自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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166.  桜の咲く八郎潟に沿って ・奥羽本線 /八郎潟駅付近&秋田駅

〈000131-15-1:桜の咲く八郎潟駅付近・奥羽本線〉
0001:背景は男鹿半島の山々か。:昭和46年5月2日撮

〈0002:24-1-2:秋田駅発車C612号客レ〉
0002:秋田液を発車するC612号機の引く野ゴリ客

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〈紀行文〉
 昭和46年の5月連休に新潟の実家へ顔を見せてから、国道7号線(新潟市−秋田市−能代市−青森市)を北上して五能線の大間越の辺りを撮りに出かけた。その旅の間に見かけた満開の桜を前景にした奥羽本線のSLを二枚選んでお目に掛けたい。
 先ず一枚目はどうも撮影場所がはっきりしないのだが、アルバムには八郎潟とメモが書いてあるのだが。私が秋田市内を過ぎて男鹿半島の付け根を抜けて八郎潟の水面が眺められる辺りを走っていたところ、左手の岡の上の公園で桜祭りを催していたので立ち寄って見た。その近くで、午後の陽にきらめく八郎潟の水面をバックに満開の桜を前景にSL列車が撮れる場所を探し回ったが見付けるのは難しかった。何とかとったのが、この一枚で、バックの八郎潟が物足りないのが残念である。この頃は、琵琶湖に次ぐ広い湖面を持っていた八郎潟も干拓工事が進行中で昔のような雄大な眺めは望めなかったのかも知れなかった。八郎潟の東岸に沿って残された承水路と、それに繋がった八郎潟調整池が南端に残されていたはずなのだが、写真にはうまく撮り込めてはいなかった。
この辺りは私の訪れた翌年に秋田県100年を祈念して、日本中から約200種で、2,000本の桜が咲き誇る桜の里である日本国花園が設けられたことで有名であり、平成7年(1995年)には井川さくら駅が八郎潟駅の僅か 1.4km手前に新設されている。
 次の二枚目は不意に立ち寄った早朝の秋田液構内の南外れである。余りにも良い枝振りの満開の桜に魅せられて、SL列車の来るのを待った。やってきたのはC612の引く奥羽本線の上り旅客列車だった。確か奥羽本線の秋田−青森の無煙化は昭和46年(1971ねん)9月末だったから、このカマにとって最後のみちのくの桜であった訳である。その後は南九州の日豊本線の宮崎−延岡間で見かけたことがあったが、今は京都の梅小路蒸気機関車館におさまっているのは嬉しいかぎりである。このC612号機の経歴は、戦後に余剰となっていた貨物機D51のボイラーを使用して、車軸配置 2C2のハドソン旅客用機関車として三菱重工で誕生し、先ず東北本線の仙台区に配置、昭和40年の盛岡電化で奥羽本線の青森区へ異動、そして昭和46年の秋には九州へ大移動して行った。
 


今の奥羽本線は秋田から能代へは八郎潟の東岸を国道7号線に並行して北上しているが、この線が「奥羽北線」として青森から建設される時期には大館から秋田へ至る経路の選定には大変な論争があったことが伝わっている。
そもそも日本での初期の幹線鉄道網を建設を進める際のルート選定には陸軍の意向も強く主張されていたようで、この国が建設すべき鉄道予定線を定めた鉄道敷設法には、当時陸軍師団のあった弘前から山形へのルートを重視していた陸軍の意向もあって青森から秋田、山形を経て福島へ通じる奥羽本線が第1期予定線となった。この北からの奥羽北線のルート選定に当たっては、鷹巣−秋田間には三つの案が提出されていた。
@桧山線(かいやません)・山本郡回り
秋田から真っ直ぐ北上して、八郎潟の東岸沿いに能から約4kmほど東にある檜山[現在の駅名は東能代]を通り、そこで右折して鶴形から鷹巣に向かう案で秋田県、経済界の主張であって、線型の許す限り能代港に近づけた案であった。
A仁別線(にべつせん)・内陸まわり
秋田から右折して出は丘陵の太平山(標高 1,170.4m)のふもとの仁別を通って山間を抜け、米代川へ注ぐ阿仁川の支流の小阿仁川沿いに落合、小沢田などを経て鷹巣に向かう案で軍部の海岸線から離すことを主張する内陸ルートである。
B能代線
桧山線を能代まで伸ばす案で、経済界が強く望んでいた。しかし、軍部の反対に加えて、地形的に線型の設計に難があったし、さらに馬車屋の連合と米代川に携わる水運関係者たちが利益流出のための生活権を考えての反対もあって先ず案から外されたことから、能代市内は通らないことになった。
そして国会での委員会での採決は僅差で「桧山線」に決定。しかし、軍部ではあきらめず、再び折衷案を提出した。
C五城目線
秋田から少し内陸に入って五城目町を通って鷹巣へ向かうるーとであって、現在の国道285号(秋田−潟上−五城目−北秋田(鷹巣)−鹿角)に沿っていて、秋田−青森の最短ルートに当たっていた。そして、明治26年(1893年)の国会での採決は大差で「桧山線)に決着したとのことだった。
そして青森から「奥羽北線」が明治26年(1893年)に着工し、矢立峠を越えて、大館、鷹巣を経て明治34年(1901年)に「能代駅」まで開通した。ここは能代駅とはいっていたが、能代町の中信から4kmほど東に離れた桧山(かいやま)地区の機織(はたおり)と云う地点に存在していた。この駅は7年後に機織り駅、さらに昭和18年に東能代駅となるめまぐるしさであった。
 もしも奥羽北線が陸軍の主張する仁別線となっていたら、米代川水系と雄物川水系の分水嶺をなす峠を越える事になり、現在のような裏日本縦貫線としての比較的平坦な輸送路の実現が一歩遠のいたことであろう。この聞きなれない仁別(にべつ)は、今でこそ秋田市の北部に属しているが、昭和43年までは秋田営林署の仁別森林鉄道の拠点があり、秋田駅−仁別 間の12.3kmを旅客と秋田杉を運んでいた。そして仁別を起点に太平山のふところへの支線は、約500mのインクライン区間を持つ旭又線(7.58km)、軽井沢線、砥沢線、中ノ沢線、峠越えの約400mのトンネルを持つ奥馬場目支線(10.6km)などが設けられていた出羽丘陵の山間の地であったのだった。
撮影:昭和46年