自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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199.  伊勢路の渡し「宮川橋梁」 ・参宮線/宮川−山田上口


〈0001:〉
宮川橋梁 参宮

〈0002:〉
櫛田川橋梁を渡るC57 紀勢本線・多気−徳和

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〈紀行文〉
 江戸時代以前の昔から、東国からは東海道の四日市から、西国からは大和街道や東海道で追分から、奈良からは初瀬(はせ)街道で、それぞれが伊勢街道に合流して松坂、津を経て伊勢神宮のある山田を目指して年に数百万人にも達するような人々が往来していたと聞いて、驚区ばかりであった。その伊勢参りの最後の難所が「宮川の渡し」であった。この宮川は、関東、あるいは京からの人々は参宮客も勅使も全て神都伊勢に入るためには必ず渡らなければならぬ、伊勢最大の河川だったのである。
この川は三重/奈良の県境にまたがる台地で世界的に見ても多雨地帯として知られる大台ヶ原の中にある大大台ヶ原山(標高1695m)に源を発して、上流域は近畿の秘境とも日本三大渓谷の一つとも呼ばれる大杉谷を作り、大内山川などの支流と合流しながら北東に流れ、延長 91 kmを流れ下って伊勢湾に注いでいる清流である。
宮川は毎年のように氾濫し、大水害を引き起こして来た。そこで伊勢神宮(外宮)の一番大きな別宮として土宮(つちのみや)に地主の神 大土御祖神(おおつちのみおやのかみ)を洪水防護の堤防の守護神としてお祭りしているほどであった。
それでも近世以前には宮川に橋が架かってており、長享元年(1487)に大降雨のため宮川橋が落ちて,京都から団体で「伊勢詣で」に出かけてきていた人々の数百人が溺死するという惨事が起こり、以来、架橋は行われず渡し船となってしまった。宮川下流周辺に伊勢神宮があるため、神宮を重視した豊臣秀吉と後の江戸幕府の山田奉行所により治水工事が行なわれ、洪水の被害は激減したのだが、しかし増水に耐えられる橋が下流域に架けられたのは明治期になってからである。これほどの暴れ川も今は、堤防の強さと多くのダムの建設により川の流れは一定していると云う。
 そこで伊勢街道に設けられた渡し場は「桜の渡し(下の渡し)」と呼ばれ、地元の歓迎と奉仕のあらわれであったろうか、無料の渡し船であったと云う。
この場所にたくさんの茶屋や、御師(伊勢参りの案内者)の出迎えの看板が立ち並んで参詣者を歓迎していた。また、めでたく参宮を終えて帰る伊勢講を送る道中歌もひっきりなしに聞こえていたとの風景が広重の版画に描かれていると云う。
この「桜の渡し」の名は堤防に飢えられた桜並木にちなんでいるようで、今も宮川堤は桜の名所100選に入っている。
さて、明治になって、人の往来の主役は街道から鉄道の時代へと移りつつあった。その主軸となる東海道本線の開通に続いて三重県内では、東海道本線の草津から四日市を結ぶ関西鉄道が柘植、亀山を経て明治23年(1890)に開通している。さらに名古屋への延伸と、柘植から奈良方面への支線の建設が進められていた。一方の伊勢方面には、亀山−津間の津支線が明治24年(1891年)に早くも開通していたが、津−山田間への延伸は後回しにされていたようだ。それはおそらく、その頃に手がけていた各方面への新線建設のため、ここまでは手が回らなかったのであろうか。
このような背景に、明治21年(1888年)に宇治山田町の有志が津-小俣間の南勢鉄道を出願したが、「短距離であることと、関西鉄道の延長を待つべし」として却下されてしまった。しかし翌年、渋沢栄一や大蔵喜八郎らの「財界の大もの」を発起人に加えた参宮鉄道が津-小俣間を再び申請したところ、一転して伊勢神宮への参詣者が多いことから、急いで建設する必要が認められ、関西鉄道津支線と連絡することを条件に明治23年(1890年)に免許が与えられた。そして、頭書は海岸を通っていた松坂−宮川間のルートを昔の街道筋を避けることとして山側に変更して、明治26年(1893年)に津-相可口(今の多気)-宮川間を開業した。次いで、伊勢の大河であり、暴れ川であったる宮川への架橋工事の事前調査が詳しく進められて、宮川−宇治山田間の延長免許は明治29年になってやっと取得した。そして終点の宮川駅の近くに宮川鉄工所を自前で設けて橋桁の製作を行うと云う不退転の気構えて進められた。やがて宮川橋梁が完成して、明治30年(1897年)に山田駅(今の伊勢市)まで延長開通した。それにより「お伊勢参り」の乗客を多数乗せ、参宮鉄道は大いに繁栄したと云う。そして、明治40年(1907)になって、関西鉄道津支線と、参宮鉄道は共に国有化されて「参宮線」となった。戦前まで参宮線の一部は複線化されており、戦後も1960年代に掛けては、姫路や京阪神と伊勢市をを直通する快速列車が高速で、東京〜伊勢間を夜行列車が運転された重要線区であったのだった。
