自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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175.  D51重連セメント専用列車の高麗川発車  ・八高線/

-19時発射の9473レ。八王子から中央本線、篠ノ井線へのセメント専用列車--

〈0001:昭和43年撮影〉
D51重連セメント専用列車

〈0002:1-1-5-6:昭和41年撮影〉
夕暮れの高麗川駅発車のD51重連牽引の
〈0003:bP20131:高麗川の夕闇重連発車、四連写の三枚目〉




〈0004:bP20132:高麗川の夕闇重連発車、四連写三枚目〉



〈撮影メモ〉昭和43年1月11日、連写4枚の二枚目です。
夕闇の高麗川駅の東飯能方の県道踏切手前から撮っている。
 9473レ、八王子行セメント専用貨物列車の発車。
左手の中ごろに照と丸時計を載せた鉄塔が建っている。その奥左手に駅舎あり。その手前の左手にポイント操作室を載せた塔が建っている。
撮影者の足元から、右手の手前に側線が一本あって、その先の発着線にヘッドライトを点灯して、黒い煙を噴き上げて、領サイド下からドレーンを吐きだして重連貨物列車が発車刷る所です。
ヘッドライトの光がレール面に反射している。
左手の少し奥に建っているポイント操作室を載せた塔の下の空き地に私の乗って来たスバル360が駐車している。
当時は、秩父へ抜ける県道であった踏切は国道に昇格して跨線橋となってしまいました。
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〈紀行文〉
 SLの写真を撮り始めた昭和41年頃の私は武蔵野の西のはずれに造成された川越・狭山工業団地に立地していたホンダの乗用車工場に勤めていたので、その地の利の良さから八高線や川越線のSLたちを暇を見つけては撮りに出かけた。首都圏を環状に走る国道16号を入間市で分かれて入間川を放水橋で渡って日高市へ向かうと、埼玉県道15号の川越日高線が高麗川駅の南側を大きな踏切で西へ渡っていた。当時の左手は見渡す限りの桑畑が小高い丘のすそまで広がっている田園ふうけいだったが、右手の西側はら県道の飯能寄居線に面した小さなまちなみ、そして高麗川駅と広いヤード、その東には昭和30年から操業を始めた新鋭のセメント工場の4本煙突がそびえていた。駅の構内をよくよく見ると、手前の西側にヤード全体を見下ろせる程の高いポイント取り扱い所が姿を見せており、多数ある側線の中央には大きな丸時計と照明灯をてっぺんに載せた鉄塔がそびえていて、高麗川ヤードのシンボル的な存在であった。一方、出入りするSLたちは、八高線を通して走るC58型、川越線の9600型、それに八高線の高麗川−拝島−八王子間の区間を担ったD51型と多彩な顔ぶれであった。高麗川駅を貫通する八高と終点となる川越の両線に加えて、隣接する日本セメント埼玉工場専用線も連絡していたから、さしもの7本もある側線もホキやタキなどの貨車の群でで埋まるほどの忙しい時も多く、北東端にある機関車の留置エリアにはターンテーブルも設けられており、煙の絶えることはなかった。ここにたむろす機関車は御世辞にも“きれいだ”とは云い難い八王子区と高崎一区の所属機で、いずれも大宮工場で施された「クルクルパー」(回転式火の粉止め装置)と補助灯が特徴であったようだった。
 ところで、高麗川駅の貨物扱い量は全国ランキングで常に十位以内に入っていると云う繁忙さであり、その主体は専用線を出入りする奥多摩からの石灰石を初めとするセメント原材料や燃料の石炭などの到着と、出荷される製品のセメントの発送であった。とりわけ華々しいのは、1965年に東京の下町にある隅田川貨物駅にセメントターミナルが設けられたことから高麗川駅から開発されたばかりのホッパ車でピストン輸送が始まったことで、月当たり平均11,700トン(昭和41年度)の実績であったとある。それに加えて、1950年代からは長野県方面で始まった巨大発電ダムの建設のためのセメント輸送が中央東線を経由して始まった。それは1956〜63年の大糸線信濃大町駅から関西電力専用線の北大町駅建設資材基地へ向かう黒黒部川第4ダム(クロヨン)用であり、1964年頃の篠ノ井線の松本駅から松本電鉄 赤松駅(現・新島々駅)へ向かう梓川水系の安曇(あずみ)ダム用のセメント専用列車が仕立てられ、高麗川駅では早朝から深夜までピストン輸送が頻繁に行われた時代であった。最盛期には、一日に約30本もの貨物列車が発着し、およそ 350両もの貨車が取り扱われていたと云う。この中にはD51重連牽引のセメント専用列車が5本も設けられていたのだった。
