自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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SL写真展 ( INJEX )
にある送付先へドウゾ。)
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109.
「ループ橋への誘い」・
georgetown Loop RR.・(コロラド州)
〈0001:2005年9月、地元の中学校生徒の遠足の写真展から〉
〈0004:古道具屋で買った写真、開業間もなくのループ橋を渡る旅客列車〉
〈0003:コロラド州の鉄道地図より〉
凡例:地図中の略号
AC:Argentine central railway
CC:Colorado central railroad
赤線:Georgetown Loop Railroadの部分
破線:延長線の予定部分
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〈紀行文〉
1981年の初夏、メモリアルディーの連休に西部コロラド州のロッキー山中に復活したばかりの二つのナローゲージ保存鉄道をたずねた。いずれも一九世紀に栄えた銀鉱山を目指して建設された鉄道で、その第一は、かの有名な「シルバートン・トレイン」であり、その第二が、ここに述べる「ジヨージタウン・ループ鉄道(Georgetown Loop Railroad)」である。 前日に「シルバートン・トレィン」の処女列車を追い掛けたのち、途中で一泊はしたものの、八時間余りのドライブの末に早朝のデンバーにやって来た。朝飯もそこそこに、ダウンタウンのユニオン・ステーションを一瞥してからインター・ステート・ハイウェー I70号を西進して、50マイルほど先にあるジョージタウン(Georgetown)を目指した。デンバーから20マイルほどの所には、ロッキー山脈からの湧き水を用いたコロラド ビール 「クアーズ(Coors)」の古里でもあり、正にコロラドのゴールドラッシュの発祥の地を象徴するようなゴールデン(Golden)があり、ここにはコロラド鉄道博物館があるのだが、何れ冬にでもなったら訪れようかと思って素通りした。
このルートはデンバーの製法にそびえる標高14000フィートを越えるロッキー山脈のフロントレンジ(前面山脈を越える標高11,990ft、3,655mのらぶらんど峠(loveland Pass)を源にするクリヤー クリーク(Clear Creek)の渓谷にに沿って登って行くが、この渓流は下ってデンバーの大都市圏をかすめてミシシッピー河の支流であるサウス・プラット河に注いでいるのであった。狭い谷間を縫うように走るI70の出口を降りて古めかしいたたずまいを残すジョージタウンの街に入った。
一番列車の発車は正午頃だと云うので、街中を散歩しながら古道具屋の片隅においてある鉄道関係の書籍、写真、カレンダー、復刻時刻表やガラクタを並べた棚を物色して、このジョージタウン・ループ・ライン(Georgetown Loop Line)が開通した頃の撮影だと称している「ループ橋を渡る旅客列車の」古びたモノクローむのプリントを記念に1枚買って店を出た。
所で、1939年に撤去されてしまったコロラド・アンド・サザン(Colorado & Southern)鉄道のジョージタウン・ループ・ラインの復活は地元のジョージタウンでの銀発見百周年を記念して「ジョージタウン ループ 鉱山&鉄道歴史公園(Georgetown Loop Historic Mining & Railroad Park)」の設立の一環として1959年に始まった。そして1975年には完成した一部文の路線を使ったジョージタウン・ループ鉄道が開業し、ツーリスト列車の運転を始めた。やがて1977年には終点のSilver Plumeまで開通した。私が訪れた1981年は丁度そのような時であった。私はすっかり全線が開通しているものと早合点して、このループ線を選んで来たのであったのだったが。
従って、肝心のループ線の途中に架けられている筈の「Devil’s Gate highbridge」の復元計画は募金の真っ最中であった。そして全線3.2マイルの開通は1984年の8月のことであったから、私はループ線のない暫定的な路線を乗車する羽目にになったのであった。その出発点はミョージタウンの街から1マイルほど車で登った所に駐車場があり、その先の急崖を急ごしらえの枕木で作った長い階段を登り切ったところに線路があり、ここは丁度ループ線が登り切ったちてんであって、ここに仮の出発点upper Devil’s Gate 駅があった。
