自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・西南北海道を巡って(黒松内低地帯 T)

155.  黒松内低地帯を行く急行「ニセコ」 ・函館本線/二股−蕨岱


〈0001:bO31055:長万部駅下り急行“ニセコ”発車〉



〈撮影メモ:昭和41年7月撮影〉
根室本線の狩勝峠への撮影旅行の帰りに長万部駅に途中下車して、下りの急行“ニセコ”の発車風景を狙った。
高い位置から撮っている。(ポイント扱い塔の階段からか。)
前補機はC62 2号。左側のホームに駅長が手を挙げている。
煙は見えないが安全善が吹いている。私が急行“ニセコ”に出会ったさいしょであった。

〈0002:bQ21243:下り急行 ニセコ〉

〈撮影メモ:昭和45年7月23日撮影〉
右奥から左手前に。低い築堤で、手前ははたけらしい。
黒煙を吐いたC62重連、客車3両が写っている。
背後には、少し遠くに民家が見えていることから、二股駅を通過して力行して行く16‰の登りのところであろう。
 
〈0003:bQ30111:上野追いかけシーン〉

〈撮影メモ:昭和45年7月23日撮影〉
上野連写二枚目です。C62重連追掛けシーン。
左手から陽光が当たって3個の動輪がはっきり。

〈0004:ar

…………
〈紀行文
 北海道の渡島半島への家族ドライブ旅行の後半は五万分の一地形図 長万部(おしゃまんべ)で見つけた山奥の温泉地を訪ねた上で、取りあえず函館本線の山線の南端を探訪することにした。ガイドブックによれば、それは二股(ふたまた)温泉であって、世界的にも珍しい天然ラジウムを含んでいて、万病に効くことで知られる秘湯だと云うのであった。
「おしゃ まんべ」と云えば、ひと昔前のコメデアン 由利徹(ゆり とおる)の「シモネタ ギャグ」を思い起こす人もあるだろうが、何を隠そう私ももそのひとりなのだった。しかし、私などは何のこだわりもなく、「長万部」と書いたり、「おしゃまんべ」と読んだりしていたのだったが、よくよく考えてみると、まことに北海道らしい語感にあふれた地名なのに気がついた。その由来にはアイヌの人々の住んでいる地元の川や山の自然景観に起源を持っている二つの説に出くわした。先ず川では、「オ・サマム・ペツ」を直訳すれば「川尻が横になっている所」となり、「海に沿って流れる川の川口」であり、実際に長万部川の古川には川尻が横になっているのが認められると云うのであった。他方の山は、「オ・シャマンペ」は「オ(川口/川尻)・シャマンペ(カレイのいる所」となるそうだ。また、長万部のシンボルでもある長万部岳には、昔から雪解けの季節になると、カレイの形の残雪が山肌に現れて、カレイやヒラメの漁期を知らせてくれるとのアイヌ伝説が地名となったとするのであった。
 さて、昨夜泊まった噴火湾沿いの鹿部温泉の宿を出発して、国道5号線をひたすら北上した。一方、並行して行く函館本線は、「イカめし弁当」で知られる森駅を過ぎ、落ち部の辺りの海を臨む海岸段丘から函館に向かう長大な貨物列車を牽くD52の勇姿を噴火湾に突き出した河口の砂州をバックに撮ることができた。やがて、長万部に近づくにつれて国道沿いのドライブインの異常な賑やかさにはいささか戸惑いながら、長万部駅に近づいた。線路をそのまままっすぐ進むと室蘭本線に入ってしまい、まもなく噴火湾の海まで迫っている静狩峠の山々の下をトンネルで抜けて室蘭方面へ向かっていた。一方、肝心の函館本線は室蘭本線からあたかも分岐するかのような形で大きなカーブを描いて左に向きを変えてニセコの山越えに向かっていくのだった。それまでの頑丈な複線が幹線級ながら単線の線路に変わり、急カーブと急勾配が連なるようになり、長万部川に沿って登って約8km余りも走ると、双葉の集落にある二股駅に着く。
この駅から国道5号線に出て右へ向かうと、眼前に二股山(標高 569M)、右前方に黒松内岳(標高 740M)が大きく見える。この中間奥深くに長万部岳(標高 972m)が遠くやっと見えてくる。そして黒松内方向へ1.4KM行くと、長万部川の第1支流である二股川に架かる二股橋があり、右手には函館本線の二股川橋梁がおあつらえ向きの撮影ポイントを提供してくれていた。そこを過ぎて山林の中を15パーミルの勾配とと急カーブを登り続ける。線路より一段と高い所を寄り沿って来た国道5号線の路肩からC62重連が牽く下り急行「ニセコ」を夏の午後の陽の中で捕らえた。余裕たっぷりのように見えた速さで眼前を軽快に走り抜けて行った。
私たちも後を追うようにして、日本海と太平洋の大分水界にあたる低いさみっとにたどり付いた。この平坦な頂上には函館本線の蕨岱(わらびたい)駅があり、この辺りの山々には温帯樹種のだいひょうであるブナの自然林が広がり、その北限として知られているのだった。そして線路は黒松内トンネルを下って黒松内駅に着く。ここの側線には、つい3年前の昭和42年までは日本海岸の漁業の町 寿都(すっつ)から毎日一回通って来ていたアメリカのボールドウイン機関車会社  1897年製のモーガル(2−6−0)の8100型蒸機が姿を見せていたはずなのだったのだが。この寿都鉄道は水害で路盤が流されて不通になったまま廃止を待っているとのことであった。
そこで、この先の国道をニセコ方面を少しばかり偵察してから、黒松内へ戻って来た。
