳥峠での後補機付き貨物列車の俯瞰写真をプレゼントして頂いたのがうれしく、私も冬に再び訪れたいと願っていたことを思い出した。

撮影:昭和43年(1968年3月

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