自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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139.  蒸気機関車を見守る鹿山峠のお地蔵さま   八高線 /東飯能→高麗川
〈0001:〉
SLを見守るお地蔵様・八高線/東飯能→




〈0002:bQ20413:八高線 1283レ 〉

〈撮影メモ:昭和45年1月11日撮影〉
この日は北は寄居の先から南は金子坂まで一日中走りまわったので、どこで撮ったかが判らない。前の〈0001〉の高麗川−東飯能 ではないと思います。
大小2体のお地蔵さまが機関車の方を向いている。基段の上の蓮華の上に大きな仏が立っている。小さな仏は台の上で、その背後に立っているのも珍しい。

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〈紀行文〉
 私が汽車を撮り始めたきっかけは東北本線の奥中山の三重連だったが、東京都の練馬区に隣接した埼玉県の和光市に住んで狭山市にある自動車工場へ勤めていたこともあって近くの高麗川駅を分岐点とする八高線と川越線沿線がカメラ修行の場となり、五万分の一地形図を片手に足しげく通い詰めていたのだった。
ある時、東飯能駅から鹿山峠への辺りに狙いをつけて訪ねた。先ずロケハンをするため高麗川駅からら上りDCに乗って3つ先の箱根ヶ崎駅との間を往復したのだった。
アメリカ空軍のジャンボ ジェット貨物機が翼を休めている横田基地が遠望できる箱根ヶ崎駅から高麗川駅へもどるには右にパ リーグの「西部ライオンズ」の本拠地である 西武球場のある狭山丘陵と向かい会っている入間川南側に沿っている加治丘陵との間に横たわる なだらかな金子台地を抜けなければならない。線路はこの金子台に続いて加治丘陵を金小坂で超えて、入間川を渡り、高麗丘陵を鹿山峠で越えると高麗川に到達する。この八高線は全線にわたって、小さな峠と、その間の谷を渡る鉄橋の繰り返しのルートが続いているのが特徴だ。
箱根ヶ崎駅を出ると低地に入るが、この辺りは狭山丘陵の流れを集め立川大地を蛇行して流れて多摩川に注いでいる残堀川の水源である狭山ケ池の溜まり水があり、緑の濃い武蔵野の松林帯が広がっている。残堀川の名前の由来は、昔箱根ヶ崎の狭山ケ池にすんでいた大蛇を百姓の治右衛門が退治した際、大量の血がこの川を流れ下り、それ以来この川を蛇堀川と呼ぶ様になったが、その後「じゃぼり」がなまって「ざんぼり」と呼ぶ様になったとの伝説があると云う。ここを抜けると、武蔵野独特の形をした小高い加治丘陵を背景に、金子台地が緩やかな起伏をなぞるようにあの蒲鉾型(かまぼこがた)の茶の列が折り重なるように広がっている中を線路は横断して行く。その茶畑の尽きた所が金子えきで、その小高い高さを維持するよに高い橋梁で霞側と埼玉県道63号(青梅・入間線)を跨いで、金子坂てと向かって登っている。この霞川は青梅市の奥の霞丘陵辺りから流れ出て、加治丘陵と金子台を分けるように北東へ流れて、入間市の市街を抜けて入間川に合流する荒川水系の河川であった。この川筋は昔からの街道で、大正6年まで中武(ちゅうぶ)馬車鉄道が入間川町(狭山市)と青梅町(青梅市)との間を結んでいたルートに当たっている。これは武蔵野鉄道(現在の西武鉄道池袋線)の開通前、鉄道空白地帯と化していた入間郡南部と、そこを輸送拠点としていた青梅地区とを相互連絡するとともに、川越鉄道(川越−国分寺:現在の西武新宿線/国分寺線)と青梅鉄道(現在の青梅線)へ、それぞれ連絡する手段としての役割を果たしたのであると云うのだった。
