自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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200.  貨車入れ替え中のC50 123号機 ・東北本線 /小山駅構内

〈0001:22-1-4-1:C50123号の入れ替え風景〉
この季節には「クルクルパー(開店火の粉止め)」は装着されてはいなかった


これからの二枚の写真の出典は次の通りです。
「私の撮った鉄道写真」
 http://homepage3.nifty.com/m_horikoshi/
「別冊3,小山機関区」から転写させて頂いた。厚く感謝申し上げます。

〈0002:蒸気機関車館の有力候補だった小山機関区:1964年(昭和39年)〉
堀越通生さま撮

〈003:小山駅構内のC50のプロフイール〉
1964年(昭和39年)12月堀越通生さま撮

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〈紀行文〉
 SLを撮り始めてから二年目の1966年(昭和41年)の初夏に、開園して1周年を迎えたばかりの小山遊園地と近くの城山公園を幼かった子供たちを乗せてクルマで出掛けた。当時住んでいた埼玉県南部の和光市から荒川を渡って、国道4号線に出て関東平野を北上、利根川を越えて約60qほど走った所で、昨年全通したばかりの小山バイパスに入った。この小山の中信街の西側を抜けて両毛線(小山−高崎間)を跨ぐ陸橋を越えた右側の高台に巨大な観覧車が姿を現した。
この小山の付近は、古墳時代はもとより、律令時代には下野(しもつけ)国(栃木県)の国府と国分寺、それに日本三戒壇のひとつである下野薬師寺などのある下野の中心地であり、中世にな下野国の守護や鎌倉幕府の評定衆として活躍した小山氏の城下町となり、江戸時代初期には徳川家康の重臣の本多正純が小山城主となり17年間治めていた。その本多氏が宇都宮への転封後は、城は廃城となり、城跡には、徳川将軍家の日光社参の際に休憩所となる小山御殿が造営され幕府の支配下に置かれた。その後は各方面への分岐点としての日光街道の宿場として、また江戸へ通じる思川の舟運の拠点となって栄えた。明治に入ると東北本線・両毛線・水戸線となる各鉄道が開通して交通の要となって発展している。
この遊園地で時を過ごしていると東南方向の東北本線の小山駅の方から蒸気機関車の汽笛がしきりに流れてきていた。当時は両毛線や水戸線、それに貨車の入れ替えに蒸気機関車が活躍していたのであった。
そこで、城跡のある城山公園に立ち寄る前に駅の北方にある結城街道(国道50号(現在の県道234号小山結城線)が東北本線を跨いでいる陸橋の上から貨車の入れ替えをやっているC50を一発狙うことにした。
幸運にも、北方から東北本線の上り線をC50 123号が貨車の列を引いて貨物ヤードへ戻って来るところを捕らえた。この日は手応えを感じたこともあって1枚撮って、後日を期して引き上げたのだった。
しかし、この時のショットは陽の目を見ることなく約50年の年月をアルバムの中で眠っていたのだった。
今回は、私の唯一のC50の写真と共に、往時の小山ー駅構内の雰囲気を回顧してみたい。
小山駅は1885年(明治18年)に青森へ向かう日本鉄道線現在の東北本線)の駅として開業したのが始まりで、その3年後には高崎線とを繋ぐ両毛鉄道線(現在の両毛線)が、その翌年には常磐地帯に延びる水戸鉄道線(現在の水戸線)が開通して鉄道の十字路となった。やがて両鉄道が日本鉄道の傘下とたり、1906年(明治39年)には日本鉄道が国有化されて国有鉄道の駅となった。
当時の小山駅には12本の線路があり、西北側に両毛線の頭端式ホームがあり、少し離れて東北本線の島式ホーム2面があり、上下それぞれに副本線と貨物列車の待避の中線があり、続いて水戸線のコームとなっていた。両毛線の東側の線路からは東北本線の6線を「だぶるすりっ くろッシング(両渡り線付き交差)」を経て横断して水戸線へ通じていた。その東側には貨物発着線を持った貨物ヤードの側線が敷かれていた。
駅の南方(東京寄り)では先ず水戸線が左へ分岐しており、その先で東北本線から水戸線への短絡線が東京寄りから分岐していた。これは常磐線の貨物列車を水戸線経由で東京の貨物ターミナルとなっていた大宮(操)へ直通させるための線路であり、大宮(操)〜水戸間をD51牽引の貨物列車が頻繁に往来していた。
そして、東京寄りの水戸線、東北本線、水戸線と東北本線との短絡線が形作るデルタ線の内側に小山機関区が設けられていた。この機関区は中規模の12線収容のコンクリート造りのラウンドハウス(扇形庫)とターンテーブルを中信に、給炭・給水設備などを備えていた。昭和40年前後の担当仕業は水戸線、両毛線、真岡線と旅客、貨物への運用と小山駅構内の入換えであった。その蒸気機関車には、C58・C50が水戸線・両毛線、C12が真岡せん、C50が入れ替を担当していた。それに他区からの蒸気機関車が来訪していた。
駅の北側では、先ず両毛線が左へ急カーブで分岐しており、その左手に沿って昭和シェル石油の油槽所の専用線や工場への引き込み線が敷かれていた。次ぎに東北本線の東側には貨車取り扱いの側線を持つ大規模な貨物ヤードとなっていた。その北東からは右へ大型変圧器を発送する高丘製作所専用線(全長2.8q)が延びており、駅の東側には日清製粉小山工場への引き込み線が設けられていた。
そのご、昭和45年7月には両毛線が無煙化となり、小山機関区の役目は小山駅構内の入れ替えのC50だけの運用となってしまった。
実は、その1年位前ころから国鉄が鉄道開業100念記念事業として、蒸気機関車の動態保存を計画しているとの話が聞こえ始めた。これは1967年4月に当時の国鉄トップから「蒸気機関車全廃後も一部を動かせる状態で保存できないか」との調査指示が出たのが始まりだと云われる。そして、関東地区での保存を前提とした検討がなされ、最有力候補地となったのが東北線の小山機関区だった。その保存両数も扇形庫の規模から12両とする案であった。当時の小山機関区にはC50が入替用として現役でおり、計画には週末に近隣の両毛線、水戸線などでイベント列車の運行も考えられていた。そして、1968年に紆余曲折の結果、「蒸気機関車動態保存館」の設立が了承された。そして中部・関西地区を加えて、機関区の歴史的価値、周辺路線の運転条件、訪問者の交通利便などの要件で再検討した結果、京都の梅小路機関区が選ばれた。ここの収容能力から保存車は17両となった。この案は1971年に正式に決まったのであった。

