自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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184.  雄勝峠への高架橋 「第1勝川橋梁」 ・奥羽本線/院内−及位



〈0004: 雄勝峠を目指す C6119 ”:横堀川橋梁にて〉


〈0005:ン雄勝峠の院内側の俯瞰景観〉


〈写真の転載の典拠〉
クマさんの鉄道と環境の民俗学 http://homepage3.nifty.com/kumanotaira-mura/
「DD51が輝いていた奥羽南線」
http://homepage3.nifty.com/kumanotaira-mura/tetsudou-dd51-oou.htm 
『秋田県側の複線区間を登る普通列車:1973年4月撮影:及位−院内』
 上の写真には複線の左側に、単線時代の落石(雪崩)防止の覆いの遺構が見える大俯瞰です。ここへ登る道はありません。
転載に際し厚く御礼申し上げます。
連絡が取れず許可を頂いてはおりません。お許し下さい。

〈0001:第1雄勝川橋梁〉
国道13号線を渡る第1雄勝川橋梁 奥羽本線・

〈0002:第1雄勝川橋梁〉
国道と雄勝川を跨ぐ高架橋 奥羽本線・

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〈紀行文〉
 ここでは奥羽本線が秋田/山形県境を越える雄勝峠の明田側を登る情景をお目に掛けたい。これは秋田県北部の五能線沿線の撮影旅行の帰りに、秋田から国道13号線を新庄に向かって南下する途中で、院内付近で立ち寄ってスナッした作品です。
 先ず最初の作品は、この午後の柔らかい陽射しを浴びて橋梁を渡るC6119号機が牽く旅客列車は、これから雄勝峠の難所に向けての前奏曲を奏でる所であろうか。それは背後の遠くに見える山肌が白く削られていて、正に国道改良工事が行われているような風情が見て取れるところから、横堀→院内間の全長 151mの横堀川橋梁を渡って居る姿ではないかと思っているのだが。ここは未だ横手盆地の南端に近い雄勝町の中心駅である横堀駅の辺りの田園風景であろう。ところで、ここで出会ったC6119号機は間もなく遠く九州の日豊本線の宮崎区へ転出して活躍することになる。今は鹿児島県の国分駅よ東方2qほどの城山公園に静態保存されているようである。
 さて次の写真は、「熊さんと鉄道民俗学」から転載させて頂いた貴重な雄勝峠の院内側の大俯瞰です。国道と奥羽本線が谷間を登って来る様子が一目両全です。対岸に見える旧線の岩崖隧道が国道改良工事の影響で使用不能となって雄勝川と国道を跨いで対岸にバイパスを設けた後の風景です。
 さて、ここからは雄勝峠を取り巻く地形、ここを通った江戸時代の奥羽街道の院内宿(院内銀山、鳥海信仰の登拝口の修験集落(宿坊)などの繁栄の歴史、それに明治の末に開通した奥羽南線の建設の経緯についての情報をまとめてみました。
 先ず地形ですが、東北地方の北部の日本海側には青森県西部から秋田県中央部・山形県中央部を貫くように、主稜の奥羽山脈の西側の日本海に沿って出羽丘陵が並行していて、その間には北から南北60qもある横手盆地、それに庄内盆地が広がっている。これらの盆地を分ける秋田/山形県境を東西に連なる標高 1000m前後の山地は鳥海山(標高 2230m)の東麓から丁岳山地(ひのとだけさんち)が連なり、その東の鞍部には雄勝峠(標高 427m)があり、東へは「みちのくのアルプス」の異名をとる神室山地が30qも続いており、ここには奈良時代か開かれている有屋峠(ありやとうげ、標高 934m)が通じていて、さらに奥羽山脈の西麓へと続いている。