 ところで地図をよくよく眺めていると、日本海の寿都湾から、太平洋の噴火湾に面する静狩峠(標高150m)に続く山が海に落ち込んでいる断崖までの間には、渡島半島の首根っこをを明瞭に区切る線を引くことができるような地形であることが読み取れた。これに沿っている水系は、噴火湾に注ぐ長万部川の上流の二股川の支流 知来川と日本海の寿都湾に注ぐ朱太川の支流歌才川の分水嶺は標高が約100m程度の低さであった。そこで海抜300m以下の地域を地図で追うと、長さ35Km、幅5Kmの区域となり、それは長万部付近から黒松内を経て寿都に至る直線距離にして僅か30qの渡島半島の くびれた地形に当たっており、黒松内低地帯と呼ばれている所であった。黒松内岳をとする黒松内川が朱太川に合流する地域に黒松内町の町並みが開けており、この合流地点でも海抜20m程度の低地なのであり、標高200m−700mの山々に囲まれる黒松内の市街地は、まるで山間の小さな盆地のようなのである。この低地帯の中にある標高100−200mの歌才(うたざい)にある天然記念物のブナの原生林は温帯の標徴植物であるブナの北限とされており、ブナがここに到達した時期は花粉分析から680年前と確定されていると云う。日本海こ太平洋が直線距離で僅か30Km足らずしか離れていないと云う特殊な地形がブナが北に進出するのを阻んでいたのであろうか。
この低地帯の地勢は、日本海と太平洋の両方の気象の影響を受けていることから、この黒松内低地帯までは東北地方で分布している植物相が多く分布しており、黒松内低地帯以北では、北海道らしい景観に一変すると云うのである。
この低地帯は早くも江戸時代後期の1855年(安政2年)に箱館奉行が造った道路改作計画書によれば、北海道の日本海岸を北上して積丹(しゃこたん)半島から留萌(るもえ)へ、そして宗谷に至る道路開発の始点として選ばれたのが長万部であった。ここは渡島半島の付け根で、噴火湾岸沿いを北上する街道筋となっており、早くも1773年(安永2年)には函館奉行の番屋が設けられ、宿場として旅人への弁が供されていたし、さらに1855年(安政2年)には噴火湾の警備を幕府から命じられた南部藩が陣屋を高台に設けると云うように全北海道支配の足がかりとなっていたのである。その計画では、昔から開けていた黒松内低地帯である長万部から黒松内を経て、日本海岸の寿都へ出る黒松内超えが提案されていたのであった。その実現は、長万部川沿いに北上して峠を越える約6里(23.6km)で黒松内へ、そしてここからは朱太川に沿って下り、寿都まで4里(15,8km)余の行程であったと云。明治になってからの道路や鉄道も同様にこのルートを踏襲していたのである。
そこで歌才川の南岸にあたる丘陵にあるブナの北限の原生林を訪ねてから、名もない小さな峠を越えて国道5号線へ戻った。そして二股橋まで下って、ここを右折し、二股川に沿って林道(今は道々大峰−双葉線842号線)に入る。この二股川沿いの約5kmの林道は二股渓谷と呼ばれる紅葉の名所のはずなのだが、どこを見ても盛夏の緑で満ちていた。さらに3KM上流に進むと、二股温泉への分岐点に出る。左にダートを500mほど登れば、秘湯 二股温泉、右へ進めば終点の大峰である。この先は長万部岳への登山道が続いている。
この到着した温泉地は云うなれば、長万部町のシンボルである長万部岳の麓に当たり、海抜約250m、周囲は鬱蒼とした原生林に覆われていた。私たちが通ってきた林道の途中では「キタキツネ」の姿を見かけたようだった。
何と云っても、ここは巨大な石灰華で有名であり、長さ400m、幅200m、厚さ25mにも達する放射能石灰華の段丘上に温泉宿が建てられているのだと云うのには驚いた。私たちが訪ねた昭和45年頃は、明治時代に開かれたと云うずいぶん古びた湯治宿であったが、熱心な湯治客で賑わっていて、やっと泊めてもらったのだった。
その石灰華の上流側は草に覆われているが、川下側の亀裂からは温泉が「こんこん」と湧出している。この湯は渓谷を流れて結晶し沈殿して石灰華を成長させており、その部分は幅22m、長さ54mの半ドーム状になっている。これは二股川上流のカシュリナイ川のほとりに湧出する温泉で、純度の高い鉱泉水で炭酸カルシウムが大量に含まれ、その沈殿物である温泉湯華によって雄大な大積層が築かれ、巨大なドームが形成されたのであると云う。このドームの主成分は「水に溶けやすい炭酸カルシウム」を95.75%も含んでいることや、さらに5.47マツヘと云うラジウムが含まれているのである。この永い年月を掛けて造られた石灰華の巨大なドームはその雄大さと成分的な貴重さで北海道文化財、天然記念物の指定を受けており、またアメリカのイエローストーン国立公園のマンモス温泉群と共に、世界で二ヶ所しか現存していない貴重なものなのだと云う。
このような能書きには大変興味を覚えたのだったが、さて入浴となると、あらゆる所に沈着した褐色の炭酸カルシュウムに覆われた浴室と、茶色に濁った浴槽の情景に触れると、ワイフは尻込みするやらで、結局の所、娘と私が夕刊にも入浴を試みたのだった。
翌日は国道37号線を静狩り峠から礼文華峠を越えて室蘭本線に沿って走り、昭和新山を眺めてから、胆振(いぶり)線に沿って羊蹄山の山麓を回って倶知安(くっちゃん)へ出た。その町外れの跨線橋で下りの急行「ニセコ」を撮ってから、再び長万部へ戻って来た。そこで名物の「毛ガニ弁当本舗」で夕飯にありついた。その夜は、青函フエリーに乗って帰途に付いたのである。

撮影:昭和45年7月