さて、最後にC50形 蒸気機関車についてである。
国鉄)の前身である鉄道省が製造した旅客列車牽引用の車軸配置2-6-0(1C)、動輪径 1,600 mmの過熱単式2気筒のテンダー式蒸気機関車で、最大軸重 14.90 t、
総重量 53t、出力 852 PSである。
1929年(昭和4年)から4年間に154両が製造された。
大正生まれの8620形をベースに、空気ブレーキと給水加熱器をテンダーに標準装備して近代化している。そのため軸重が大きくなり、汎用性が低下したと言われる。
戦前は東海道本線の区間快速列車や、地方の旅客列車や小単位貨物列車など、軽量な列車の牽引に使用された。C58形の増備に伴って戦前の時点で第一線を退き、入換用となるものが多かった。
特に、関東地方では小山機関区に集中配置されており両毛線の客車、水戸線のかもつ、小山駅構内での入れ替えに活躍していた。C50として最後の営業運転をしたのは両毛線の旅客列車への運用であったことは良く知られており、本線仕業で使うので 本省式細管給水温め器と給水ポンプが残されており、デフレクタを装備していた。また、化粧煙突も残されているものが多かったと云われている。

〈参考資料〉:
その後、2005年には小山遊園地は廃止され、跡地にはショッピングモールおやまゆうえんハーヴェストウォークと小山温泉 思川となっている。また小山駅には新幹線が開通し、両毛線の電化がおこなわれ、貨物ヤードも縮小し、貨物取り扱いも臨時駅となってしまった。それに、短絡線も機関区も撤去されてしまった。そして、C50123号機は小山市内に大切に静態保存されている。これらの現状を報告している風間 克美さまのwebをリンクで紹介した。
「地方私鉄 1960年代の回想」: 小山機関
http://umemado.blogspot.jp/2013/01/blog-post.html
また、「蒸気機関車館」については下記のサイトを参考にさせていただいた。
「梅小路機関区から梅小路蒸気機関車館へ」
 http://homepage3.nifty.com/EF57/train/ume.htm