自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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145.  重連習作 「川面に影を映して」   奥羽本線 東能代駅付近

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重連習作(川面に影を映して)(奥羽本線・東能代付

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〈紀行文〉
  どのようないきさつだったのか、思い出せないのだが、早朝から五能線の鰺ヶ沢辺りでの撮影を済まして、昼下がりに5能線の米代川橋梁で撮影を試みてから、東能代駅前で一息入れた。ここは街外れのようで、こじんまりとした駅前通りがひっそりとしていた。いささか疲れていたので、米代川の堤防にでも行って昼寝でもしようかと考えて付近を走った。突然豊かに水をたたえた運河のような川にぶつかった。近所の人に尋ねると、「檜山川(かいやまがわ)」とのことであった。その米代川の堤防へは、その先であるとのことだった。そこで橋を探して対岸に渡ってみた。すこし上流に走ると、対岸の堤防近くに奥羽本線の線路が近づいていることに気がついた。地図をみると東能代駅を出た鷹巣へ向かう線路は檜山川に沿ってしばらく走り、やがて「檜山川橋梁」を渡ると米代川に寄り沿うようになり、富根駅、その先で米代川橋梁を渡って水田の間を進み、杉丸太の筏(いかだ)流しの出発地点であった二ツ井駅があり、その先は前山と過ぎ、右から秋田内陸縦貫鉄道が合流して鷹ノ巣駅に着くのであった。。徐々に谷が狭まり糠沢、早口を過ぎて大館方へ向かって北上しているのだった。そこで、この穏やかに流れる水面の見える堤防の上に登って腰を下ろして、しばらく放心していた。突然、遠くに二声の汽笛が流れて来ると、しばらくして重連貨物が現れた。
いつも85o望遠れんずを装着していて、エクタクロームが入っているアサペンSPでスナップショットした。この豊かな川面があったお陰で、重連の姿が水面に影を映していたのであった。風もなかったのか、鮮明な映像が現れたのには撮った本人が驚いたことを思い出した。
この川を少し下ると米代川に合流するのだが、その地点に能代貯木場があり、上流から筏で運ばれた秋田杉の丸太が陸揚げのために「檜山運河の水門」お通って貯木場へ運びこまれるとのこどであった。そのためであろうか、檜山川の水位は随分高く保たれていたのであろうか。
 さて、秋田から能代方へ向かっての沿線風物の素描を試みてみよう。秋田を出て男鹿半島の付け根を抜けると八郎潟の東岸を北上することになる。丁度干拓工事が進められている最中らしく、琵琶湖に次ぐ広い水面を持った八郎潟の面影はなく、岸辺には承水路と云う細長い水面と南端には八郎潟調整値と云う水面が残されるとのことで、その仕切り工事がたけなわであった。この辺りは国道7号線と並行して北上していた。やがて車窓の景色が田園風景から湿原風景に変わるとそこは米代川の沖積平野で、行く手の線路が右に変わると左から単線の五能線の鉄路が合流すると、東能代駅に到着した。広い構内と大きな機関区があって特急も止まる能代の代表駅なのだが、意外にも駅前は自然のあふれた郊外であった。この先は米代川に沿うように北上して鷹巣・大館方に向かっていた。
要するに「奥羽本線上には“能代駅”は存在しないのであった。
この奥羽本線の建設は、青森から湯沢を目指して南へ延伸してきた「奥羽北線」であって、明治34年(1901年)に能代駅まで開通した。ただし、この駅は能代町の中信から4kmほど東に外れた桧山(かいやま)地区の機織(はたおり)」集落のある場所であった。何故、能代駅が能代町の中心に設けられなかったのかについては、地元民の反対と云うよりは、先ず線路の配線上の難点が地形的にあったことは確かのようであり、それに加えて馬車屋の連合と鉄道側との争い、また米代川に携わる水運関係者が、利益流出のための生活権を考えての反対もあったと云われている。しかし最も強く反対したのは奥羽線を海岸へ近づけたくない軍部であった。それは敵の艦砲射撃の被害を受けやすいと云うりゆうであって、東北本線が八戸辺りで太平洋岸を通っていたことに危惧(きぐ)をいだいていたからであった。しかし結果として、地元では大変不便な事が判ってきて、7年後には、能代駅から能代貨物取り扱い所まで1駅間が能代貨物線として開通し、翌年には旅客駅の能代駅として開業することになった。同時に奥羽本線の能代駅は部落の名前を採って機織り駅と改められた。この駅が東能代駅となったのは昭和18年(1943)になってからのことである。この盲腸線だった能代支線は、その後に米代川を渡って日本海岸を北上する五能線へと発展して行ったので、現在の能代駅は五能線の主要駅なのである。
 ところで、ここにしばしば登場している米代川は能代市街の北部をゆったりと流れ下って日本海へ注いでいる大河である。奥羽山地の八幡平(はちまんたい)付近を水源としており、米代川の名はその近くにある十和田湖火山が10世紀頃に大噴火を起こし、その火山灰で白く濁った川の色を表現して、米の「とぎ汁」を意味する「米代」になったと云う。この流域の特色は鉱山地帯が多くあること、優れた材木の産地でもあり、ここから産出する鉱石や丸太材は米代川を使って能代へ運ばれた。特に、丸太を筏にして川に流す筏流しは1964年まで続いていたと云うから、私の撮影した頃には未だその施設の名残が残って居たのであろう。

撮影:1970年