今日の牽引はシェイ型ギヤード機関車の“Big Boy”と呼ばれる3トラックの70とんなーであった。当時はこの他にもう一輌のシェイ♯14、それに2−8−0の♯40のコンソリが在籍していたようだった。
乗り込んだ列車は、その昔銀鉱石を運んでいた1904年製の無蓋車に長椅子を取り付けたオープンデッキ4輌で、私は最期の車輌乗って撮影をもくろんでいた。
だから当然のことながら、私が撮ったループ線上の「Devil’s Gate
highbridge」の写真はないのである。そこで今回は、WEBの中から地元の中学校の生徒達が2005年に遠足の日に思い思いに撮った写真をまとめて70点の写真ギャラリーが発表されていたのを発見したので、そこから作品を借用させてもらったのが、この一枚である。ここにはループ線のの途中に架けられた高い鉄橋を背景に、その下の線路を出発駅に戻って来た列車を撮っている作品である。これに添えられたキャプションには、『このナローSL ♯12の素性はペンシルバニア州のフィラデルフィアのBaldwin機関車製作所で1929年に製造され、1966年までハワイ島のKahului 鉄道で砂糖きび運搬に活躍していたカマである。そのごアメリカ大陸にもどり各地の保存鉄道ですごしていたが、1977年のジョージタウン・ループ鉄道のオープンには、オイル焚きとして再スタートを切った。』とあった。
そこでむかしの姿と比較してもらうために、私が古道具屋で手に入れた
ループ線が開通した頃の写真も併せて載せてみた。この二枚の写真からループ線が敷かれた狭い渓谷の地形をご推察頂ければと思っている。
さて、次いで、このクリヤー クリークの渓谷でで繰り広げられた金銀発見から鉄道の発展の経過をコロラド歴史学会(Colorado Historical Society)のまとめた“History and Timeline of the Georgetown Loop Railroad”の年表を参考にして受け売りを試みたい。その際のご参考に1800年代末のコロラド州鉄道路線図からクリヤー クリーク近辺を抜粋してかがげた。
デンバー付近で起こった代ゴールドラッシュに続いて、1959年に入るとクリヤー クリークの入り口に当たるセントラル してい(Central City)から、ブラック ホーク(Black Hawk)、そしてアイダホ スプリング(Idaho Spring)へと続々と金が発見されて、コノ噂が急速に上流の移住者が群がっていたジョージタウンにも伝わった。そこで金銀探しが始まったが、1864年秋になってコロラド初の銀が町の約8マイル(約13`)圏内の山中で、例えばsilver plume付近などで発見され銀ブームの始まりとなった。続いてカリフォルニアやネバタからの熟練した鉱山師の活躍によって豊富な銀鉱脈を埋蔵したArgentine鉱区の基礎となる銀が高い山中で続々と発見された。
このようなことから、1868年には標高8,530フィート(約2,560b)の山中の街であるジョージタウンの人口は1,500人を越えるようになり、クリヤー郡の郡都となった。街には多くのビジネスがあり様々な種類の小売店、2つの銀行、学校、5つの教会、2つの週報新聞社、8つの鉱石粉砕場、原石検査所、鉱山師と配達業者、そして多くのホテル宿泊施設があり、アメリカのシルバーラッシュ時代には最も裕福な街と云われるようになった。
銀に加えて四季を通じてのリゾート地としての人気を呼ぶようになって来ていた。冬には渓谷の頭部に位置していることもあり、三方の山岳部に容易にアクセスすることができる地の利がよろこばれたし、また常に周りを大きな山で囲まれているために強風や嵐から守られ、また空気が澄んでおり、気候も比較的温和だったからである。特に夏季は涼しく過ごし易かったからであろう。そんなことから1871年になると、町の人々は銀鉱石の輸送ととツーリストの旅の便のためにデンバーからの鉄道の開通を、既にデンバーからゴールデンまで開通していたコロラド・セントラル鉄道(Colorado Central:CC)に誓願を行った。