この北側に広がる横手盆地には東南の山地を源ににし北に流下る雄物川に潤された水田地帯は“秋田小町”と云う銘柄米の産地が広がっている。この盆地の南恥は今では湯沢氏の一角となっているが、かっての雄勝町が存在しており、絶世の美女として知られ、情熱的な恋歌を多く残した平安時代の女流歌人 『小野 小町(おの の こまち)』の誕生と最後の地とする伝承や遺跡を残しており、今や“こまち”は秋田を代表するブランドなのである。この町の南方には院内カルデラと呼ばれる小盆地があって、そこを流れ下るのは雄物川源流の一つである雄勝川に沿って羽州街道(国道13号線)と奥羽本線がさかのぼって雄勝峠を越えて山形県側の真室川町へ通じていた。この院内カルデラは今から約3000〜1500万年前と、800〜600万年前の火山活動によって、陥没して出来たと云われていて、後で述べる東洋一の銀山と呼ばれた院内銀山の鉱脈の成員とされており、今や湯沢ジオパークの中心地として地質学的にも注目を浴びている地点であった。
ここを通った秋田と山形を結んだ最古のメインルートは神室山脈の水晶森(標高 1,097m)の鞍部を有屋峠(ありやとうげ、標高 934m)で越える大変な難路であったが、中世から戊辰戦争まで何度も戦場になったほどの戦略的に重要地点であった。時代が下り江戸時代の慶長年間(1596〜1614年)になると、久保田藩(秋田藩)藩主、佐竹義宜(さたけよしのぶ)は有屋峠に代わる新しい馬や籠が通れるようにした道の開削に取り掛かった。そしてひらかれたのが杉峠(今の雄勝峠)で、しい羽州街道はこちらを通ることになって、参勤交代の路寿司となった。この峠の周辺には杉並木が続いていたと云う。ここの標高は 427mと随分と低くはなったが、それでもかなりのけわしさであったが、大いに賑わい、峠の両側に新庄藩と久保田藩の関所と、及位(のぞき)宿・院内宿が設けられた。
このこの院内宿は羽後国の南の出入口であり、鳥海山信仰の修験宿坊集落であり、また院内銀山の防衛拠点であり、秋田と仙台を結ぶ羽後街道(今の国道道108号線(鬼首峠越え)と羽州街道(国道13号線)との分岐点でもあると云う重要ちてんであった。
それに銀山のことだが、1606年(慶長11年)に銀が発見され、江戸時代を通じて久保田藩(秋田藩)により管理され、
人口1.5万人を数え、日本最大の銀と金を産出し続けた。明治5も古川砿業の手で運営され、その財力の木曽を作ったと云う。今はジオパークの一環として保存が進められている。
 さて、こで山形県の新庄から秋田県の横手盆地の南部を占める湯沢に至る奥羽南線のこの東北地方を東京から福島、仙台、盛岡を経て青森へと縦貫する日本鉄道(株)の東北線が全通した翌年の明治25年には、「国が建設すべき鉄道路線を規定する鉄道敷設法」が公布された。そして、これには、先の東北線の福島を起点に奥羽山脈を越えて米沢、山形、新庄を経て湯沢、秋田、大館を経て北上し、弘前から青森に至る奥羽線が予定線として規定されていた。そして間もなく予定線から第一期建設線に格上げされて早くも明治26年には南北の両端から同時に関節鉄道によって着工されると云うスピードブリデアッタ。
この福島−湯沢間である奥羽南線は明治26年10月に測量を開始し、明治27年2月に着工した。その後は
部分開業を重ねながら、明治36年6月になって新庄に到達した。
新庄からは国道40号線(国道13号線の前身)の通っていた主寝坂峠(標高 
249m)を避けて西に大きく迂回する形で、低い西山丘陵を越えて、
新町(現在の真室川:まむろがわ)から釜淵、大滝、及位(のぞき)と23.6qの間を真室川の谷に沿った河岸段丘の上をさか登り続けた。そして及位(のぞき)駅を経て最急勾配 19.7‰でサミットの院内トンネル(延長 1,237m)を通り抜けて、雄勝川の谷を20‰の勾配で6.1qほど下って院内に達した。そして、明治37年10月21日新庄−院内間が開通した。その先の院内から横手盆地の南部の中心である湯沢までは最急勾配13.3‰で下り、
