自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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187.  「明治の古豪・B6」 2412号  ・石原産業四日市工場/専用線


〈0001:〉
石原産業 2412 関西本線・

〈0002:〉
石原産業 2412号定数一杯 四日市

〈0003:〉
石原産業 2412号製造者銘板 「ドイツ ハノーバー社」

〈0004:3354:工場の岸壁付近での入れ換え作業〉

『遠くに見えるのは伊勢湾の海です。』

〈0005:bR411:夕陽を浴びて〉


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〈紀行文〉
 SLを撮り始めてから1年半ばかり過ぎた頃、鉄道ピクトリアル誌に連載されていた専用線訪問記に触発されて、私も試みたいと願うようになった。そこで仕事上お付き合いのある会社に専用線作業の見学をお願いしたところ、さしずめ石原産業四日市工場と、日本鋼管鶴見製鉄所を昭和43年春になって訪ねることができた。ここではDLの収益で引退が4ヶ月後に迫っていた石原産業四日市工場専用鉄道の2412号、最後の63年目の活躍をお目にかけたい。
 石原産業のある四日市工業地帯は中京最大のコンビナートとなっており、専用線が工場群の間を縦横無尽に走っているのだった。その数ある四日市地区の専用線の中で、最も遠くにあるのが石原産業専用線であって、四日市駅から分岐する関西本線貨物支線を3.3km行った終点の塩浜駅を起点にして、石原産業構内の四日市倉庫までの3.7kmの本線は幸いにも道路沿いにあったが、工場構内の複雑な配線も相当長いようであった。
先ず名古屋から近鉄で塩浜駅へ、隣接している国鉄の塩浜駅とは線路は繋がっておらず、ここの貨物支線と石原産業の専用線の開通は太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)のことであった。
先ずは石原産業がトップメーカーである白顔料の酸化チタンの製造工場を見学した。この顔料は自動車塗装においては塗料用の重要な白色系顔料として欠かせない原材料であり、特にホワイト系の着色顔料で、長年の太陽光線にさらされても変色や汚染しない特性が求められていた。ちょうど、その製造法の改革の試行が始まろうとしていたころで、おーすとらりやから輸入され、岸壁で荷揚げされた原料鉱石のイルメナイト(チタン鉄鉱)を硫酸で処理する硫酸法から環境負荷の小さい塩素ガスで処理する塩素法への転換であって、世界のトップに追いつこうとする時期を迎えようとしていた時であった。
〈注記:参加チタンの製造法〉
『工業的生産では原料にルチル鉱石またはイルメナイト鉱石(FeTiO3)が用いられている。主な製造法には塩素法(気相法)と硫酸法(液相法)の二種類があり、欧米では塩素法、日本では硫酸法が主流である。塩素法は原料(ルチル鉱石)をコークス・塩素と反応させ、一度ガス状の四塩化チタンにする。ガス状の四塩化チタンを冷却して液状にした後、高温で酸素と反応させ、塩素ガスを分離することによって酸化チタンを得る。硫酸法は原料(イルメナイト鉱石)を濃硫酸に溶解させ、不純物である鉄分を硫酸鉄(FeSO4)として分離し、一度オキシ硫酸チタン(TiOSO4)にする。これを加水分解するとオキシ水酸化チタン(TiO(OH)2)となり沈殿する。この沈殿物を洗浄・乾燥し、焼成することによって酸化チタンを得る。』
 そこで、案内の鉄道単糖からは、いずれ黄色に塗装された液体塩素専用タンク車の発着が忙しくなるのも間もないとの説明であったことを覚えている。
次いで、専用線の導入位置に近い場所に設けられた鉄道部へ伺って、国鉄時代からの重厚な革張りの車籍簿をめくって見せてもらった。当月の仕業当番は2412号だと云うことを知って幸運に感謝した。ここの機関車は接続駅の塩浜駅から工場へ向かう方向が正位で入選しており、工場内には転車台は設けられてはいなかった。
この2412号に近づいて観察していると、楕円形の製造者銘板をみつけたが、それを撮った写真を見ると長年の手入れのためか摩滅がひどく判読が難しいのは残念であった。その銘板の下には、昭和41年に国鉄長野工場で検収をうけた表示があり、制限速度は25k/hとあった。また、同僚機のS108号は屋根の着いた側線で当月はお休中だった。
ここで取り扱う貨物は、主力製品である酸化チタン、農薬、肥料などは倉庫から有蓋車により、硫酸、副生品の石膏や、土壌改良材などは専用貨車による出荷、一方の原材料である鉱石の一部は無蓋車で、化学薬品や燃料はタンク車で到着すると云う多彩さであった。また、構内の配線も岸壁から、各工場の間を複雑に走っていた。そして、最も危険性の少ない四日市倉庫付近に案内され、近くで忙しく入れ替え作業にいそしむ姿を撮った後、塩浜駅の着発線から南へ続いている専用線の沿線にある中部電力の火力発電所の辺りで午後の3便を撮った。ともあれ、明治の古豪・B6 2412号を後世に引きつぐことに心がけて日常作業に当たっておられると云う努力が実を結ぶ日も余すところ3ヶ月余りと近ずいており、その無事な達成を祈りながら辞去した。
 さて、ここで2412号のルーツについてのべておこう。最初は、1889年の東海道線全通後に鉄道作業局が大型の貨物用機関車として軸配置C1のタンク式機関車を計画し、これを後にB6型と制定)した。その基本設計と製造はイギリスのダブス社により、1890年(明治23年)官設鉄道(当時は内務省鉄道庁)向けに6両が製造され、到着して稼働し始めると、その成績はおおむね好評であった。次いで、より強力な蒸気機関車が求められる中、B6のタイヤを厚くし、動輪径を4フィート(約1219mm)から4フィート1インチ(約1245mm)と改良したものが多く製造された。これらもB6と呼ばれていたが、後の国鉄正式では2120型とされている。
その後の1904年2月に開戦した日露戦争における満州での兵站輸送を担当する陸軍野戦鉄道提理部が鉄道技術者を動員して同年に設立された。そこで使用する機関車については、鉄道作業局ではB6形タンク機関車を選択して、多数を供出した。一方、提理部では既にイギリスのノース ブリテッシュろこもーちぶ社に発注していたB6が製造されて30両が到着し、組立ても終わっていたが、残りの納期を短縮するために、ドイツのシュバルツコッフ社、ハノマーク社、ヘンシェル社およびアメリカのボールドウィン社に、B6形をそれぞれ12両、6両、12両、16両を発注した。そして、1905年2月からドイツ製のB6形が到着し始めた。これらは輸送の途中で戦略物資として押収されるのを防ぐため、送り先が香港とされていたと伝えられている。これらの大半は満州へ向かったが、1部は官設鉄道からの供出機関車との代替えとして内地で使用されたのであった。この2412号はドイツのハノーバー製6輛の中の内地に残った3輛の中の1輛であった。そして、明治38年4月から鉄道作業局の所属となり、このB6と一括されていた形式は鉄道員になってから制式変更により、ドイツ製は2400型と決められたことから、2412号が誕生したのである。そして、大正時代には中央線、昭和になってからは武豊線、高山線を走り、昭和23年1月に高山機関区で廃車となってから、石原産業四日市工場に貸与され、工場内の専用線で貨物、職員の通勤輸送のために活躍していた。昭和43年7月には、動力車近代化のため、用途廃止となり、国鉄に変換後には、名古屋市立科学博物館へ貸与され、屋外静態保存展示されている。この2412号は余り大きな改造もされず、製造当時の原型に近い貴重な機関車であると云う。それに、このB6型は1890年から1906年にかけて官営鉄道のみならず日本鉄道などの私鉄も含めて533両の多数が製造されている。この2412号(1904年製:明治37年)は大所帯を誇ったB6系の中でも、わずか6輌しか存在しないハノマーク(Hanomag)社製のB6であり、その内の1輌が最後まで残っていたことは正に奇跡である。
 その諸元は2120型に準じているので参考に掲げる。
全長: 10439mm 
全高: 3810mm 
軌間:1067mm 
車軸配置: 0-6-2(C1) 
動輪直径: 1245mm 
弁装置: スチーブンソン式(前後進の切り替えが容易なのが特徴)
シリンダー(直径×行程): 406mm×610mm 
ボイラー圧力: 11.2kg/cm2(1924年版では11.3kg/cm2) 
火格子面積: 1.31m2 
全伝熱面積: 92.9m2 
煙管蒸発伝熱面積: 84.2m2 
火室蒸発伝熱面積: 8.7m2 
ボイラー水容量: 3.0m3 
小煙管(直径×長サ×数): 45mm×3140mm×192本 
機関車運転整備重量: 49.17t(1924年版では49.87t) 
機関車空車重量: 37.24t(1924年版では36.83t) 
機関車動輪上重量(運転整備時): 37.85t(1924年版では38.24t) 
機関車動輪軸重(最大・第2動輪上): 13.51t(1924年版では13.77t) 
水タンク容量: 7.8m3 
燃料積載量: 1.9t 

