自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

| HOME | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |  
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………
・西南北海道を巡る
224. 朝の大沼公園駅発車 ・函館本線/大沼公園→大沼

〈0001:えぞ駒ヶ岳をバックに大沼公園駅を発車〉
朝の大沼公園駅発車・函館本線

〈0002:22−134:睡蓮(すいれん)の花咲く大沼公園〉


〈0003:bQ21142:大沼駅発車のC62牽引の旅客列車〉

〈撮影メモ:昭和45年頃撮影〉
蝦夷駒ケ岳をバックに旅客列車が行く。
右奥から左手前へ7両県政のの旅客
列車が灰色の煙をなびかせて登ってきた。右手から陽光が当たっていて列車を照らしている。左側には7本くらいの高い樹木が並んでいて、国道ラシイ道路があり、その先は畠が続く。
右手も畑。背後は森林の先に小沼の水面が見える。この辺りは複線となっている。

…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文
 今までは道北にばかり足が向いていたので、今度は北海道へ渡ってC62やD52にお目に掛かったり、「仁山(にやま)越え」のスイッチバックや北海道駒ヶ岳を望む風景に出会いたいと想っていた。そして、初めての北海道への家族ドライブ旅行を決行したのは昭和45年の梅雨のないと云う7月のことであった。国道4号線をひたすら北上して、青森県の陸奥湾の奥にある野辺地(のへじ)港からフエリーに乗って津軽海峡を横断して北海道渡島(おしま)半島の南端にある函館に上陸して、その夜は函館の夜景を楽しんだ。
この渡島半島は北海道の南西部に突き出した大きなはんとうであった。津軽海峡を隔て、その南端の松前半島と亀田半島がそれぞれ本州の津軽半島、下北半島と向き合っていて、その松前半島と亀田半島との挟まれた場所に函館平野があり、この地域の中心都市である函館市があったのだった。この「渡島」の名付け親は、「北海道」の命名者としても知られる江戸時代の探検家 松浦武四郎であった。古来より「渡島=わたりしま」という呼び方がある一方、津軽地方では「おしま」と呼ばれていたため、 「渡島」と書いて「おしま」と読むようにしたいと提言したといわれているからであった。現在では、日本海側の寿都(すっす)と太平洋岸の噴火湾沿いの長万部(おしゃまんべ)を結ぶ黒松内低地帯(寿都−長万部地溝帯)より南の地域を渡島半島としており、標高 1000m以下のなだらかな山地が大部分を占め,南端に函館平野がある。それに北西部の狩場山地の一体には、 日本の北限に位置するブナの森が広がっていて、けいかんは東北地方の延長の様にもみうけられるのが特徴であった。
 さて、国道5号線を北上して五稜郭の機関区を横目にやり過ごして戸、七飯(ななえ)町に近づき、まず駅に向かってみた。この七飯駅を出た線路は間もなく下り線が上り線の頭上を横切り、高架線となって右へ分岐していた。この線は仁山越えの20パーミル(最急25‰)の勾配を10パーミル(最急16‰)の勾配に緩和するための迂回線であって、橋梁やトンネル、切り通し、築堤を連続的に採用して昭和41年(1961)に開通したもので、通称「藤城(ふじしろ)線」と呼ばれていたのだった。だから既にD52の牽く重い下りの貨物列車の仁山越えは全てこちらの線へ移ってしまっていたのだった。
七飯の街を出ると道路の両側に見事な赤松が並んでいる。これは14km余りの「赤松街道」が峠下まで続いているのには驚かされた。この国道五号線のルーツは明治5年に開拓使が開通させた函館〜森間 11里余にの近代的馬車道を含む「札幌本道」の一部なのであり、そこへ本州から持ち込んだ赤松を植えさせたものであると云うのだ。
