自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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223.  上川盆地から塩狩峠へ ・宗谷本線/北永山〜和寒

〈0001:33-86:石狩川の土手の月見草〉


〈0002:33-88:C5787[旭]が引く下り各停が登って来た〉


…………………………………………………………………………………………………〈紀行文
 昭和40年代に入って北海道へ遠征するようになっても、あのロマンチックな響きのある「塩狩峠」を訪れるチャンスがなかなかやって来なかった。ここでは北で唯一のC55の峠越えの姿に出会えると云う魅力があったのだが、峠肥にはDLの前補機が着くと云う情報に惑わされて本格的に挑戦することもなく、いつものように抜海-南稚内(みなみわっかない)の利尻富士の見える丘へ向かってしまっていたのであった。その頃の宗谷本線の蒸気機関車が牽引する列車は、普通列車では旭川から稚内まで1往復の321レ、324レ、それに旭川から名寄までの1往復の323レ、322レが無煙化の昭和49年まで運行され、それに札幌から稚内への夜行急行「利尻」の317レ、318レが昭和45年12月まで運行されていて、そのいずれもがC55か、C57で牽引されていた。それに名寄までの貨物列車はD51が主役であった。その頃のDC化された優等列車には稚内ー函館間の急行「宗谷」、急行「礼文」、それに天北線経由の稚内ー札幌間の急行「天北」が見られた。
それでも始めは昭和47年(1972ねん)2月に釧網本線の北浜海岸の流氷撮影行の事前の腕試しに塩狩峠を訪ねたが悪天候に阻まれて何の成果も得られなかった。次の機会は昭和47年には名寄本線の天北峠越え訪問のの途中に立ち寄っただけであった。この時は長駆クルマで埼玉から下北の大間港へ、ここから苫小牧へフエリーで渡ってひたすら北上した。その日は石狩川の鉄橋の付近で時を過ごしてから、塩狩峠へ向かった。この季節では、冬の厳しい風情は撮るべくもなく、お蔵入りとなっていたのであった。
しかし、HPのアップロードの数が増えて来ると、どうしても「塩狩峠越え」の情景の回想を書いてみたくなってしまい、駄作のそしりを免れない作品を2枚だけお目に掛けざるを得なくなってしまった。
 先ず最初の一枚は、第3石狩川橋梁近くの土手で塩狩峠へ向かう列車を捕らえた。この土手には外来の植物に邪魔されずに月見草が咲き誇っていた。
二枚目は塩狩峠のサミットを越えた辺りではなかろうか。単線の線路の回りには充分のスペースを取った上で、立派な杉の防雪林が濃い緑を茂らせていた。C5787 [旭]が牽引の客レであった。当時はC5530が稼働中であったはずなのだが、今ひとつ調子が出ないとの噂であった。
 さて、ここで宗谷本線の唯一の峠越えである「塩狩峠」のあるロケーションの説明から始めたい。それは1869年(明治2年)に明治政府が蝦夷(えぞ)と呼ばれてきた北の島を北海道と改称した時に、その地域を11ヶ国に分けて制定した。その中の道北の「天塩(てしお)国」と道央の「石狩(いしかり)国」との境にある峠であることから、それぞれから一文字ずつ採って「塩狩峠」と命名したのであった。この峠は天塩の中信である名寄から南へ約40km、石狩の中心である旭川からは北へ約20kmの所に控えていた。この辺りの地形を尾根筋で表して見たところ、アルフアベットの大文字で北海道の頭文字の“H”となったから不思議であった。先ず西側の左の縦棒は上の北からピッシリ山(1032m)を頂く天塩山地、そして石狩川の流れ出る神居古潭(かむいこたん)の部分を除いて、南に夕張山地を示していた。一方の東側の右の縦棒は上の北から函岳(1129m)から天塩岳(1,557m)と続く北見山地を示しており、続いて標高 2000m前後の大雪山と石狩山地を示している。それらの縦棒同志を東西につなぐ横棒は、西から塩狩山(506m)、そして約3km先には塩狩峠(273m)、すぐ蘭留山(339m)が続き、さらに約2,7kmニ和寒山(わっさむやま、740.6m)が南北に細長い形で続いていて、これはほぼ北緯44度の尾根筋を示していた。その北側は天塩川が流れ下っている名寄盆地であり、南側は石狩川の流れ下っており、旭川市を中信とした上川盆地と云うことになり、河川延長日本3位の石狩川と4位の天塩川との分水嶺であるスケールの大きな峠越えであった。
 次に峠が開かれてから早くも一世紀を越える歴史を刻んで来ているのだが、交通の天からひもどいてみたい。この北海道の道央の広大な石狩平野から道北の肥沃な名寄盆地へ通じる石狩/天塩の国境の関所に当たる塩狩峠を越える道の開削は1898年(明治31年)に、樺太(カラフト、今の「サハリン」を目指した幹線である仮定県道天塩道が標高 273mの峠を越えて開通した。当初は急カーブの連続する難所の一つであったが、今は曲線や勾配を緩やかに改良した国道40号(名寄国道)の標高 260mの峠となっており、その沿道には「エゾヤマザクラ」や「チシマザクラ」など1.600本が植えられて桜の名所となっている。さらに1991年(平成3年)には標高 249mの切り通しによる国道バイパスが開通している。一方の鉄道は、旭川から稚内を目指して建設が始まった北海道官設鉄道天塩線は1899年(明治32年)11月15日には塩狩峠を越えて蘭留駅から和寒駅まで延伸開業し、さらに1903年(明治36年)には名寄まで延伸開業した。