この伊勢街道の「桜の渡し」の代わりとなった参宮鉄道の宮川橋梁は、昔の渡し場のすぐ近くに架けられており、現代の伊勢街道である国道20号線の宮川橋もその付近に架かっている。
  渡しが参宮線に足を向けたのは無煙科の1年前の昭和47年5月の頃で、既にSLの牽引する旅客列車は亀山−伊勢市間の一応福だけとなっており、亀山区のC57が仕業についていたようであった。
そこで、早暁に泊まっていた鈴鹿市をクルマで出て、迷わずに宮川橋梁に向かった。薄曇りの朝の宮川堤をあちこちと撮影ポイント探しに歩き回った末に上流側から狙うことにした。
ここでお目に掛けた作品は、伊勢市へ向かって宮川橋梁を渡る821レの客車6両を牽いているC57の姿のはずだと思うのだが。
そこで 『米坂線の蒸気機関車〈http://www.eonet.ne.jp/~sl59634/〉』 を主宰されておられる鈴木さまにご判断をお願いしたところ、「写っているSLは間違いなくC57です。デフの前の上が斜めにカットされている4次型ですから、当時亀山機関区に配置されていたC57110、C57148、C57198のうちのC57198だと思います」と教えていただき、感謝をこめて、ここにご披露させていただいた次第です。
この橋の上を渡っている列車はともかく、リベットの頭でゴツゴツした鉄骨と溶接した補強材が織りなす明治と昭和の橋梁技術の共存風景も興味のあるところであった。それは明治30年(1897年)に参宮鉄道がこの宮川に主要部分を頑丈なプラットトラス形式の桁を赤レンガで覆われた堅固そうな橋脚や橋台の上に架けて、全長 458mの宮川橋梁を開通させた。その後の列車重量の増加に対応するために、プラットトラスは斜材をX字型に組んだ構造の「ダブルワーレントラス」へと補強変更されていたからである。そのい格子模様を見せている橋桁は長い年月の使用に耐えて来た姿は往時の建設の技術の確かさをうかがわせるようだった。
帰りの途中で紀勢本線の多気−徳和間にある全長 221m、プレートガーターで架けられたの櫛田川橋梁で亀山へ戻る客車列車を捕らえた。
さて、ここからは宮川橋梁の生い立ちについて述べてみたい。この鉄橋を架けたのは参宮線の前身である参宮鉄道である。
参宮鉄道では明治30年(1897)に、この川に主要部を頑丈な「プラットトラス式」として鉄橋を開通させた。当時の終点だった宮川駅に設置した参宮鉄道宮川鉄工所が製造した全長 458mの橋桁の構成は、上路平行弦プラットトラス 31.8mが 11連、それに上路プレートガーダー 7連(13.1mが1連、19.23mが1連、12.89mが4連、9.7mが1連)を赤レンガ造りの橋脚で支える構造であった。その後に、プラットトラス式の橋桁は昭和5年、鉄道省により「ダブルワーレン式」へと補強変更されて、現在のX字型のトラス構造になっている。その理由については、『この昭和5年の補強はD51型SLの入選を可能にするためとの説がありますが、昭和11年に製造されたD51という時間軸では少々疑問を感じます。そこで、C51は幹線用として甲線を中心に運用する目的で製造されたようですので、御召列車の運用も前提とした場合に参宮線はC51の入線が必要となり、宮川橋梁を補強する判断がされたのではないかと推測しています』とのご教示を 〈参宮列車復活計画ホームページ: http://www.sk2.aitai.ne.jp/~c5866/〉 を主宰されておられる巽さまから頂いています。
それにしても、明治時代に入るまで橋を架けなかった程の暴れ川である宮川に、このようなスパン(経間)の短い橋桁を使い、17基もの橋脚を設けたことは、架橋位置が河口に近いことを考慮に入れてもいささか腑に落ちない所である。この当時の関西鉄道などでも経間の長いアメリカ式の標準設計のトラス橋桁を採用している礼が多いことから考えると、参宮鉄道の技術者は自前で鉄橋を製造して架橋することを前提にしていたことが推察される。それにしても明治時代に築かれたトラス部の赤レンガ積みの橋脚の基礎工は井筒式工法が採用されており、今も現役で活躍していることを考えると、明治の土木工事の技術の確かさが見て取れるのである。これに反して、両毛線の思川橋梁のように建設した当時の地元資本の鉄道では短い経間のプレートガーター橋梁を架けたため、多数の橋脚が必要となり、それが暴れ川の水流の流かを妨げたために、橋脚の維持が困難になり、近年経間の長いトラス橋梁に掛け替えを余儀なくされた礼を思い出したからである。歴史に「もしは禁句だが、津−山田間を関西鉄道が延伸工事をしていたならば、宮川にどのような橋梁を架けていたであろうか。逆に云えば、参宮鉄道が架橋したからこそ、現在のような美しい橋脚と、ユニークな橋桁にお目にかかれると云う物だ。

撮影:昭和47年5月
ロートアップ:2010−06.

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