 さて、鉄道は七飯駅からは直ぐに山裾に取りつくルートを採らずに、東から西へともっぱら水田の広がる低湿地帯を横断して、その稲田に囲まれた渡島大野駅を通っているのだった。この駅は北海道新幹線の新函館駅となる予定地だけあって、函館から江差(えさし)方面へ通じる街道筋に当たっているのである。それでも、北海道で初めて稲田を開いた地として知られる大野町の中心は駅から2kmも離れてしまっていたのである。
実は、明治24年に日本鉄道が青森まで開通し、青函航路に連絡した時に、函館から道央へ
の鉄道を政府の資金補助を得て建設したのが北海道鉄道(株)で、明治36年に本郷(亀田)から渡島大野、大沼、そして駒ヶ岳の西側を直進して山裾を越えて森まで開通させて、一日に4往復の列車の運行で開業したと云う。この時に、通常の鉄道建設ルートとしては避けるべき低湿地をあえて選択して渡島大野駅を通した背景には、江差への支線を渡島大野駅から分岐しようとする意図があったとする推論もあるようだ。それにしても、新幹線の駅を誘致できたのは先陣の先見の明に負うところが大だと云うべきだろう。
そして、今度は渡島大野駅からは北に駒ヶ岳や大沼、南に函館山や津軽海峡が一望できる標高683mの木地挽山(きじびきやま)の麓を20パーミルの急勾配で登り始めるのだが、この山の中腹から見下ろす田園風景はなかなか見事なものである。やがて急勾配の途中に設けられた仁山駅があり、駅に近づくと左に加速線が見えてきた。これは蒸気機関車牽引の列車が仁山駅で停車すると先の坂を登れなくなるため、いったんバックして加速線に入り、勢いをつけて山越えにに挑むための廃線である。このタイプの構造は「戦時型スイッチバック」と云われ、今では珍しいものとされていた。私も国道から脇道に入りこんで、仁山駅でのスイッチバック風景を撮ろうと試みたのだったが、この度は幸運には巡り会わなかった。
この先は引き続いて20パーミルの勾配をあえぎながら登る。2車線の国道5号線ははるか下に見える。途中に仁山駅から1.3km地点に熊の湯信号場があったが、藤城線開通時に廃止されたし、また4.0km地点には小沼信号場が置かれていた時代もあったようだ。渡島大野から標高差 約100mの坂を登り切ると、今度は下り坂をトンネルに入る。トンネルを抜けて間もなく藤城線と合流する地点あたりになると、小沼の水辺を通る列車の車窓には、小沼の向こうに駒ヶ岳が姿を見せるようになり、函館本線最初の絶景が眺められよう。
一方の国道では、谷底から山肌に取り付き、やがて仁山越えの函館本線の跨線橋を渡り、さらに坂を登っていくと大沼トンネル(671m)へ入る。トンネルを抜けると直ぐに右に見えるのは北海道開拓使次官であった黒田清隆が命名したと云われる「ジュンサイ沼(專菜沼)」で、坂を登ってやや降りたところで左手に見えるのが小沼であり、その間には函館本線が沿っており、ここは特急など全ての列車が通る地点なので、小沼や大沼と駒ケ岳をバックにした撮影ポイントだと云うのだった。
さらに小沼のほとりを走る国道5号線と分かれて、橋を渡って、道道338号線を函館本線と並行して走るとやがて大沼駅に付いた。ここの町並みは小さいのに、駅の構内は広々としていて、上り方向では藤城線が、下り方向では砂原線と云う勾配緩和を意図した迂回線が分岐していることから運転上重要な駅なのであろう。
そして緑の木々に囲まれた大沼の湖畔を走ってほどなく大沼公園駅に着いた。ここは北海道鉄道(株)が国有化されて間もなくの明治41年6月に大沼公園仮停車場を開業して来訪客の弁に供したことから始まり、昭和の初めに建てられたと云う貫禄ある駅舎は見事であった。この先の線路は小沼と小沼を隔てている(せばっと)と呼ばれる狭い地峡の上を通って山麓の深い森の中へ続いていた。そして「すいれん(睡蓮(すいれん)の白い花が水面を埋め尽くしていた公園を散策してから、夕暮れの迫った大沼公園から道道43号線で鹿部へ向かって出発した。大沼の北東端の銚子口から流れ出る沼尻川、それに続く折戸川の作る深い谷を見下ろしながら、広葉樹やカラマツの林になっている山すそをを走って噴火湾の海に面した素朴な温泉のある漁師町の鹿部を訪れた。
