自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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212. 啄木のふるさと「渋民にて」 ・東北本線/渋民付近
−姫神山と岩手山遠望。松川鉄橋を渡る-
〈0001:15-8-1:姫神山をバックに 渋民にて〉
sl212. 0001
〈0002:bP31031:岩手山遠望〉
〈0003:bP31055:松川鉄橋を行く〉
〈0004:bO70351:松川鉄橋を行く急行客レ・渋民-好摩 間〉
〈撮影メモ〉
この松川は八幡平(はちまんたい)を源に、日本最大の言おうを産出した松尾鉱山跡を有する赤川を合流して岩手山の北側を約40q東流して北上川に合流する大支流であった。この合流点の川幅は広く、日本鉄道が架橋工事の際に、英国帰りの新鋭測量技術者であった大久保技師が洪水の濁流中に殉職した地点でもあったと云う。』
〈0005:bU663:桜の咲く頃〉
〈撮影メモ〉
《奥中山の帰りにちょっと立ち寄ってスナップしました。》
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〈紀行文〉
昭和43年5月に東北本線奥中山の大谷地カーブへの撮影行に出かけた時に、何故か石川啄木にこだわって初日を渋民(しぶたみ)駅の辺りで過ごしたいと思い付いたのだった。徹夜のロングドライブの末に、早暁の未だ明け切らぬ盛岡駅前に付いたのだが、いつもの機関区参りを取りやめて、いそいそと駅前広場に向かった。ここには啄木の50回忌を記念して昭和37年(1962年)に建てられた歌碑があったからである。それは横長の大きな石碑であって、そこには
『ふるさとの山に向ひて言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな』
と刻まれていた。これは処女歌集『一握の砂』の中に収められたカッコ「ふるさと 渋民」を回想する望郷の歌54首のしめくくりとして詠んだ一首であると云う。啄木がふるさとを追われて3年が過ぎた頃に東京で詠んだものであると云われている。
この「ふるさとの山」とは、岩手山か、または姫神山(ひめかみさん)のどちらを指しているのであろうか。確かに、幼年時代の「ふるさと」である渋民村は東にある姫神山の山麓であったし、また青年時代の11年間を過ごした盛岡の北西には岩手山がそびえていたからである。ともあれ、“ふるさとの山”は先ず『姫神山』と云うことみ決めて、渋民駅へ向かったのだった。今でこそ盛岡市内となって住宅地が広がっているが、当時は全くの田園地帯であって、手前に線路、そして悠々と流れる北上川、そして広く続く山麓の先にそびえる円錐形の姫神山を遠望する景色に聞き込まれてしまった。この沿線を午前中に歩き回って多くのショットを試みた中で、渋民駅を発車した上りの旅客列車が白い煙を引いて眼前を走り去る光景を選んでみた。
この珍しい耳なれない「渋民(しぶたみ)」の地名は、これもまたアィヌ語説が有力であって、「スプ・タ・アン・ムィ」から「スプタムムィ」と転化したもので、「渦流・そこに・ある・淵(ふち)」の意味だと云うのであった。この辺りを流れ下る北上川の流れは赤茶けた魚の住めない「死の川」となっていたのは、その頃、硫化鉄と硫黄の採掘の最盛期だった八幡平の松尾鉱山から流れ出る排水が鉄分を含む強い酸性の鉱毒水であって赤川から松川を経て北上川に注い込んでいたからであった。それに引きかえて、眼前に大きくそびえ立っている姫神山(標高 1,124m)の美しい山容は啄木の育った時代と少しも変わってはいないのであろう。奥中山からの帰りの東北本線の車窓から見える優美なスロープの山容を見るたびに、SLを前景に撮っりたいとの衝動にかられたものであった。
この山は北上山地の西縁に位置しており、江戸時代の『日本名山図会ずえ)』の著者 谷文晁(ぶんちよう)は、姫ヶ岳としている。古文書によれば、延暦年間(782〜806)、坂上田村麻呂が、岩手山の夷賊討伐の時、彼が京の都を荒らした鬼を退治した際に守護となったとされる立烏帽子神女姫神(たてえぼしひめ)を姫神山頂に祭って姫ヶ岳と呼んだという。