雄物川支流の横堀川に架橋して明治38年9月に湯沢に至って、奥羽北線との連絡が完成し、奥羽線福島−青森間は全通した。
その後の蒸機の終末期である昭和45年頃までは、C61による普通旅客列車、D51単機で引けるだけの編成の貨物列車、それに上野発青森行きの特急「あけぼの」、急行「津軽」、そして秋田行きの特急「つばさ」(キハ181系)、急行「おが」(キハ58系)などが走っていた。
その頃に、電化複線を目指した院内-及位間の路線改良工事は、
手はじめに、単線の1904年(明治37年)の開通当時に完成した低規格のトンネルの改良工事から取り掛かった。
その中で大問題が発生したのは、旧・岩崖トンネル(全長 103.63m)では1956〜57年の改修工事ニよって、オリジナルの馬蹄形断面・レンガ作りから、交流電化をも視野に入れた「特一号型」の断面への変更を完成させていた。ところが、経年による老朽化もあったかも知れないが、近接す
ううる国道13号線の改修工事においての発破(ハッパ、ダイナマイトによる土木こうじ)作業の影響によってトンネルの変状が進み、H鋼を蛇腹のように内壁に巻き付けると云う応急補強を実施し、その上に 30km/hの徐行運転をせざるを得なくなってしまった。
この事態への対応策として、昭和43年10月使用開始を目標にして、複線工事を鋭意進めることになった。それには
岩崩トンネルを含めた1,600mの現在線を別線の複線として、雄勝川の対岸に敷設することとした。この結果、緩いカーブを描いて国道13号線と雄勝川を二度横断するための谷を跨ぐ橋梁の建設が必要となった。それは第一雄勝川橋梁(全長 142.4m)と、第二雄勝川橋梁(全長 316.6m)の複線鉄道橋であり、その下部構造はフーチング基礎のRC 橋脚、それに上部構造は単純支承の上路プレートガーダーが採用されて、工期の短縮を狙って進められた。
この区間では、鉄道と国道とはずっと併走しているが、院内からこの新線への切り替えの辺りでは高度差が約10mほどもあったから、国道を通過するドライバーの眼には天空を見上げるほどの高架橋が斜めに谷を横断している姿が出現したことから、強い印象を与えたようであった。
この新線への切り替えは1966年11月に完了し、続いて単線の院内トンネルを新たに開通させて、院内からの最大の上り勾配を 20パーミル、標準勾配は17.6パーミルに抑えることに成功した。さらに在来の院内トンネルの改修を進め、1968年(昭和43)9月には及位−院内間の複線化が完成している。また、その後の電化は1975年のことになる。やがて、山形新幹線と秋田新幹線の相次ぐ開通で、この新庄秋田を通過する優等列車は次々と消えてしまい、僅か一日に10往復程度の列車頻度では複線区間も暇をもてあましているこだろう。さて蛇足だが、院内トンネルを南に抜けると出会うのが“及位(のそき)駅”である。ここは難読駅の東の横綱を張る駅名で知られており、駅の説明板には次のような地名の由来が書かれていた。
『当地の北西にそびえる甑山(こしきやま)には南に男甑山(標高 981.4m)と北には女甑山(標高 979m)と呼ばれる二の険しい岩峰がある。山岳修行が盛んだった時代、山麓に住み着いた修行者たちは「位」の高い山伏を目指し、それぞれの山の、より険しい断崖の端から宙づりになり崖の横穴(赤穴)をのぞき込む「のぞき」という修行に耐えていた。やがて修行者のひとりは京の都へ上り、時の天子から高い位を授かった。それは「のぞき」の行(ぎょう)によって高い位に及んだということから、この位が「及位(のぞき)」と呼ばれるようになったといわれている。』
この地名の由来を受けて、奥羽南線の新庄〜院内間が開通の時、及位駅が開業したと云うのであった。

撮影:昭和45年(1970年)