自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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211.  夏の急行「ニセコ」  ・函館本線/小沢-倶知安


〈0001:24-4-4:倶知安峠に挑む〉 1
急行ニセコ 小沢駅遠方信号のある大カーブを登る 函館本線・小沢→倶知安 函館本線・

〈0002:24-4-5:#倶知安峠へ挑む 2〉
前補機C622号機の急行ニセコ 函館本線・

〈0003:おまけ:bP61246:羊蹄山バックのD51、倶知安駅にて〉



〈撮影メモ〉
急行「ニセコ」を撮り終わって倶知安駅に戻って来てみたら、羊蹄山の雲がとれてスッキリみえたので入れ替え中のD51を前景にすかさずスナップして置いた。いつかは下りの「ニセコ」を撮ろうと決めてはいたがチャンスに恵まれなかった。

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〈紀行文〉
 私のSL撮影の駆け出しの頃であった。昭和43年秋のダイヤ改正の「よんさんとう」(43年10月)を迎えていた。そこでは東北本線の奥中山D51三重連が終焉(しゅうえん)を迎える一方、北海道では函館本線の小樽-長万部間の、いわゆる山線にC62重連牽引の「急行ニセコ」が走り初めて話題を競っていた。ここでは、その昔東海道本線で「特急つばめ」を牽いて活躍したC622号機が「つばめ」のエンブレムをデフレクターに輝かせて先頭に立って活躍したから人気は沸騰したのだった。
しかし私は、全国に散在する撮影名所に魅せられて飛び回っていて、その活躍ぶりに接したのは僅か3回ほどで、それも厳冬を避けた初夏のころばかりであったが、その勇姿に酔いしれることはできたが、撮影の成果は芳しくなかった。やがて、1971年(昭和46年)の夏がやって来て、鉄道ファンを熱狂させたC62重連 “急行 ニセコ”はいよいよ終焉(しゅうえん)の時を迎えようとしており、その「サヨナラ」として7月から3回のC62 三重連牽引の「急行ニセコ」の運転が催されるとのニュースを伝え聞いて愕然としたのだった。それには自らが納得できる「急行ニセコ」のショットが未だ得られていなかったことに気がついたからである。そこで急いで、三重連のイベントを避けて、やっとのことで8月1〜2日の休日を見付けて札幌行きの夜行便であったYS11の乗客の一人となったのだった。
そして迷わずに多くの撮影ポイントの散在する小沢駅からサミットの倶知安トンネルへ向かうことに決めて、見覚えのある小沢駅に降り立った。
この撮影行の成果であるモノクロの6X7のねがを古いアルバムから二枚だけ選び出すことが出来たのでお目に掛けたいと掲げてはみたが、その撮影場所となるといささか確信が持てなかった。当時の撮影手帳は現存しているのだが、光を失った今の私には判読が難しかった。そこで、このHPの相互リンクでお世話になっていた稲穂峠の大俯瞰(フカン)と稲穂茶屋で知られる “NORTH DRAFT” のMGである服部さまから貴重な御示唆を頂いて、この紀行文を綴っていることを記して、感謝の念をを表しておきたい。
 最初の一枚は、小沢駅の遠方信号機のある203.1キロポスト付近の通称「小沢看板」と呼ばれた大カーブのポイントで、以前から人気の撮影場所であった所だ。この日は幸運にも「つばめ」のエンブレムをつけたC622号機が前補機を務めていた。小沢駅を発車して全力で加速に掛かったところであろうか、吐き出された黒煙は後ろになびいて、やがて白煙に変わって長くたなびいた。
次の日に撮った一枚も倶知安トンネルに近い197.1キロポスト付近のように思われる。ここは国道5号線をアンダーパスした先の方であり、C62は曲率半径250mの小さなSカーブを回り、峠を目指して最後の奮闘と云う所で、人気のスポットでもあったようだった。この日は気温が高かったのか、お得意の黒煙を盛大に吹き上げて轟音を響カセながら通り過ぎて行ったのだった。
 所で、この小沢駅は明治37年7月18日に待望の倶知安トンネル(全長 1012m)の開通と同時に開業している。函館と小樽の南北から建設が続けられて来ていた北海道鉄道会社の北鉄線は、残されていた小沢駅から南へ倶知安トンネルを越える線区が開通して函館-小樽間が全通したのであった。この山岳地帯を横断する小樽と長万部の、いわゆる“山線”の中央にある倶知安トンネルの直ぐ北に位置する小沢駅は、北の稲穂峠(国道トンネルは標高 391m)と倶知安峠(国道トンネルは標高250m)の山々に挟まれた山あいの谷底に開けた僅かな水田のある人工70人足らずのの小さな部落に開設され、標高は53mであった。この駅を発車した列車はいずれの方向も20パーミルを登ることに挑戦することになるから、SLの給水や石炭の整理などが必要であり、それに郵袋や小荷物の積み卸しのためにC62重連牽引の「急行ニセコ」は小停車を強いられていた。