最後に、僚機として働いていたS108号機はDLの予備機として昭和43年10月まで在籍していたが、現在は本山交通公園(兵庫県神戸市)に静態保存されている。
この機関車は石原産業が5輛の発注に対して、日本車輌が産業用蒸気機関車C10001形の車軸配置 2Cの過熱・テンダー式蒸気機関車を国鉄8620形蒸気機関車の流れを汲んだ戦時設計で6輛を1942年に製造したグループノ1輛である。当時の石原産業は中国の海南島で営んでいたリン鉱石の鉱山用として注文したのだったが、完成した時には既に現地への輸送が不可能となっており、1輛は日本車輌の入れ替え機として、5輛は1944年(昭和19)に開通したばかりの石原産業四日市工場の専用線に所属することになったとされている。ともあれ、この6輛の内の1輛が八幡製鉄所へ転じてはたらいていたが、戦後の昭和21年に石原産業四日市工場専用線にS108号として移籍してきたというのであった。また、ソノルーツの故に多くの外観的特徴として、キャブ側面の換気ルーバー、砂場事蒸気溜の分離、デフレクターの未装着、テンダーの薪材積みのためのガードなどが数えられる。現在写真を準備中です。

撮影:
昭和41年(1966年)2月15日/工場構内。
昭和43年(1968年)3月/塩浜駅−工場間。
ロードアップ:2010−05.

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