自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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219.  十勝川橋梁とコンクリートアーチ橋遺構 ・士幌線

〈0001:35-2:十勝川橋梁を行く〉
第2十勝川橋梁・士幌線/帯広−木

〈0002:35-36:十勝川を渡って〉
音武家(おとぶけ)待ちの「すずらん公園」からの展

〈0003:第3音更川橋梁・元士幌線/国指定登録有形文化財〉
第3音ー更川橋梁(コンクリートアーチ)・士幌線/清水谷−糠平(2005年撮影の国指定登録有形文化財

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〈紀行文〉
 今まで撮り逃がしていた撮影ポイントを求めて冬の道北を訪ねたのは昭和48年1月であった。その帰路で士幌線と広尾線をねらって夜半に帯広駅にやってきた。ひっそりとしていた機関区をひとあたりしてから、士幌線のホームのはずれにあった詰所に伺って、今朝の下り貨物列車の 1791レを十勝川鉄橋の辺りで撮りたいと話したら、タクシーで対岸に行ってみたらどうかとすすめられた。そこで、この撮影行の行動を共にしていた浦和市の志水青年を誘ってタクシーに乗り込んだ。走り出すと運転手は心得顔で「帯広から鉄橋を渡ってくる汽車を対岸の公園の高台から撮ったらどうか」とのことだった。今考えると、それは音更町の(おとふけまち)の「すずらん公園」たったような気がしている。ここから眺められた道内第2の大河 十勝川の広い河原を横断しているのは橋長 378mのプレートガーダー20連を連ねる十勝川橋梁であった。そこから背景に日高山脈を入れたいのだったが、この地点からは無理であった。この頃の9600牽引の貨物列車の主な顧客は、この橋を渡った先の木野駅の石油基地と上士幌駅から通じる農協専用線のようであって、あのダイナミックな奥地からの運材列車が姿を消してから久しかった。
このHPの紀行文を書いていてふと思い出したことがある。いつものように北海道へ渡ると直ぐに駅に立ち寄って弘済会の道内時刻表を買ったものだったが、この時には昨年10月に来た時の時刻表を持ってきていた。この表紙には十勝川で孵化事業のための鮭の捕獲場面が載っていた。それはこの鉄橋から約十数kmほど下流に設けられた農業用の千代田堰堤(えんてい)では川幅一杯に水をたたえており、秋には孵化のための「サケ(鮭)」の網による捕獲漁が行われており、魚の群れが川面に踊りあがっている光景を見事に捕らえていた。それから20年も過ぎた頃に永年勤続記念でここを訪れたことを思い出したからである。
そして、午後は広尾駅の辺りの高台に登って帯広へ戻る列車を狙うべく積雪の山を歩き回ったのだったが、時を逸してしまった。
 ここで士幌線の63年にわたる歴史を多くの資料を参考にしてかいま見ておきたい。この素晴らしい大平原を持つ十勝平野も、現実は三方を山に囲まれる閉ざされた大地だった。この北海道の国防上の利便と開拓の促進をはかるために「北海道鉄道敷設法」が明治29年(1896年に公布されて、道内約1600kmの鉄道の建設予定線が定められた。それは現在の根室本線、宗谷本線、函館本線、池北線(元の網走線)などの幹線が規定されていた。そして十勝にかかわる鉄道としては、先ず東から明治38年(1905年)に釧路−帯広間(釧路線)が開通して、帯広駅が開業した。そして西からは狩勝峠の難工事のため遅れて明治40年(1907年)に帯広−旭川間(十勝線)が開通した。また北東からは網走線(池田−浜網走)が大正元年(1912年)に全通して、帯広は札幌、函館と沿革の地とを結ぶ交通の要として発展するようになった。しかし、石狩・北見・十勝の境の山岳より南流して帯広市街の対岸の東寄りで十勝川に注ぐ大支流の音更川(オトプケかわ)の流域であるの北十勝へ向かうかっての士幌線は当初の建設予定線には入っていなかった。しかし、明治34年(1901年)から実施されている「北海道第一期拓殖計画」の遅れを取りもどそうとして、大正6年(1917年)7月に行われた計画再策定の際に、石北線(新旭川−中越)、上士幌線(帯広−上士幌)などの5つの鉄道路線が建設予定線に追加された。そして大正11年(1922年)に十勝平野北部の開拓促進の使命を帯びて上士幌線が帯広から着工して、鉄路が東大雪の山塊に向かって伸びて行った。先ず帯広駅を出て根室本線に別れを告げ北進して、幾つかの川を渡り、東に向かって今度は全長 411mの第二十勝川橋梁を渡り北進して木野駅となる。次いでヨウベツ川を渡り音更(おとふけ)駅、駒場駅を経て東に向かって音更川橋梁(全長217m)を渡り北進して中士幌駅に至った。この難読な「音更(おとふけ」と云う地名はアイヌ語の“毛髪の生える所”の意味で、幅広い音更川の流域一帯に、柳が頭髪の毛のように密生していたことから名付けられたのだと聞いた。この先は、なだらかな原野を直進して士幌駅までの30.1kmが大正14年(1925年)に開通し、何故か「士幌線」と呼ばれたようで、この間の最急勾配は10パーミルであった。残る士幌−上士幌間も翌年に開通して十勝北部の入植と開拓が大いに進んで、やがてこの一帯は広大な畑作地帯となり、大豆などの農作物の出荷が盛んになって行くことになる。
