自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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181.  明治生まれの煉瓦拱渠(れんがきょうきょ  
(レンガアーチ橋2題 ・田川線/内田(信)〜崎山

〈0002:33-10:内田信号場→油須原間、朝の通勤列車〉
田川線 内田信号場→油須原間の築堤にあるレンガアーチ橋 9600の牽

〈0001:33-11:空のセラを連ねた田川行き貨物列車 崎山→油須原〉
田川線崎山→油須原間にあるレンガアーチ橋 田川行きの空セラを連ねた貨物レを牽

〈0004:bQ20131:三連煉瓦アーチ溝渠:田川線〉


〈撮影メモ〉
内田三連アーチ溝渠。
この付近には数多くの煉瓦積のアーチ橋が現役で使われている中で、三連続アーチは珍しい。ドイツから輸入した煉瓦が使われているそうだ。
訪ねたのは昭和四四年一二月末のことで、その頃は未だ自然のままの姿であった。今は貴重な産業遺産として保護されているとか。


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〈紀行文〉
 SL撮影も九州か北海道かと云うような時代にさしかかった1972年頃になって、やっと念願のドイツ製の「ローライフレックス SL66」と云うブローニー版の一眼レフを手に入れることができた。そして、その“ツアイス レンズ”のカラー撮影に対する威力を試すべく喜び勇んで南九州へ出かけた。行く先は日豊本線の霧島超えであったから、小倉港でフエリーを降りると直ぐに日田英彦山線に沿うように国道322号を南下して、香春町(かわらまち)から県道418号(英彦山香春線)に入って田川線に沿って油須原へ向かった。それは「行きがけの駄賃」として、田川線に残っていた早朝の9600牽引の通勤用旅客列車や、それに黒ダイヤならぬ白い石灰石を積んだセラを連ねた専用列車を狙ってみようと思ったからであった。この田川線の線形は瀬戸内海の周防灘(すほうなだ)に面した日豊本線の行橋駅を起点に、九州での山伏の修験道場として知られる英彦山(ひこさん、標高 1,199.6m)を源に流れ下る今川の谷を登って油須原で谷に別れてサミットを超えて、多くの筑豊炭田の炭坑が立地している中心地の田川へ下っている全長26.3kmの山越えるーとであって、いずれの方向も10パーミルの長い勾配線が続いていたから9600がプッシュプル(後補記付き)で奮闘する撮影名所として知られていた。既に、ここへは2回ほど訪ねたことがあったので付近の地形は熟知していた。そこで今回は特に、この線が今から116年前の1895年(明治28年)に開通した時から使われているレンガ(煉瓦)で構築されたアーチ橋梁が沿線の築堤のあちこちに現存しているのを探して、その赤いレンガのアーチのトンネルが口を開けている築堤の直ぐ上を登って行くSLの姿を捕らえようともくろんでいたのだった。
最初の一枚は前に訪れたことのある内田信号場から油須原駅へ向かう水田の中に築かれた長い築堤の下にあった二連アーチのレンガ橋梁を見付けて、朝の客車列車を狙った。早朝の順光の下では遠目にも赤いレンガ積みアーチがはっきりと眺められたのだったが、残念ながら全体が高品位の石灰岩でできている当地のシンボルである「香春岳(かわらだけ)」(三ノ岳の標高は511m)をバックにすることはできなかった。近づいて見れば、レンガで積まれたアーチは「下駄っ歯(げたっか)」と呼ばれたスリット状の凹凸を持った田川線特有の積み方であることが見て取れた。
二枚目は油須原から狭い県道34号(行橋添田線)を崎山の方へ下って行くと、道は谷の中腹に散在する集落の中へ入りこんでしまった。右手の民家の屋根超しに眺めると、谷を流れ下る今川に沿うように狭い田畑があり、その先に長く続く登り勾配の築堤が築かれており、その背後にはうっそうとした緑の濃い森林の山が迫っていた。そして築堤の下には二つのレンガアーチ橋が僅かの距離をへだてて、ひっそりと口を開けていた。その油須原駅寄りのレンガアーチ橋は山へ向かう田舎道が通じており、一方のアーチは今川に流れ落ちる山からの小さな支流のためのものであった。
私は築堤の線路の反対側の集落の中の道路にクルマを止めて、田川行きの空車のセラを連ねた貨物劣者を9600が白い煙を吐きながら登ってきたのを荒れ模様となった乏しい光線の下で撮ってから、日目算に日向路へ向かって南下を始めた。
