自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

| HOME | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |  
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)



189.  暴れ川に架かる思川(おもいがわ)橋梁  ・両毛線/小山−思川


〈0001:〉
思川橋梁の荒れた河原 両毛線

〈0002:〉
夕日に光る思川橋梁 両毛


…………………………………………………………………………………………………〈紀行文〉
 SL撮影のビギナーとして八高線の次に手を伸ばしたのが両毛線であった。この沿線の五万文の一の地形図を並べて眺めていると、その東の起点である小山(おやま)の市街地を貫いて南流する川に思川(おもいがわ)と云う利根川水系の川があり、その近くで合流してくる姿川わ(すがたがわと呼ばれる支流もあるのが見てとれたのだった。一般に、駅名や川の名には自然を対象とした名前が圧倒的に多いのだが、このように人間くさい地名が揃っていたのに興味を覚えて、SL撮影ポイントとしても紹介されていた小山−思川間にある第一思川橋梁を訪ねた。
この“思川”とは広辞苑によれば、「思いが深く絶えないことを川にたとえて云う語」とあったのに対して、ここの地誌によれば、豊かな実りを祈る農民たちが祭った水の女神『田心姫』の『田心』の二字が縮まったものと言われている。一方の伝承には、この思川では毎年7月の初旬に「流しびな」という行事が行われており、「下野(しもつけ)しぼり」と呼ばれる和紙で作った人形を「わら船」に乗せて川に流すものである。昔から、この川の流域では、人形に願いを込めて川に流すと思いがかなうという風習が続いており、この素朴な信仰が思川の名前の由来とする向きもあるのも奥ゆかしいと思った。それに、姿川の名はおそらく「自分の姿が映るほど,きれいな水でおだやかな流れの川」ということから来ているのであろうか。
 ここで、しばらく両毛線の車窓を眺めよう。
小山駅の両毛線ホームを出て北へ向かい、先ず国道50号線(結城(ゆうき)街道)の陸橋をくぐる。その後すぐに西へ急かーぶして東北本線(宇都宮線)がら分かれて離れて行く。反対の左手側には「シェル昭和石油の油槽所」があり専用線が伸びていたし、周辺の倉庫、工場への引込み線が敷かれていた。やがて、国道4号の陸橋をくぐった直後の右手には賑やかな「小山ゆうえんち」を横目に見見えたのだった。ここは2008年に廃止されてしまい、今はショッピングモールおやまゆうえんハーヴェストウォークと小山温泉 思川となっている。そこを過ぎて高台に広がる市街地を抜け、「思川の鉄橋を渡り始めると、展望が一気に開けて田園風景の中をカーブヲ切手走るとやがて思川駅に到着する。この明治44年と云う昔に開業したと云う小さな木造駅舎を出て、集落を抜けると、のどかな田園風景が戻ってきた。間もなく思川の高い堤防へ登ってみると、その西側の低地帯は広々とした稲田となっている沖積平野であって、その日は農家が一斉に水田で行う「焚き火の日」に当たっていたようで、あちこちから淡い煙が立ち昇っていた。そこで橋を渡ってみると、対岸は鉱石地層の台地となっていて、川に向かってせり上がるような地形となっており雑木林に覆われていた。そこを少々よじ登って俯瞰撮影を試みようと、しばらく粘ってみた。それからは、荒れた河原に降りて、あちこちをウロウロ歩き周りながら撮り続けているうちに、いつの間にか冬の陽が落ち掛かって西の空に浮かんだ雲が急に明るくなると、冬の水量の少く油を流したように穏やかに流れる川面がギラギラと輝き始めた。その時に、C58の引く貨物列車が橋梁の制限速度45km/hを守っているのだろうかゆっくりと走り去って行った。
この橋梁の背景には前日光山地の山々が遠くに見えて素晴らしい眺めなのだが、一転して眼前に広がる河原には治水工事の傷痕が痛々しい砂利の河床が露出していたのだった。特に橋脚の周りでは、この川が出水時に大変な暴れ川に変貌することを物語るかのように鉄橋を痛め続けている姿がまざまざと見えたようだった。ここで、ご覧に入れた写真に見られるように、痛々しいいレンガ積みの橋脚は川底をえぐられないように対策やら、流失防止の防備対策で厳重に守られてやっと役目を果たしているように見えた。