 宿でもらったパンフレットによると、明治中頃から大沼から鹿部に掛けては硫黄鉱山や水力発電所が操業しており、漁業の他に、留ノ湯などの古くからの温泉もあり、また鹿部の街中にも鹿の湯の名でで良く知られた古い温泉があり、明治末から函館近郊の保養地でもあった。それ故に、大沼駅が開業きてから、幾度もの紆余曲折(うよきょくせつ)の末に、大正13年(1924)に大沼公園駅から折戸川を下って鹿部を結ぶ17.2kmを軌間1067mm、単線、電気直流600Vの大沼電鉄が開通して、大沼公園を訪れる人々を鹿部温泉へ誘っていた。しかし、昭和27年(1952)に国鉄が函館本線の迂回線である砂原線(大沼-森)が鹿部駅を経由して開通するに至り、大沼電鉄は買収、廃止されれしまったとある。
 翌朝は夜明けももどかしく、大沼公園駅付近へ向かって出撃した。前日に見つけておいた小高い丘に登って、まだ朝霧のただよっている大沼公園駅を発車してくる7輌編成の短い貨物列車を北海道駒ヶ岳をバックに撮ることができた。この線路の東側に見つけた
「おあつらえ向き」の丘は、その昔、駒ヶ岳が山の形が変わるほどの大噴火を起こした時に噴出した火山堆積物の岩なだれの流れによって出来た丘であって、これを流山地形と云うことを知った。ちなみに大沼に多く浮かんでいる小島や半島、それに畑の中に散在する小さな丘などは流山の名残なのであると云う。
 ところで、この地点からのベスト ショットの持つべき三条件は、雄大な駒ヶ岳と優雅な大沼、それに公園を彩る秋の紅葉が揃った上でのSL撮影であるとのことだった。
しかし今朝の私は、晴天の空に浮かんだ「颯爽(さっそう)とした尖い峰を見せている駒ヶ岳」の姿を撮った高揚感にしばし酔いしれたのであった。
撮り終わって、鹿部温泉の宿に戻ってから、駒ヶ岳を振り仰ぎ見ると、今まで大沼方面からみた横に長く、なだらかで優美な女性的印象であった姿が一変し、荒々しい山肌と傾斜が目に付く男性的な激しい姿を見せていたのには圧倒された。もう一つ驚いたのは、この素晴らしい風景をもたらしている北海道駒ヶ岳(えぞ駒ヶ岳)が日本百名山に数えられていないことを知ったことだった。
 さて、北海道駒ケ岳(蝦夷駒ヶ岳:えぞこまがたけ)は那須火山帯に属する活火山である。そして5万年から3万年前の大噴火によって当時 標高1700mはあったと思われる山頂付近が大崩壊を起こしたと云われる。その後も江戸時代初期の 1640年(寛永17年)の大噴火による火砕流が山の東側に崩れ、馬のひづめのような形をした崩壊カルデラができた。その山頂に当たる外輪山は安政火口など3つの火口を中心として、ひづめの先端に残った部分が「駒の耳」に当たる剣ヶ峰(標高1,131m)、それに砂原岳(1,113m)、隅田盛(892m)の三つのピークからなり、これらのピークに囲まれて荒涼とした火口原が広がっている。
一方、大規模な岩屑なだれの土砂が東側の噴火湾へとなだれ込み津波を発生させて大被害を与えている。また、崩壊した土砂の一部は南側を流れていた折戸川の流れをせき止めて、大沼をはじめとする湖沼群が作られ、続く幾度かの大噴火によって大沼と小沼とに分断したり、その湖面には多くの小島や半島が作られており、湖岸にはエゾ松、イタヤカエデ、シラカバなどの森林が広がり、紅葉の名所となっている。
それ以来も1929年(昭和4年)6月17日に始まる大噴火によって形を変えながら、現在のような山容になっている。
この続く噴火は周辺に軽石を撒き散らし、山肌に植物を茂らせる暇を与えない。その赤みを帯びた地肌が駒ヶ岳の赤い毛並みを想わせているのである。そして、なだらかな山麓地帯は豊かな自然に包まれ、ミズナラやブナ、シラカバやカラマツと云った森が広がっていて、多彩な動物たちのすみかを提供している。
 しかしながら、本州から津軽海峡を渡り北海道に入っても余り北海道らしい風景の印象を与えてはくれなかった。これは北海道駒ヶ岳などが東北地方の火山群とほぼ同時期に噴火、形成されたものと云われ、さらに、渡島半島の首根っこに当たる寿都(すっつ)と長万部(おしゃまんべ)を結ぶ線辺りまでは本州でも見る事の出来る樹林が広がっていることからだとも云われている。この大沼公園の辺りの警官は東北地方で分布している樹種が見られることから北海道の景観ではないことは確かである。

撮影:昭和45年7月23日

…………………………………………………………………………………………………