さて、金子駅を出て北進する八高線は加治丘陵の切り通しのある金小坂の急勾配を一目散に駆け下ったかと思うと、急に視野が開け、高い築堤と橋梁で入間川を渡るのである。やがて複線の西武鉄道の池袋線の上を越えて、飯能の住宅街の中を走ると、飯能駅でスイッチバックした西武鉄道は単線の秩父線となって急カーブで八高線に寄り沿ってくると東飯能駅に到着した。それは、西武・池袋線が飯能駅を終点にしており、ここからスイッチバックして方向を変えて八高線と接続した後に、隣の谷筋である高麗川沿いに吾野・秩父方面に向かうルートとなっているのだ。西武の前身である武蔵野鉄道の創設時には、飯能が終点であった。その後、昭和の始めに高麗川上流の吾野で豊富な石灰石が採取されるようになり、この輸送を目的に鉄道を遠心することになった。そこで池袋からの路線をそのまま延伸すれば入間川上流の名栗川に沿うことになってしまい、それ故に吾野へ出るためには山越えが必要となる課題があった。一方、その当時すでに八高線の建設計画が議論されており、八高線との接続を可能とする現在のルートが選択され、昭和4年(1929)に一歩先に吾野線が開業した。その2年後には八高線が東飯能駅まで開通したのである。
 さて、東飯能駅には給水設備があったし、普通貨物列車はこほに停車して、小さな入れ替え作業を行っていた。
東飯能を発車し、軽快なブラスト音を響かせて鹿山峠への助走に入るのだが、ここから峠までの約2,5km足らずの間にに10箇所の踏切りがあると云うにぎやかさと、武蔵野の屋敷林や鬱蒼(うっそう)とした竹林をすり抜けて、いよいよ登りへのスパートを掛け始める。
 この飯能市街の西方には奥武蔵の前ヶ貫丘陵があり、そして北方の高麗丘陵と、それに並行する南方の加治丘陵(阿須山丘陵)により東西の間に挟まれた台地部分に発達しており、その北寄りは高麗丘陵の南端が鹿山峠などの低い丘陵や低地と接している里山である。その辺りを南小畦川が東流しており、鹿山峠を越えた北側には宮沢湖を水源とする北小畦側が同じく東流していて高麗川駅構内の下を流れ下っている。この宮沢湖へは入間川が上流で殴り側と名を変えた辺りで小瀬戸堰(頭首工)を設けて取る水した農業用水の残りが導水されていて、川越方面の水田の灌漑用水を供給する人工の貯水池となっているのであった。
この高麗丘陵の線端部分の南を流れる南小畦川の低湿地帯は広々とした水田が発達しており、ここを鹿山峠のサミットを目指す八高線は豪快な築堤を築いて横断しつつ20パーミルの急勾配を駆け上がっているのだった。その築堤の中頃、東飯能駅から約2.2kmほどの所に両側に急坂を備えた長福寺踏切りがあり、これが元 小久保村のメインストリートのようであった。その踏切の下の際には長福寺があって、広い境内(けいだい)を巻くように道は直角に曲がって通っていた。その境内の一角に高い台座の上に祭られた大小二体の地蔵菩薩の石像が築堤の上を通過する八高線の列車を静かに見守られておられる姿を見つけた。
私の尋ねた季節には、人気の全くない小久保の長福寺の境内はひたすら静寂な空間と静かにたたずんでおられるお地蔵さまの姿だけがあるばかりで、やがて遠くから蒸気機関車のドラフトが近ずいて来た。
この背の高いお地蔵さまは、この延命菩薩の功徳(くどく)をたたえた上で、「現世・来世に仏道に入ることができますように、世の人々全てに等しくご利益がありますように」との願いを込めて、元文2年(1737)正月に小久保村の人々が建てたものであり、背の低い方のお地蔵さまは、「この功徳をもって、皆が仏道に入れますように」との願いを込めて、天明六年(1786)11月に小久保村の念仏講の人々が建立したとのことが、台座に刻まれた銘文から読み取れるとのことが[飯能の石仏](飯能市教育委員会編)により判った。この小久保村は江戸時代には幕府直轄地であったようで、広がる水田での稲策のもたらす裕福さをしのばせるほど立派な石仏であった。この地は明治の町村制の発足によって、この南小畦川一帯は精明村となり、小久保はその中心のひとつであったようだ。今は飯能市となっており、小久保地区には「精明公民館」があり、その地名を残している。