小沢駅から南隣の倶知安駅までの駅間距離は10.3kmであって、その小沢からは延々7km余り、ひたすら20パーミルの急勾配とR300、R250と云う急曲線が連続するから、途中で息の抜ける場所は全くないのだった。そしてサミットの倶知安トンねるを抜けると、その先を僅かに下れば倶知安の市街に入ると云う行程である。この間では、国道5号線がほぼ鉄道に沿って通じており、豊かな森林の中に線路が見え隠れしており、時にはドラフトノ轟音が風に乗って届いて来た。それ故に撮影ポイントへのアプローチには便が良かったのは有り難かった。この小沢からの国道は鉄道をサミットの手前でオーバークロスして、更に登り標高250mの所で倶知安トンネルで峠の下を抜けている。
この小沢→倶知安間10.3kmを15分で走るように運転ダイヤは設定されている。つまり、時速41.2kmとなる。だからC62の大動輪では、この急勾配では35km/h以下になるととたんに空転しやすくなるのだそうで、あの狂ったようなジェット機の爆音まがいのうなりを上げて峠を駆け抜けていく理由はここにあったのだと納得されたのだった。
 ここで函館本線と急行ニセコについての昔を回顧してみたい。明治の初めの北海道は本州から航路で小樽港に向かうのが交通のメインルートであったから、明治13年からの北海道の鉄道建設は小樽以遠が最重要線として先行していた。それ故に小樽-函館の間は海路が利用できることから、鉄道建設は後回しにされてしまっていた。それでも、北海道鉄道会社が設立されて、1902年(明治35年)にハ函館駅が開業して、北への延伸が続けられた。遂に1904年(明治37年)には小沢駅に達して函館-小樽の北鉄線が全通した。
この北海道鉄道が建設した長万部−小樽間には太平洋岸の噴火湾から日本海の積丹(しゃこたん)半島の北へ抜けるための山越えには5つの峠が控えていた。それは南から、1)蕨岱(わらびたい)越え(二股−黒松内)、 15.0パーミル、2)目名峠 (熱郛−蘭越) 20.0パーミル、3)倶知安峠(くっちゃんとうげ):(倶知安−小沢)20.0パーミル 、4)稲穂峠:(小沢−然別)20.0パーミル、5)於多萌峠(オタモイとうげ):(塩谷−小樽) 20.0パーミル などである。その多くは20パーミルの長い勾配とR250〜300mの半径の急カーブがS字を描いて存在し、しかも冬季には日本海性気候で積雪量が多いと云う、真琴に鉄道にとっては苛酷なルートであった。後年ににできた札幌-長万部を海沿いの平坦線で行く千歳線・室蘭本線経由が“海線”と呼ばれたのに対して、小樽-倶知安−長万部は“山線”と呼ばれるようになった。
 その3年後の鉄道国有化により、以前から小樽以北で開業していた二つの鉄道線を含めて函館から小樽、札幌を経て旭川までのメインルートとして、函館本線が誕生した。戦前は、青函航路と稚泊航路を介して内地とカラフト(樺太)を、その後も本州と道内各都市とを結ぶ動脈であったが、小樽における貿易や民間航路、そして漁業の衰退と、金融の中心機能の札幌への移転、また室蘭・苫小牧地区の工業の発展と、それに合わせた室蘭本線・千歳線の改良によって、函館本線(山線)の地位の低下が始まった。それは1961年(昭和36年)10月1日:サンロクトオのダイヤ改正の時からで、北海道初の特急列車として室蘭本線・千歳線経由で函館 〜旭川間に「おおぞら」が運転され、同様に函館〜釧路間の「摩周」(ましゅう)が格上げされて走り始めたからである。その後の新規の優等列車は「海線」経由で設定されることが多くなっていった。
その後、昭和38年ではC62急行「大雪」はディーゼル急行「宗谷」と替わってしまったが、未だ釧路-函館の「まりも」がC62牽引で頑張っており、その他にも僅かのC62の運用が残っていたようだ。
やがて、昭和40.10.1日のダイヤ改正では、釧路-函館の急行「まりもの札幌-函館間を分離独立して、「急行ていね」が設けられた。これには優等列車の象徴でもあった食堂車が連結されていた。