この思川は延長78kmの一級河川で、鹿沼市の北西部にある地蔵岳(標高 1,483m)を主峰とする前日光山地(足尾山地)に源を発し、山間を南東に流れながら多くの支流を合わせて水量を増しながら、広い平野を南にゆったりと流れ下り、鹿沼市と栃木市の境界を流れて小山市の市街地を抜け南西に向いて渡良瀬遊水地に注いでいるのであった。かつては利根川に直接注ぐ川であったように、思川の流れは蛇行しており、一定してはいなかったようだ。小山市の先で北西に蛇行し、洪水を起こしやすい流れを現在の直線的な流れに改良したのが大正12年のことであった。
 一方両毛線の第1思川橋梁は日本鉄道の高崎線の前橋と東北線の小山とを結ぶ鉄道として地元の資本を集めて創立した両毛鉄道が「当線は日本鉄道の支線的な路線だから、日本鉄道と同様に官設鉄道局の手で建設してほしい。」との要請に応じて、鉄道局が明治21年(1888年)に完成させている。この鉄橋は全長 161mで、錬鉄製プレートガーダー桁 7連で、煉瓦(レンガ)/石積みの6本の橋脚が築かれた。この地点の地質は軟弱地盤のため、杭打ち基礎の上にレンガを積む工法が採られたほどの難工事であったと云う。その開通の35年後に下流の蛇行部分が直線的な流炉にに改修されたのと関わりがあるのかも知れないが、大雨洪水時には両毛線がしばしば運休となる事態が発生するようになってきた。それは鉄橋の架かる地点での川幅が前後に比べて狭くなってしまっていることに併せて、この地点での計画流量は3700m3/sであったのだが、昨今では 1970m3/sの流下能力しかなくなってしまうと云うボトルネック(隘路)となってしまっていたことも起こっていた。それが橋脚付近の川床の流失や、橋脚自信の保全を困難にしていたようで、上流の川床の上昇が起こって、鉄橋付近に約2mの落差を生じさせた状態で、鮎や鮭の稚魚の遡上を妨げたり、河川の安定を損なっていたようである。それに鉄橋自身の老朽化も進んでいたようであった。
私が訪れた時より可なり後のことだが、思川の大規模な河川改修計画に併せて、鉄道橋の架け替えが行われた。その川幅の広がった新しい橋梁は現橋梁の南側に、橋脚を大幅に減じた3連ぷープラットトラス橋として架設された。そして、両毛鉄道が建造した煉瓦積み橋脚と橋脚を保護していたテトラポット(コンクリート)も全て撤去したので、漁業関係者の悩みであった上流下流の落差もなくなり、流れが平坦になったので鮎・鮭が溯上りやすくなったことであろう。
また、この思川は昔から江戸川と通じて利根川→思川の舟運の盛んな川であったから、小山の河岸は日光東照宮造営の際には江戸からの物資調達の船で賑わったと云う。それにも増して、関東有数の自然に遡上知れくる「鮎の川」としても有名であった。
 さて両毛線に話題を転ずると、明治21年(1888) 5月に、小山〜足利間が両毛鉄道として開通したのが始まりであり、明治22年(1889年)には足利−桐生−伊勢崎-前橋 間が延伸して全通している。
この両鉄道の「毛」とは、古代にこの地方に栄えた「毛の国」に由来しているようだ。日本の律令制以前の7世紀頃に関東に栄えていた文化圏の一つに「毛の国」があった。その名の起源の一つには、当地の先住民の人々は大和王権の人々に比べて毛深かったので、毛人と呼ばれ、 その地は毛国と呼ばれたが、当時の国名は二字表記だったので、「毛野国」の字が当てられたと云う。その後の律令制の下では、都に近い方から上毛野(かみつけぬ)国と下毛野(しもつけぬ)国が置かれ、合わせて、あるいはどちらかを毛州(もうしゅう)と呼んだ。そして合わせて両毛(りょうもう)とも呼ぶようになったとする。
現代ではこの語は上野と下野の境界付近の狭い地域を指すことが多いようで、栃木県南西部から群馬県南東部に跨がる 一帯を指しているようだ。
昔から両毛地区は早く開けており、交通は利根川水系の舟運などに頼っていたのだった。特に足利は東京・横浜への生糸・織物など、輸出品の集散地となっており、そこで創立されたのが両毛鉄道で、明らかに両毛地区で盛んに生産されていた生糸や、それに桐生織に代表される絹織物の輸送を目的として開通させたと云える。この延長 84.4kmの閑静な田園地帯を行く両毛線の貨物列車ではあるが、東北本線と上越線のバイパスルートとしての役目を担っているのである。当時はC58が引く朝晩の旅客列車が数本あったし、貨物も区間列車を含めて多く設定されていたのだったが、1968年(昭和43年)9月に電化が完成して、無煙化がおこなわれ、随分早くにSLのS姿が消えてしまった。

撮影:1968年(昭和43)2月
ロードアップ:2010−05.