自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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174.
由布岳をバックニD60発進
・久大本線/由布院駅
〈0001:〉
…………………………………………………………………………………………………〈紀行文〉
SLを撮り始めて2年、先輩方々の作品に刺激を受けて撮りたい候補地が次第に増えてきていた。そして昭和43年(1968)9月の下旬に九州への撮影行に出かけた。何故かは忘れたが、由布岳をバックにD60をスナップして、急いで日豊本線の宗太郎超えに向かったようだった。今から思えば、水分峠への登坂風景を狙わなかったのかが惜しまれる。今でこそ由布院駅前の細い道筋の両側には郷土色豊かな土産物屋、風情のある温泉宿、気のきいたカフェやレストラン、公共浴場などに混じって、小さな美術館や博物館などが立ち並ぶだ文化性の高い街として年中賑わっているのだが、私が訪ねた頃は大分県の片田舎(かたいなか)の静かな温泉場であったような気がする。大分駅で久大本線の普通列車に乗り込んだのは午後になってからだった。大分川と国道が近づいてきて、大きく蛇行しながら一緒に西へ進んで行く。賀来駅辺りで西に広がる山々が近づいて来て、河岸段丘の上を走るようになり、登るにつれて段丘の幅が次第に狭くなってきた。谷をひたすら登ッテ行く途中に、その昔、別府温泉に次いで入湯客の多さを誇っていた湯治(とうじ)温泉のある湯の平駅を過ぎる。この谷筋はトンネルが少ないが、カーブと鉄橋が数多くあり、25パーミルの急勾配で大分からの標高差約450mをあえぎながら登って来たのは門鉄デフのD60蒸気機関車であった。そしてやっとのことで、谷間から由布盆地に入れは、右の車窓から雄大な由布岳の姿が目前に迫ってきたのだった。やがて南由布駅き付いた。ここからの線路は由布岳の南側を回りこみながら盆地を進み、次いで大きなU字カーブを描いて一度東へ引き返すように向きを変えて左に大きくカーブすると直ぐに由布院駅の3番線に入って来た。ここには使い果たした水を補給するための給水塔や、機関車の灰箱に溜まった石炭の燃え殻を捨てるアッシュピットが用意されていた。
標高 453mの高原の駅を下車して、外へ出ると、正面に豊後富士と親しまれている由布岳が展開する。温泉宿は駅の南東に広がっているとのことだった。
所で、由布岳のある場所だが、別府湾から眺められる二つ並んだ山々が鶴見岳(標高 1374m)と後方の由布岳(標高 1583m)の美しい姿だと云えば判るであろうか。由布岳は鶴見岳の西側に、また「くじゅう(九重)連山」の東部に位置している150〜70万年前の火山活動でできた古い独立峰である。地質学的に云う「由布−鶴見地溝帯」の中にできあがったトロイデ(吊り鐘状)型の活火山であって、西に湯布院の盆地、東に別府の火山性扇状地が広がっていて、由布院温泉や別府温泉と云う湯量を誇る温泉の熱源となっている。
“豊後富士”との別名を持つ由布岳は深田久弥さんが日本百名山に入れなかったことを後悔した山と云われ、最近になって新百名山に選ばれている。「ゆふ」というやさしい響きの地名とは対照的に、八合目から上は赤茶けた岩肌が露出した火山性の荒々しい山塊であり、怪奇な雰囲気を漂わせているのが写真から判るだろうか。ここは、
北の目前に由布岳の巨大な山容が迫り、南方には花牟礼山(はなぐれやま)や遠く「くじゅう(」九重)連山」を望む標高 1,000m級の山々に取り巻かれた東西12km・南北8kmの由布盆地は大分川により造られた扇状地と開けた平野部でできており、中央部の水田では9月に入り、すでに稲穂は刈り入れ準備を整えているようだった。
ここから西へ久大本線がたどる水分峠への道筋について述べておこう。由布院駅で給水を取り終わったD60は連続する急カーブと25パーミルの急勾配、それに四つのトンネルをひかえた11kmの難路に挑戦することになる。由布院駅を出た線路は温泉街を包み込むように、広がる水田などを見おろしながら登り始め、十六曲がりの家並みを過ぎると、野矢駅までの峠路は殆ど人家を見ることもなく、ますます谷は深くなって行く。その登りも最高地点である水分トンネル(全長 約1,900m)の中に位置する海抜607mのサミットを超えるまでである。由布院駅が453mだから、実に154mも登ってきたことになる。やがて久大本線で最も高い駅である標高 544mの野矢駅を通過し、ここからは野上川の谷をひたすら下り、何度も川を渡って行く。かつては肥後小国まで宮原線が分岐していた恵良駅を過ぎると、駅構内にターンテーブルや扇形庫の跡のある元機関区を残している豊後森駅に到着する。その先は筑後川の支流の玖珠川(くすがわ)の屈曲の激しい川沿いに鉄橋を何度も何度も渡って、やがて九州の小京都と呼ばれる日田を経て、日田英彦山線が分岐する夜明駅を過ぎて、久留米へ至っていると云うのだった。
最後にD60のことだが、1950年代にはD50形などの乙線規格の貨物用蒸気機関車が余剰状態となっている一方で、丙線区の貨物列車は9600形が牽引していたが、老朽化が著しく、C58形では牽引力が不足していたので丙線区向け貨物用蒸気機関車の新造が求められていた。そこで余っていたD50形を従輪2軸の1D2(バークシャー形)に改造し、軸重を14.70tから13.67tへと軽減したD60を作り出した。この軸重軽減による空転を防止するため、シリンダー直径を570mmから550mmに縮小したほか、出力低下を抑えるためボイラー過熱面積を64.4m2から75.2m2に拡大した。そして、1951年(昭和26年)から5年間で78両が改造された。当の大分機関区には久大本線用としてC58型に代わって昭和31年に配置され、昭和47年(1971)の無煙化まで客車や貨物列車の牽引に活躍した。
所で、改造の対象となったD50の元々の誕生の背景は1916年頃から始まった9600形の後継機の新造計画の具体化であった。それは長年の課題だった改軌論争が狭軌に決着してから、狭軌に最適化させて開発された急客用の18900形(1928年にC51形に改称)が大きな成功を収めたこともあり、貨物用についても同様の軸配置を従台車付きのミカド形(1D1)で設計し、1923年から9年間に380輛が製造されたものである。この機関車にはアメリカ流のラージエンジンポリシーの影響が色濃く現れていると云われる。そのボイラーには3缶胴構成の広火室過熱式のストレートボイラーが採用され、火室の床面積は9600形の1.4倍となっている。それで9600形に対してボイラー性能の飛躍的な向上と出力の増大が実現し、60%の性能向上が得られた。当時9600形で600tから700tの牽引が限度であったところを、D50形では最大950tの列車牽引が可能となった。また、発の給水暖め器が前のデッキに搭載されている。
そして、昭和期の国鉄ではD50形の性能諸元を基にして幹線の貨物列車の牽引定数が定められたり、その後の新造制式機関車への基礎データを築いた機関車としての輝かしい評価が与えられていると云うのだった。
撮影:昭和43年9月17日
アップロード:2010−03