やがて、この金銀鉱山の栄えているClear Creek(クリヤー クリーク)の渓流を遡ってCC 鉄道の軌間3フィート(914mm)のナローゲージ路線がデンバー側から順次延伸された。先ず1872年末にはBlack Hawkに到達した。更なる延長への資金は地元が債券をふたんしたり、ユニオン・パシフィック鉄道(UP)を経営していたJay Gould氏が資金を調達に協力してくれたこともあって、1877年にはアイダホ スプリング、更に1877年8月にはジョージタウンまで全通したのである。これによって中西部からの多くのツーリストをデンバーを経由してロッキー山脈の奥深くまで誘ってきたことから大変な賑わいの街が出現したようだった。そして1879年にはジョージタウンは“Silver Queen of Colorado”(コロラドの銀の女王)となったのだったが、その栄光はそんなには長続きはしなかった。それは、1874年にこの谷の西へ大陸水分例を越えたセントラル・コロラド高原の中央で銀が発見され、次第にその数が増えて行き、遂に1879年には大発展するに至ったからである。このニュースはジョージタウンの人々を驚かした。やがて1880年ともなると、この銀鉱山地帯の中心となったLeadville(レッドビル)の街は“世界最大の銀の都”となっていたからである。
そこでCC鉄道に資金を出していたユニオン・パシフィックUP)鉄道の経営陣は、セントラル・コロラド高原の標高9,927 feet (3026 m)の高所にあるレッドビルの街へ最初に鉄道を到達させるべきはCC鉄道の役割であると決定した。そのためには、ジョージタウンの街を西へ進み、益峡まくなった渓谷を遡って、その先の大陸分水嶺であるラブランド峠をトンネルで越えなければならなかった。このルートは参考に掲げた鉄道路線図に、赤線で示されているジョージタウン・ループ・ラインの延長上に点線で示しておいたのでご覧下さい。
そして、1881年にはUPの子会社として、Georgetown, Breckenridge & Leadville Railroad(GB&L)が設立され、差しあたりジョージタウンから Silver PPlumeまでの区間の工事に着工した。ジョージタウンの街から西への狭い谷間に沿って遡る箇所は平均勾配は6%を越えると云う列車運行には最悪の条件となってしまった。そほでUPの技師長のJ. Blickenderferは勾配を軽減する工夫を凝らして、ループ橋のDevil's Gate High Bridgeを含む4カ所の橋梁、3カ所のヘアーピンカーブ、それに30 degreeのホースシュー・カーブ(horseshoe Curve:馬蹄形カーブ)を設ける路線を考案した。これによって全長4.5マイルノ中の初めの2まいる弱の距離の間に640フィートの標高差の大半を登ることができて、6%を越える勾配を3%に軽減することが出来たと云うのである。これは今でも偉大なるエンジニアリングの功績の宝であると賞賛されている。
この建設工事の中で最大のハイライトは「Devil's Gate High Bridge」の架橋であって、技術的にも難題の多かった工事を乗り越えて、1884年初に完成した。この架橋地点はジョージタウンの上流の谷が最も狭くなっている所であり、そこはループの中にあっており、高さは下の線路から75 フィート、クリヤー クリークの水面から95フィート上にあった。この橋は300フィートの長さで、18どdegreeのカーブ、2%勾配、そして4つの石造り橋脚の上にに鐵製の塔が据えられて、その上に架けられていたと云う。
そしてループ線の形はは普通、尾根の出っ張りなどにトンネルを介在させて設けることが多いが、ここではトンネルのないオープンループで谷と線路を渡る高架橋がもうけられているのが特徴で、谷の対岸の中腹を走るI70の路肩の展望所からはループを走る列車がまるで模型のように俯瞰出来るのは楽しい。そして1884年には処女列車がSilver Plumeに到着したのだった。しかし、その時には既に競争相手であったデンバー・アンド・リオ ぐらんで(Denver & Rio Grande:D&RG)鉄道はサンタフェ鉄道との泥沼のルート争いにくせんしていたが、最終的にサンタフェの敷いた路線の買収とArkansas 河のロイヤル峡谷を抜けるルートの確保の裁定を1879年4月に得ることに成功し、南かられっどビルへのレールの延長は予想以上に早く完成してしまっていた。
それによりユニオン・パシフィック鉄道のの抱いた野望は夢と消えた。
これにより延長工事は中止となり、Silver Plumeが永久的な終点となってしまった。それ故に元々の銀レバノン銀鉱山の家族の町の駅としての利用が主な役割となってしまい、広大なヤードはユニオン・パシフィック鉄道のデンバー工場の車輌留置場と化した。
その後に起こったコロラド経済の不調から州内で破産に瀕していた中小鉄道群を集めてColorado & Southern railroad(C&S)が1898年に作られて、われらのCC(dDenver〜Georgetown)、GB&L(GEORGETOWN〜Silver Plume)もこの傘下に入ることになった。そして、C&S鉄道ではクリヤー クリーク線の終点のSilver Plumeにツーリスト・センターを開設して、ジョージタウン・ループ・ラインへのツーリストの勧誘を積極的に行った。