この山は非火山性の北上山地の古成層を貫く全山が花崗岩(かこうがん)からなる残丘なのだそうで、その山頂付近では花崗岩を露出させており、山岳修験道(しゅげんどう)の信仰の霊山であるとか。かつては黄金の山として栄えたようで、近くにも、多くの金山跡が残っているとのことだが、今はそれに替わって、美しい桜色を放つ花崗岩である「姫神小桜石」を産出している。
この姫神山は岩手山から東へおよそ20k、早池峰山の北40kほどの所にあるのだが伝承によると、岩手山が雄神、姫神山が正妻、北上山地の盟主である早池峰山が妾(めかけ)という三角関係になっているのだと云う。それで、岩手山と姫神山が晴れると早池峰山は曇り、早池峰山と姫神山が晴れると岩手山は曇るらしいのだそうだ。そんな山の案内を読みながら草原で一休みした。そして、今度は北上川の対岸の姫神山の山麓へ移動して、岩手山の威容を300粍望遠レンズを使って狙ってみた。
さて、盛岡市の北方約18kmにそびえる岩手山は奥羽山脈に属してはいるが、その主稜線からは東へ姥倉山、大松倉山と続いてはいるものの、随分距離さ離れていて独立峰に近い姿である。その位置は盛岡平野と八幡平高原との中間にあって長くすそ野を引いたコニーデ型の活火山の総称であった。
そして東西に配列した複数の火山から成っており、その山体の3分の2を占める約30万年前から形成した西岩手火山と、その外輪山の東に寄生火山として覆い被さった東岩手火山が重なってできている。この山頂部には東西約2.5q、南北約 1.5qもある大地獄カルデラがあって、そこには御苗代湖、御釜湖の火口湖があり、お花畑といわれる植物群落がある。また、北側に屏風岳、南側に鬼ヶ城と呼ばれる荒々しい地形を見せている。
一方の東岩手山は薬師岳(標高2038m)を山頂とする成層火山体であり、ここには東西1.25q、南北1.7qの鬼又沢カルデラがある。山頂は御鉢、火口は御室と呼ばれている。この山の木賀氏から北東へは火山噴出物の体積によるなだらかな長いすそ野を引いた山麓が広がっている。
この山は、と元々「巌鷲山(いわわしやま)と呼ばれていたが、この文字の「」がんじゅさん」が「岩手」の音読み「がんしゅ」と似ていることから、転訛して「岩手山」となったとの説がある。また、北東斜面には享保4年(1719年)の噴火によって流れ出た焼走り熔岩流の荒涼とした光景が眺められる。このような溶岩流を「岩出」と表現したことから、岩流によって岩の押し出した所の意味で、「岩(いわ)」「出(いで)」が転じて“岩手”となったと云う説も伝えられている。
そのような成り立ちから、この岩手山は眺める角度により形や印象が丸で異なるのであった。この東から北東麓には特になだらかな美しい裾野(すその)を広げているので、東北本線の周辺からは両端の均整の取れた美しい姿を望むことができた。また、古来から信仰の山で、山頂外輪を取り囲むように石仏が、山麓の滝沢には岩手山神社が祭られており、参詣登山には滝沢からのルートが用いられていたようだ。これらを一望できるのが渋民の高台からの眺めであった。
ところで、江戸時代の奥州街道の盛岡宿の次の宿場として栄えていた渋民宿には当初から日本鉄道の停車場は設けられず、昭和18年(1943年)になって輸送力増量のための信号場として滝沢−好摩間に設けられたのが渋民駅のはじまりで、昭和25年にやっと駅となったと云う。いかに明治の渋民宿の有力者たちが鉄道を嫌っていたかが判るような気がする。この渋民で誕生した石川啄木は盛岡へ汽車通学のために
清らかな北上川を渡って遠路徒歩で
好摩停車場まで通ったと伝えられている。それだけに故郷の風情を詠った単価が生まれたのであろうか。皮肉なことに、最近になって、駅前に啄木の歌碑が建てられた。それには、
『 なつかしき 故郷にかへる思ひあり
久し振りにて汽車に乗りしに
〜 啄木』
その後昭和に入ってから、あの松尾鉱山からの廃水で赤茶色に濁ってしまっていた北上川も、昭和57年から始まった画期的な排水処理である、鉱毒水中の鉄分を鉄酸化バクテリアによって酸化させてから中和する処理法が成功して、川は啄木の見た清流に蘇っているのは啄木にとってもうれしいことだろう。
そして奥中山方面で撮り終わってから早めに帰途についた。岩手川口だったか、渋民であったかが思い出せないのだが、線路際に立ち寄ってみると見事な桜並木が構内のはずれに満開であった。しばらく待ちつづけて、下りの重連貨物がやってきたのをショットして「みちのく」に最後の別れを告げた。
撮影:昭和43年5月4日。
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