 そして、 時間が来ると出発線に整列して待機するホッパ車の先頭に、前補機を従えたD51重連が後退して連結し、タブレット授受が行われると発車となった。八高線の主役はD51重連のセメント専用列車であると云えるだろう。高麗川を発車して間もなく25パーミルとSカーブの続く鹿山峠の登りを目指して全力でダッシュする2輛のD51の吹き上げる黒煙の表現する造形にはいつ見ても胸が躍るシーンであった。私は午後5時過ぎに発車するD51重連の臨貨の夕暮れの出発シーンが雰囲気的にも大好きであった。
やがて夕闇が立ちこめると、丸時計を載せた鉄塔に設けられた照明灯が輝き出すようになると、ヤードは昼間とは別の顔をみせるようになる。先ず蒸気が白く浮き上がって来るし、それに複雑に配線されたレールの踏面はいろんな光を反射して、どこか幻想的な感じを演出してくれるようになる。また暗がりに二筋のレールがヘッドライトを反射して、良い感じを出していることもある。高麗川の夜景は、光の競演もサウンドもなかなかなものだった。
 いつでも好きなように撮ることのできた蒸機のメッカ八高線にも1970(昭和45)年10月の無煙化がやってきてしまった。そして、さらに30年も過ぎた平成11年(1999)9月には日本セメントの専用線が廃止となり、時を同じくして八高線を走る貨物列車も廃止の日を迎えてしまった。あの県道の大踏切は跨線橋になり、その上から眺める高麗川駅のガランとしたヤードには一両の貨車や機関車もいらず、僅かに高麗川〜高崎間を往来しているDCがさびしく待機しているだけであった。セメント工場の煙突もいつのまにか2本になり風景は一変してしまい、セメントの主原料の石灰石は遠路秩父の武甲山から地下トンネルのベルトコンベアーで工場へ搬送されるようになり、膨大な生産量を誇ったセメント焼成回転キルンも一基となり、残った1基は日高市のごみの焼却を兼ねた原材料製造用に転用されて地元の環境対策に寄与していると云う。また
主役を演じていた専用線の敷地はしゃれた散歩道に姿を変えていた。
一方、川越線と八王子までが電化され直通電車が往来しているようになり、高麗川周辺に生まれたマンモス団地や住宅街に住む人々の通勤の足となってベットタウンの風情があふれる街に変貌していたのだった。
 蛇足だが、セメント工場にはもう一つ北からの専用線が開通していたことを付け加えておこう。こちらは東武鉄道 越生線の坂戸起点 4.4kmにある西大家駅から工場に至る電化専用線である。昭和38年(1963年)に、秩父鉱業の東松山採掘場で産出した粘土を搬入することと、製品のセメントを東部 東上線の下板橋駅に設けたセメント包装所への出荷を目的に開業した。東武鉄道所属のED5010形電気機関車が専用線に直接乗り入れていた。東武東上線の貨物廃止で1984年(昭和59年)に一歩先に廃止されてしまっている。

撮影:昭和43年
ロードアップ:2010−03.

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■画像追加
〈001〉の画像を下記と取り換える。

※※【12】@-3-1:横。連写二枚目
夕闇の高麗川駅の東飯能方の踏切手前から撮っている。
高麗川八ショの 9473レ。
八王子行のセメント専用の重連臨貨物列車の発車。前の続きの連写。
鉄塔の証明は見えない。手前は踏切。黒い煙を噴き上げて、両サイドからのドレーン、ヘッドライトの光がレール面に反射している。
左手奥に二階建てのポイント操作つめしょ。
その手前に、私のスバル360が注駐車している。
手前は踏切。