その先への延長については、石狩山地南部一帯の森林資源の開発を視野に入れた上で、北海道を縦貫する目的で標高1,450mの三国峠を越える路線の建設を目指した運動が高まって来た。その成果として、大正11年に公布された「改正鉄道敷設法」の中で、「十勝国上士幌線ヨリ石狩国留辺蘂(ルベシベ)に至ル鉄道」として予定線に加えられた。ここに記された「るべしべ」はアイヌ語の「越える道」を意味する「ルペシュペ」を語源とする地名であって、当時は各地に「るべしべ」と呼ばれた場所があったようで、ここでは現在の石北本線の通る上川(かみかわ)町を指していたのである。
そしの後、その一部として上士幌−十勝三股間が「音更線」として昭和9年(1934年)に着工にこぎつけた。上士幌からは平坦な農耕地を十勝平野の最端にまで直進し、そこに清水谷駅が設けられた。これから先は峡谷をなす音更川と、それに流れ込む多くの支流にコンクリートアーチ橋を架けながら最高25パーミルの急硬倍で高度を上げながら糠平駅へ、そして原生林の中を勾配を登り続けて音更トンネルを貫いて幌加駅に至った。この先も本支流の諸河川を渡って終点の十勝三股駅に到達した。ここは標高661.8mの高所に設けられており、昭和14年(1932年)に37.6kmが全通して、士幌線は延長76.0kmとなった。
この開通は、当時の音更川の流送に頼っていた原木輸送から、損傷の起こりにくい貨車輸送に替えたし、また沿線に勢多水銀鉱山を開発させた。当時の時刻表をみると全線を約4時間掛けて運行されていたようだ。
 戦後,電源開発のため糠平ダムの建設が昭和27年り開始され、これにより、士幌線の一部が水没することになり、ダムの上流部ではそれまで川の東側を走っていた旧線をダムに沈まない西側に掛け替える工事が昭和29年から始まった。ここにも数多くのコンクリートアーチ橋が設けられ、トンネルも新たに掘削されて、標高531mの高地に糠平駅が移転した。また、昭和30年に(1955年)になると早くもDCの導入と「客貨分離」が行われて、SLによる旅客輸送は姿を消した。
 その後に、士幌線と併走する国道273号線の整備が進み、昭和47年(1972年)には念願の三国峠が開通して上士幌と上川が道路で結ばれるなどのモータリゼーションの波が押し寄せて来た。その後に起きた木材需要の低迷などが重なって士幌線の衰退に拍車を掛けた。
そして、1978年には糠平ー十勝三股間がバス転換となり、三股の造材も縮小された。昭和50年(1975年)4月20日の貨物列車を最後にSLの運行が終了した。そして、昭和62年(1987年)3月22日の「さよなら列車運行」が行われ、63年の歴史と多くの美しいコンクリート アーチ橋を残して士幌線は消滅した。
最後に、士幌線の遺産として今も保存されているコンクリートアーチ橋の一例を紹介したい。それらは上士幌の市街地から糠平、十勝三股の山岳森林地帯を南北に貫く国道273号に並行して所々に見かけるコンクリートアーチ橋や中央部の鉄桁が失われて残った両脇部のコンクリートアーチ橋などの多くである。この代表として第3音更川橋梁を公表されている写真を添えて取り上げてみた。この鉄筋コンフリートアーチ橋梁は昭和11年(1936)年の完成で、それは清水谷駅より5.0kmの所にあった。この橋の大きさは「10m×2+32m+10m」の三連アーチで、全長 71mである。この音更川をひとまたぎする32mのアーチは北海道一の大きさを誇り、当時初めて経間30mを越えるコンクリート アーチ架橋の金字塔であった。ここは桜と釣りの名所である泉翠峡という景勝地に架かる美しい橋であって、国指定の登録有形文化財や北海道遺産となっているのだった。この橋は鉄道建設研究史上からも高く評価されているのは、関係した技術者が周囲の大雪山国立公園の自然美と調和したデザインに配慮した上での設計であった点であると云われているが、このコンクリート橋の採用には現地で調達が容易な骨材である砂や砂利を利用して予算軽減を狙っていたことも事実のようであったようだ。
この他に、タウシュベツ川に架かるアーチ橋は糠平湖の水かさが増える6月頃から湖面に沈み始めると云う「幻の橋」と云われているモノが有名である。

撮影:昭和48年1月


★次のがぞうを〈0003〉と比較して検討。(マイピクチュアーに所在)

つじの