自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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225. 冬の「抜海の丘」 ・宗谷本線/抜海−南稚内

〈0001:35-19:利尻富士の見えない雪の砂丘〉
冬の「抜海砂丘」・宗谷本線(抜海−南稚内)フン

〈0002:35-26:雪の砂丘の中の緑の笹と赤いDL〉
雪解けの近い砂丘の熊笹の緑と赤いDL・宗谷本線(抜海−南稚内

〈0003:35-44:夕暮れ近い宗谷海岸〉
夕暮れの宗谷海岸・宗谷本線(抜海−南稚内)ウグ

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〈紀行文

 昭和49年の冬、道北の9600を求めて旅に出かけた。空路札幌に飛び、夜遅く音威子府駅に付いた。奇遇にモ、その昔米坂線の手ノ子駅前の宿屋で相部屋になっったことで知己となった志水青年にまたもや出会ったのだった。そこからは彼と同行して宗谷本線から興浜北線、士幌線(十勝川橋梁)、広尾線と回るきっかけとなった。そして、翌朝の稚内行きの一番列車に乗り込んだ。
 この音威子府駅から稚内に至る鉄路は日本海岸沿いを経由する宗谷本線と、天北峠を抜けてオホーック海岸を経由する天北線の二つのルートがある。当初はオコーツック海岸素意の天北原野の開拓に社会的価値が評価されて、オコーック経由のルートを優先することとなり、宗谷線として大正11(1922)年に全通して、道東の幹線として君臨したのだった。しかし、僅か四年後に日本海岸経由の天塩軽便線が開通して、平坦路で距離の短いことを理由に宗谷本線の座を奪ったと云う経緯がある。
この二つのルートに挟まれた道きたの地域は宗谷半島であって、その北端は弓なりになった稚内湾の砂浜を挟んで、西に「ノシャップ岬」、東に日本最北端の宗谷岬が宗谷海峡を隔ててカラフトと向き合っていた。従って日本海の宗谷海岸の北端が「ノシャップ岬」であり、岬から砂浜の海岸に沿って堂内1の砂丘列がなんかしていて、その砂丘列の北端が抜海砂丘なのである。
一方の宗谷岬から南へは低い高さのなだらかな頂上を見せる宗谷丘陵がつづいていて、その南は天塩山地につながっている。これとは別に、オホーック沿岸に沿うように北見山脈の北端部の山地が続いている。
 南稚内駅から列車と日本海に浮かぶ利尻富士とを組み合わせて狙うことのできる「抜海の丘へ行くにはタクシーで国道を行けばほとんど平坦なのだが、我々は線路の左側に現れた小高い砂丘の尾根伝いに南下したのだが、丸みを帯びた稜線なのだが、雪中のアップダウンの繰り返しの強行軍には意外に体力を費やしてしまった。
お目当ての地点の高見に陣取って列車を待ったのだった。ここからの利尻富士は冬場はほとんど姿が見えないとのことなので、もし見えていれば歓喜ものだったのだが。とうとう顔を見せなかった。場所を移して数ショットをこなしてから、帰路についた。やっと南稚内駅に近づいた山の尾根から雪解けが始まっている熊笹に覆われた丘陵地帯を前景に赤い新制らしいDLの牽く白い冷蔵車を連結した貨物列車を見送った。
 所で砂丘の尾根を歩いていると、冬の日本海の景色も良いが、東側に並行して南下している宗谷丘陵の姿もなかなかなものであった。細長く続く低地を挟んでなだらかで一面のクマ笹に覆われた宗谷丘陵の高見(たかみ)が続いている姿は雪解けの後に訪れる。この日本海に接するうねるように重なる海岸砂丘の内陸側には直線的 な浅い溝があり,その中に沼や池が点在すると云う奇妙な地形である。これはかつては海だった潟湖が長きに渡る堆積作用によって湿地帯になったもので、
その先はサロベツ原野につながっている。確かに抜海から南ではこの海岸砂丘と宗谷丘陵に挟まれた低地が泥炭化した所がサロベツ原野であった。それ故に海岸植生と湿原植生が豊かで、ラムサール条約にも登録されているとのことだ。しかし今は雪原の中に眠っていた。
さて、この宗谷丘陵は高さ20mから200mの稜線や谷も丸みを帯びたなだらかな起伏が
幾重にも続いている。このなだらかな地形は、約2万年前の最終氷期の間に形成された氷河由来の特徴的な地形で、宗谷地方には氷河はなかったが、周氷河作用が働く地域であった。そこでは地中の水分が、夜間は凍結し、日中は融解する。水は氷になると体積が増えるので、岩石中に含まれる水分は凍ると岩を砕く。土中の水分が凍ると、砂礫が持ち上げられ、氷が溶けるときに移動したりする流土現象が起こる。このような氷河周辺部での凍結融解の繰り返しによって、稜線の角が崩れ落ちて丸みを帯びて、険しい山地も、ついには平坦でなだらかな周氷河性の波状地になってしまっている。このなだらかな丘と、後に雨が浸食した深い谷からなる特異な地形は北海道遺産となっている。しかし、明治の中頃までは、丘陵全域にわたりうっそうとした森林が生い茂っていたが、相次ぐ伐採と1911年の山火事で森林が失われ、気象条件の厳しさと土壌条件の貧弱さから森林の再生が難しかったことから、ほぼ全域がササ原とまばらな低木などに覆われるようになり、地形が良く見えるようになると云う幸いをもたらしている。
 帰り支度を始めた午後、この頃の日の入りは3時53分、やっぱり北は早い。左手の利尻富士ばかりに目が行きがちな場所ですが、反対側の稚内半島の付根のルエラン(坂の下)方向のの景色も良いですね。
冬の空、稚内半島(ルエラン方面)を眺めると、雲の間から日差しが海面に射して、最果ての北辺の旅情をかきたてた。

撮影:昭和49年

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〈紀行文