しかし僅か三年後の昭和43年10月1日の「よんさんとう」のダイヤ改正では、以前は札幌-倶知安蘭越間の準急として運行されていたニセコが、函館から山線(倶知安・小樽回り 函館本線経由)を走る急行の統一名称として用いられるようになった。それ故に、当初は夜行もあり、行き先もバラバラだったようであった。その中で「急行ていね」を引き継いだと思われるのは、下り(函館発札幌行き)3号、上り(札幌発函館行き)1号(104レ)であって、食堂車こそ消えてしまったが、客車列車として運行され函館−小樽間はSL C62だ牽引することも引き継がれていた。それに加えて、この列車が撮影可能な時間帯の運用であったから鉄道フアンの血を沸かせたのであった。
その旧型を含めた客車列車の存在理由の一つには、郵便や荷物の輸送にあったようで、客レの「急行ニセコ」には本州から青函連絡船を経て航送されて来た郵便車と荷物車が連結されていた。
この列車は車軸発電機を装備したスハ43形と北海道形のスハ45形を中心とした一般形客車(旧型客車)で編成を組んでおり、それに連絡船で航送されてきた東京隅田川から直通の荷物車や郵便車を併結して
下りは9両、上りは11両編成となっている。
ここで上り104レの評定速度を時刻表から探ると、小樽−長万部間140kmを3時間1分で、表定速度は46.6km/hであった。これはDC特急より1時間は遅いのだが、それはSLの給炭や給水、それに加えて・郵袋や手荷物・小荷物の積み下ろしのため停車時間が必要だったことが挙げられるという。
函館本線のC62は小樽築港区所属で、「まりも」時代は7両であったが、「ニセコ」の黄金時代の専用のカマは2・3・15・16の4輛であって、その運用は急行「ニセコ1,3号」の小樽−長万部間の前補機に1輌,小樽−函館間の上り急行「ニセコ 1号(104レ)」の本務機など。その他に上下の夜行急行も担当していたようだ。その運用の一例を示せば、小樽から上り急行ニセコ104レを引いて長万部まで行く。ここで、前のC62が切り離されて、これはしばらく長万部にとどまって、下り急行ニセコを待ち、16:45に再び前部に連結されて重連で小樽に戻ることになる。
しかし、このC62の活躍も僅か3年後の昭和46年9月に無煙化を迎え、DD51にバトンを渡して幕を閉じた。
この北海党におけるC62の活躍の終焉が近づくと多くのイベントが催されたと云う。1971年(昭和46年)夏、7月18日を最初に“ニセコ”牽引最終日の9月15日迄、計3回の3重連運転が行われた。特に昭和46年9月の「3重連運転」では、「山線」沿線は「ファン」で溢れ、「DC急行らいでん」を「倶知安峠」に臨時停車させる措置が取られたほどであったと云う。
 最後に、列車名の「ニセコ」の名称の由来に触れておこう。これは昭和37年(1962年)に発足したは蘭越−倶知安−札幌間の準急に「ニセコ」の名前を先駆けて採用しており、
その先見の明には驚かされる。今でこそ「ニセコ」の名は世界的にパウダースノーで有名な国際スキー場のある地域として知らぬ者はないが、当時は未だ「にせこ」は生まれたばかりの名前であったようである。
この「にせこ」の語源は函館本線が倶知安から蘭越へ向かう線路に絡むようにして流れ下る尻別川(しりべつかわ)の大支流の一つである現在名「ニセコアンベツ川」の本来のアイヌ語地名、ニセイコアンペッ nisey-ko-an-pet(渓谷・に向かって・ある・川)であることから、その前半部分の「ニセイコ」を、「ニセコ」とさらに縮めて地名として使うようになり、川だけでなく、尻別川を挟んで羊蹄山(標高 1,898m)に対向するニセコアンヌプリ火山群の主峰のニセコアンヌプリ(標高 1,308m)や、その西にあるニセコチセヌプリ(標高 1135m)、ニセコイワオヌプリ(標高 1,116m)などの山々にも使われるようになり、この地域一帯を表す地域名との理解が進んでいたようだ。その証拠には1958年(昭和33年)に制定された道立自然公園条例によって、道立公園だったこの地域が「ニセコ道立自然公園」となっており、そして1963年(昭和38年)7月には、ニセコ積丹小樽海岸国定公園に引きつがれている。遅ればせながら、
狩太(かりぶと)町が1964年(昭和39年)に「ニセコ町」と云う日本初のカタカナ町名に改称し、国鉄も狩太駅を1968年(昭和43年)4月1日にニセコ駅に改称しているのである。

撮影:昭和46年8月1日
アップロード:2011−01.

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参考:服部産のホームページのアドレス
NORTH DRAFT<TOP> http://homepage2.nifty.com/c623/
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