 この当時の世間では、は未だ産業遺産の保護やその啓蒙に注目が集まるような時代ではなかったので、私も田川線の築堤の下で現役で使われている「れんがあーち橋梁」が貴重な文化財としての価値があろうとは知る由もなかった。それで、撮りやすい「れんがあーち橋」を見付け次第に撮り続けていたのだった。所が、その後、ユネスコが指定する世界遺産のカテゴリーのなかに産業遺産の評価が高まったこともあって、鉄道施設における産業遺産にも世間の注目が集まると云う機運が高まってきた。特に明治中期に建設された田川線沿線には、橋梁の一種である「連瓦拱渠(れんがきょうきょ)」には、他では類例を見ないトンネルの両端の坑紋(トータル)の構造が、上流側が石積み、下流側が「下駄ッ歯」と呼ばれるレンガ積みであると云う全く異なる表情を見せている特徴の価値がが認められたのであった。ここに出てきた聞き慣れない土木の専門用語は、幅の広い築堤の下に設けられる暗渠(あんきょ)タイプのアーチ橋を拱渠(きょうきょ)」と呼んでいるのである。そして沿線に50箇所も現存するレンガ橋梁の中から「内田川橋梁」が「内田三連橋梁」の名称として、先ず土木学会がAランク近代土木遺産として指定し、続いて平成11年に文部科学省の「登録有形文化財」に、平成19年には経済産業省の近代化産業遺産として登録されたのであった。
 そんなことから、ここに掲げた第三番目の写真は、その昔、昭和四四年12月末に南九州へ出かける途中にスナップした一枚である。
ここでレンガ造りの構築物について語る前に、田川線の建設の歴史からひもどいて見たい。
九州では明治21年8月になって、やっと資本金750万円の半官半民の九州鉄道が創立され、各地点での建設計画の立案とドイツ国鉄からの技術導入を進めようとして、ドイツ国鉄の機械監督であったヘルマンルムショッテル(九州の鉄道建設の恩人として新幹線博多駅にレリーフが顕彰されている)を顧問技師として招いた。しかし折からの資金難のため鹿児島線と軍港である佐世保ふきんを通る長崎線が優先的に建設が進められ、1889年12月11日に博多〜久留米間が開通した。
そのような背景の中で、間もなく田川付近で豊富に産出する筑豊炭を周防灘に面した苅田港へ輸送する豊州鉄道が創立され、6年程遅れた明治28年に行橋から豊洲、油須原、香春(今の勾金)、伊田(今の田川)までかいつうさせたのが田川線の始まりである。この時には将来の輸送量増加を見越してトンネルや橋梁を複線化が可能な容量に設計して工事を進めた。この建設には九州鉄道の顧問技師であったヘルマン・ルムシュッテルの設計と工事の指導に大きく負っていたらしく、この路線に使われたレンガもレールや鉄橋と共に遠くドイツから調達した物であったと云う。その中でも煉瓦はトンネル、橋脚・橋台や煉瓦橋梁などの構築物などに多用されたが、その何れもが開通以来現役として活躍している。
 そこで田川線の築堤に数多く現存する「レンガ橋梁」の特徴であるトンネルの構造について「内田三連橋梁」を例として解説を試みた。ここに掲げる資料は九州在住の伴 達也さまのホームページである「ふる里の蒸気機関車」の中の待合室に所載する鉄道遺跡のサイトである 〈内田の三連橋:石炭に裏切られた明治の先見性:
http://www.geocities.jp/tttban2000/Room/sight/railway/mitsuankyo/mitsuan.html
のコラムから引用させていただいたが、ここで厚く感謝の意を表します。
・「内田川橋梁」、遺産名称:「内田三連橋梁」、通称:「みつあんきょ三暗渠)」
所在地は平成筑豊鉄道田川線内田駅より県道418号を南へ徒歩約15分
橋の形式:煉瓦拱渠(れんがきょうきょ)
橋長:13m
径間:3.35m(3連)
煉瓦アーチ橋の側面の仕上げが、一方は自然石なのに対し、もう一方は凹凸のある煉瓦積みであることが最大の特徴である。
これは、水流圧を受けやすい上流側とアーチ基部はきちんとした切石の布積みであり、下流側は煉瓦造りである。
特に下流側は煉瓦アーチ部と煉瓦壁面、それにアーチ基部の石積みの表面に凹凸を付けた積み方で仕上げている。詳細に述べると、アーチリング部を小口面を交互に突出させて市松模様に、壁面とアーチ基部面はイギリス積みで、小口面を突出させて縞模様を構成している。これは下駄の歯のように、一列置きに凸凹(デコボコ)になっており、一列目ば長辺ばっかりで並べたら、二列目は短辺ば表に向けて並べる積み方である。この下駄の歯のような一列置きに飛び出している「下駄っ歯」や市松模様は将来の複線化の時の築堤拡幅の際の噛み合わせのための工夫であるとの解釈がなされている。しかし、アーチの基部に使われた自然石の黒っぽさと、その上部の華やかな赤い煉瓦色との素晴らしい色彩のコントラストに加えて、市松模様や下駄ッ歯模様の凹凸のもたらす陰影の与えるデザイン効果にも何らかの意図が隠されているのではないかと考察されている識者もおられるようである。私も、レンガ構築物の豊かな伝統を育んできたドイツ文化の国から技術指導に来られた顧問技師の存在も関係しているのではと想像したりしている一人である。
  この明治中期にドイツの鉄道技術を踏襲して建設された田川線には内田三連橋梁と同様に産業遺産として登録されている九州で最も古い石坂トンネルがあり、その他にも今川に架けられた第2、第4今川橋梁では、ドイツ製の鋼製橋桁は架け替えられてしまったが、煉瓦積みの高い橋脚や橋台が現存しており、この他に油須原駅の駅舎も開業当時の姿を留めていると云うから、いずれの日か、産業遺跡巡礼を目的に再び訪れたいとねがっていたのであった。

撮影:1972年

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