このお地蔵様があたかも列車を見守っておられるように築堤の方を向いて建てられているのは、昭和8年(1933)に東飯能〜越生(おごせ)間の14.0kmが建設された際に長福寺の境内すれすれに築堤が築かれて元 小久保村のメイン ストリートを分断してしまい、急坂のある踏切がかろうじてそれをつないでいるような形になったものと思われた。
 所で、このお地蔵さまの由来を調べていると、この鹿山峠の辺りは、山をひとつ越えれば古代に朝鮮から渡来して来た人々の築いた高麗郷が栄えた地があり、低い丘陵のあちこちには鎌倉時代の山城や巨館の跡と伝えられる中山城跡や泉ヶ城跡、加治屋庵跡などがあり、また平安時代からの由緒を持つ神社や寺が多く散在しており、また路傍には江戸時代に広まった庶民信仰の深さを示すように多くの石仏たちが祭られていると云う、多彩な歴史遺産の宝庫であることを知った。これらの知見を得るに当たっては、飯能市郷土館の村上さま、双柳(なみやなぎ)公民館の中島さまからの貴重な示唆を頂いたことを付記して感謝を表したい。
さて八高線は東飯能駅から続いた直線区間から急勾配とカーブで丘陵の間を登り詰めて鹿山峠を越えて、20‰の急勾配を駆け下りる。林地を抜け、左急カーブのすぐ右手に、平成8年(1996)の電化で建てられた変電所が見えるが、ここが昭和22年(1947)2月25日に起こった「下り旅客列車のブレーキ故障と、それに続くスピード超過による脱線転覆事故」の現場であって184名死亡という大事故であったという。やがて丸時計と証明灯を乗せた高い鉄塔のある高麗川駅構内に到着する。この頃の高麗川駅は貨物取り扱い量番付表の上位にいつも顔を出す有力駅であって、構内の東側にある機関車留置線にはいつも“クルクルパー”と呼ばれていた回転式火の粉止めを煙突の上に戴いたSLたちが数量は必ずたむろしていて、煙の絶えることはなかったことを思い出した。
 蛇足だが、明治末期に飯能の繁栄を支えた馬車鉄道について触れておきたい。明治になり飯能町となって市場町として発展していた飯能では東京への交通に不便さをかこっていたのだった。明治28年(1895)に川越−国分寺を結ぶ川越鉄道(西武新宿線/国分寺線)が開通して入間川町(狭山市)を通ることになった。ここへ飯能から出てきて、国分寺で中央線を乗り継いで東京へ行くことができるようになり、飛躍的に便利になった。そこで両町の実業家たちの努力により、6年後にはなったが、明治34年に入間馬車鉄道が入間川町−飯能町間を開通させたから、飯能の繁栄はよりいっそう確かになったと云う。
この軌道(線路)は主に県道などに併設され、入間川町―水富村―元加治村―精明村―飯能町を通り、全長6マイル24チェーン(約10.13km)で、線路幅(内法)は2フイート6インチ[762mm)の規格であった。入間川駅前をスタートし、自ら開削した勾配の緩い道路を下って、丸太を組んで架けた専用の入間川橋で渡った後は、川に沿って県道を飯能に向かって進んだ。その停車場は、入間川から順に、諏訪下、河原宿、広瀬、根岸、笹井、八木、野田、岩沢、双柳(なみやなぎ)、飯能であった。飯能の発着所は今の飯能銀座通りの東端であったそうで、その一つ手前の停留所の双柳(なみやなぎ)は、この写真のお地蔵さまの立たれている元清明村の一角であったから、八高線が築堤に掛かろうとする辺りを通過して飯能の町へ至っていたのであろうか。やがて大正4年(1915)に武蔵野鉄道(西武池袋線)が飯能まで開通するに至って、2年後には入間馬車鉄道は役目を終えた。この馬車鉄道の創始者である清水宗徳氏が入間川町(狭山市)出身であったことからであろうか、狭山市史には入間馬車鉄道に関わるの詳しい資料が記載されており、さらに狭山市立博物館には、入間馬車鉄道の車両(レプリカ)が馬と御者を含めて展示されていると云う力のいれかたであり、、その他に史跡ではないが、停車場のあった広瀬の丘の上には、清水宗徳氏の墓があり、その墓石の下には馬車鉄道の軌道(線路)が敷かれていて、氏の功績をたたえているのだった。これは私が狭山市民であることもあって、あえて付け加えさせてもらった。

撮影:昭和44年