それは、1880年代末から1900年代の初めには、ジョージタウンの街もジョージタウン・ループ・ラインも盛況になりつつあったツーリズムの中心的存在となって、賑わいを取り戻しつつあったからである。
その頃のガイドブック、パンフレットやホストカードが人々に与える西への旅客列車の旅のイメージは自然とロマンチックに満ちていて、急峻な渓谷を分け入り、美しいロッキーの山々の眺望をほしいままにできる山頂へのアクセスであったからで、大人気を呼んでいたのである。その最盛期には一日に7本の列車が50マイルの距離をデンバーから到着した。
1906年頃になると終点のSilver Plume駅を起点とする、3000フィートも登る山岳鉄道アルゼンチンセントラル鉄道(Argentine Central Railway)が開通し、1年後には近くの眺望の良い山頂へへのロープウェイが開通して旅行熱は最高となった。
しかし、1900年代が進むと、コロラドの山岳地帯への道路の開通と劇的な自動車の普及によって、列車による旅行は衰退し始めた。それに加えて1907年の銀相場の大暴落と云う大打撃が襲って来て、鉄道による銀鉱石の輸送も先細りとなって行った。そして1921年頃にはデンバーからの列車は一日一本となってしまい、それも1938年に廃止となり、この色彩豊かなループ線も消えてしまった。そして1939年にはDevil’s Gate high
bridgeも撤去されスクラップとなったと云うのである。
次にループ ラインの復活への歩みに触れよう。1959年にはジョージタウンの銀発見100年記念として“Georgetown Loop Historic Mining & Railroad Park”(ジョージタウン ループ鉱山&鉄道歴史公園)の設立案がコロラド歴史学会( Colorado Historical
Society)の提唱で推進が始まった。先ず土地の取得と全戦の復活を含めたGeorgetown Loop line のリースを進めた。そしてLebanon-Everett 鉱山、精錬所などをを含む100エーカーの鉱区が献納された。1969年になると鉱山のトンネルが開かれ証明が点灯したり、四つの鉱山建物、1884年の駅舎が復元され1860年代の鉱山風景となった。今では978エーカーの敷地を持つ公園となった。
1973年になると、ここを建設したパトロンでもあったユニオン・パシフィック鉄道(UP)からのレールと枕木の献納を受けて、レール敷設や鉄橋の工事がはじまった。そして機関車は3トラックの大型シェイが、客車には、その昔銀行席を運んでいた無蓋車に長いすを据え付けたオープンデッキが準備された。
1975年からはGeorgetown Loop Railroadとして完成した一部分の路線を使ったツーリスト列車が運転を始めた。出発点はループ線の終わった地点に設けられたupper end of Devil’s Gate仮駅であった。続いて1977年には終点の
Silver Plumeへと全通した。そして1982年になって、Devil’s Gate high bridgeを含めたループ部分の再建資金百万ドルがBoettcher 財団から承認されて、新橋梁は現在の安全基準と、機関車の重量化に対応し、橋脚もコンクリート製として設計、架橋された。1984年8月に全通開業となった。その後、人気も上昇し盛況な運行が続いたが、2004ねんに思わぬトラブルに遭遇したことから、この鉄道の運行は、10月限りで閉鎖の憂き目となってしまい、あの独特な素晴らしいシェイのサウンドは消えてしまった。そのシェイたちはコロラド鉄道博物館に保存されていると言う。
そして2005年に新しい運行組織が作られ、使用する機関車はシェェイ型から通常のタイプの機関車の使用となり、♯40、新しく購入した♯12などを揃えて運行が再開されて今日に至っている。
参考サイト:
1.Silver Plume の中学校生徒の遠足写真展サイト
Dr. Wes Leggett Photo Gallery
September 2005 Georgetown Loop Railroad
http://staffweb.psdschools.org/wleggett/pgsep2005gloop.htm
地元のSilver Plume 中学校生徒の遠足の時に撮った写真の作品展、約70点が展示されており、適切な開設が付いている。私の借用した写真は29番のものである。
撮影:私の撮影したものはありません。