自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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115.
春雪の上野駅成田行ホームにて
・
常磐線
/
上野駅
〈0001:C57 55 形式入りナンバープレート〉
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〈紀行文〉 今から約40年くらい前の頃は毎年のように年に数回は関東地方にも降雪があったような記がする。確か昭和43年の初春の或日、上野駅にC57を撮りに行った日もそのような日に当たっていたようだった。
東京都内から蒸機牽引の旅客列車が消える日が近いとささやかれるようになって来ていた時期だったので、上野駅や領国駅に足しげく通っていた。実際に、上野〜成田間は昭和44年3月15日に、両国〜勝浦間は同年8月20日に最後の日を迎えてしまっている。
上野駅には成田から朝の通勤列車が二本あって、その戻りの列車を狙って出撃したのだったが、幸運にも上野駅に着いた頃には結構な横殴りの雪降りとなっていた。そして高架線の常磐線成田行きのホームには出発を待つC5755の姿を撮ることができた。どうしたことか、反対のホームにもC5759が入っていて整備の真っ最中であった。おそらく臨時団体列車が予定されていたのであろうか。
C5755は云わずと知れた「フロントナンバープレートが形式付き」であることで知られた佐倉機関区の貴重なカマであったので、つい快哉(かいさい)を叫んでいたのだった。
上野駅を出発した成田行きの直通列車は日暮里駅から常磐線に入り、松戸までの間に隅田川、荒川、中川、江戸川の四本の大きな川を渡る。金町駅を通過した上野発成田行き普通列車は左に大きくカーブして、C57の長い汽笛の音とともに、江戸川鉄橋を渡って行く。やがて柏市を経て我孫子駅で常磐線に別れを告げて、成田線に入り利根川に沿って成田へ向かう。
昔から江戸っ子に親しまれていた「成田不動参り」には東京から佐倉街道(成田道)を経て、船橋宿で一泊し、約60kmを歩くのが常であったから、明治の事業家たちが競って成田山と東京を結ぶ鉄道を作ろうと活動を始めたのも当然であった。しかし当初、千葉県は鉄道と利根川水運とが共倒れになることを避けるため、それらの鐵道は不要との方針を取った。そのため、総武鉄道(本所(錦糸町)-市川-佐倉)が開通したのはようやく明治27(1894)年になってからであった。それに続いて地元では、成田鉄道を設立し、明治30年1月に佐倉〜成田間を開通させたのだった。これにより佐倉で総武鉄道と接続する形で本所(錦糸町)−成田を結ぶ路線が出来たのだった。
一方、我孫子に鉄道が到着したのは、明治29年に上野からの日本鉄道の土浦線が開業したときであった。その頃、我孫子〜成田間の鐵道敷設を最初に出願していたのは関東鉄道であった。それは成田を起点に我孫子−野田−岩槻−大宮を経て川越までのルートであった。
そこで成田鉄道は、この路線を譲り受けて、成田〜川越間を改めて才請願し、明治31年に免許を受けた。そして明治34(1901)年には成田〜我孫子を開業することに成功した。そして早くも翌年の3月には上野から我孫子を経て成田までの直通列車を一日六本運転することを始めたと云う。
これによっって、この二つの路線での乗客の争奪戦が始まったが、成田鉄道は佐倉での総武鉄道との接続を不便にして成田〜我孫子〜上野を有利に展開するという策に出たと云う。それでも成田〜本所間直通列車運転は明治37年3月2なってやっと開始されている。
これらの直通列車はいずれも片道二時間20分を要するダイヤであったが、成田−上野間の列車にはサロンカーを連結してサービスに努めると云う激しい競争となったが、これも国有化によって終息することになる。
これらの路線では、正月で年間の運賃収入の半分を稼いでいたと云うほどの大盛況であったと云う。
この成田不動と云うのは、「成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)」のことで、真言宗智山派の大本山の寺院である。本尊は不動明王で、関東地方では有数の参詣人を集める著名な寺院として知られている。この寺の起源は、平安時代中期に起きた平将門(たいらのまさがど)の乱の際に、朱雀天皇が乱の平定のため、天慶2年(939年)、寛朝大僧正を東国へ遣わしたことにあると云う由緒の深さである。
そして、成田不動尊が信仰を集めるようになったのは、江戸時代の歌舞伎工業からであったようだ。それは初代市川團十郎の父・堀越重蔵は成田山新勝寺にほど近い地の出身で、新勝寺とは少なからず縁があった。子に恵まれなかった初代團十郎が、この父由縁の成田山に子宝祈願をしたところ、見事翌元禄元年 (1688) に二代目團十郎を授かった。この子は健常ですくすくと成長したので、初代團十郎はこれに報謝して元禄八年 (1695) と同十年に山村座で『成田不動明王山』を上演。舞台には銭10貫もの賽銭が投げこまれ、大向うからは「成田屋っ!」という掛け声が掛かったとある。それから江戸っ子の成田参りが始まったと云うのである。
撮影:昭和43年(1968)
アップロード:2009−10−7