ところが、その6年後、未だ国の鉄道が鉄道院であった1909年(明治42年)2月28日の夜に、塩狩峠に向かう和寒−蘭留間で連結器開放による客車の逆走事故が発生したことで知られるようになった。これは和寒駅を発車した2輛変成の上り旅客列車がほどなく塩狩峠の20‰の急坂の半ばに差し掛かった時に、最後尾の客車の連結器が外れ、客車が後退し暴走し始めた。正確には乗務員ではないが、偶然にも乗り合わせていた鉄道員の職員が手ブレーキを操作中に誤って転落して殉職してしまったが、多くの乗客たちは命を救われたのであった。現在、当時30才で殉職した氏を顕彰した「故 長野政雄氏遺徳顕彰碑」が塩狩駅の構内の和寒方にひっそりと建っている。
 その後の1916年(大正5年)には蘭留-和寒間に塩狩信号所が新設され、その8年後には旅客駅に格上げされた。そして1922年(大正11年)には官設鉄道の宗谷本線としてかっての天北線経由で稚内まで全通している。
 それから時が経って、旭川在住の新鋭作家である三浦綾子(1922ー1999)さんは前述の列車事故の話を旭川のキリスト教会で、故 長野のさんの部下だった信者から詳しく聞いたことがあった。それに感銘を受けた三浦産は現場に足を運んだり、さらに詳しく調べるなどして、この実話を小説として執筆し、日本基督(キリスト)教団の月刊誌『信徒の友』に1966年(昭和41年)から連載を始めた。これを元にして小説『塩狩峠』を新潮社から1968年に発刊してベストセラーとなった。この作品を記念して塩狩駅近くに、塩狩峠記念館と塩狩峠の文学碑が立てられているのだった。
 ここで旭川方から塩狩峠を登る沿線風景の素描を試みた。旭川から北永山で、このあたりはずっと真っ直ぐに線路が敷かれていて北海道らしい線形である。そして北永山を出ると左にカーブして、当麻町をかすめて、1967年(昭和42年)に架け替えられた長さ 350mの第三石狩川橋梁(三代目)で石狩川を渡って比布町に入った。このように上川盆地を北に走って標高185mの蘭留駅に到着した。この蘭留はアイヌ語で「ラン・ル(下る・道)」を由来とする地名であった。その通りで、この駅から北を見上げれば、まさに坂道になっており、塩狩峠に向かっていた。この路線随一の峠越えである蘭留〜和寒間約13kmでは、蒸気列車にはDD53か、DD51の補機が連結されて出発して行く難路であった。この蘭留駅を出てさしかかった峠の南側は右手の標高339mの蘭留山に沿って回りながら登って行く線路は最小半径195mの箇所の急カーブと最大20‰(パーミル)、平均18.5‰の勾配が5.6kmも続いており、そこは原生林の中をひたすらSカーブを描きながら登って行く。
(その後の風景では、道央自動車道が左手に現れて来るが、やがて線路をオーバークロスして峠へ向かっていた。)
そして標高 263mのサミットを越えるカーブから僅かではあるが下りとなり、標高256mの塩狩駅へと入った。この峠の両側は原生林が迫っていて、林立するように成長した鉄道防雪林にまもられていて、その先に木造の駅舎が、東側に連なる和寒山の斜面を背にしてひっそりと建っていて、構内踏切に挟まれた対向式上下二線二面の長いホームを従えていた。それに付け加えられたようにたたずんでいたのは、信号所ガ設けられてから5年後に発見された塩狩峠温泉で、湯治場として地元はもとより、道内にも知られた秘湯で、ユースホステルも併設されていて若者で賑わっていたのだったが、近年閉鎖されたとか。
この山に隠れた峠の小駅が世に知られるようになったのは1968年(昭和43年)にベストセラーとなった三浦綾子さんの小説「塩狩峠」の舞台であることが判ってからであった。今や塩狩峠記念館、文学碑が建てられて三浦文学の聖地となっているのである。
しかし、“塩狩峠”が有名ポイントになったのと裏腹に、駅前には民家は見当たらく、塩狩の部落も戸数が5軒と限界集落となってしまっている。それに忘れてはならないのは、塩狩駅構内の和寒方には塩狩峠の標柱と並んで前述の鉄道事故の顕彰碑が建っていることである。
 駅を出ると、勾配は南側よりいささか急で、平均20‰となっているが、急カーブが少ないため列車は比較的高速で下って行き、道央道、国道40号線に挟まれながら進み、道央道がオーバークロスして左手に和寒ICを見て、町が見えてくれば7.9kmを走って和寒駅に到着となる。この辺りの山村はかって日本一の除虫菊(蚊取り線香の原料)の山地であったが、今や“かぼちゃ”の名産地として知られている。
 ところで、塩狩駅を抱くように東側に連なる里山は知る人ぞ知る山であったことを知って、蛇足ながら付け加えておこう。この塩狩峠の3kmほど東に和寒山(標高 740.6m)があって、この山頂にあ一等三角点が設けられている。そして、全国に数多くある一等三角点から46箇所選ばれた中に、この和寒山が選ばれているのである。それは1954年(昭和29年)に山頂近くに緯度経度の天文観測を行うための子午儀を載せる天測点と云うコンクリート製の四角柱台が設けられ、同時に子午儀の方位を正確にセットするための目印のなる子午線標も云う石標柱が天測点の真南 2,6km離れた630ピーク(和寒町・比布町境界南側)に設けられたのである。そして天文観測が始まり、従来の三角測量で得られた位置座標を規正するのに役だったのである。本来は永久標識であったはずなのだが、最近のGPSなどの観測器械を使った三角点上での測定に代わってしまったので、天測点も子午線標ももに歴史的な遺産となってしまった。しかし、文学フアンに取って三浦文学「塩狩峠の舞台」を見守ってくれている山であり、同時に山好きの地図マニアや天文フアンに取っては見逃せない山なのであった。

撮影:昭和47年7月。
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