自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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108. 「“星への階段”へ接続していたSilver Plume駅」
georgetown Loop RR. ARGENTINE CENTRAL RWY. ・(コロラド州)

〈0001:〉
シェイ♯8 Georgetown loop RR AT SILVER PLUME.

005: 長年silver Plume 駅 展示してあったシェイ♯8
♯8 Georgetown Loop RR.は大型しぇい型歯車駆動の森林鉄道用SLである

〈0003: コロラド鉄道地図:Argetine Central RWY
Argetine Central鉄道のスイッチバックを繰り返す星への階段模

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〈紀行文〉
 崖の上の仮の発車点である「Devil’s Gate (悪魔の門)」駅を発車した列車はゆっくりと灌木の茂る山腹を登り始め、そして幾つかのたヘアーピン カーブやコースシュー カーブ(馬蹄形カーブ)を通過してグイグイと高度を稼いでから、
クリヤー・クリークの流れと交差しながら終点のsilver Plume へ向かう。途中の水辺にアスペン(ぽぷら)樹の茂った辺りの谷が僅かに開けた所に1884年の開業時に建設されたレバノン マイン(Lebanon mine)駅舎があり、この付近の一帯は1864年のジョージタウンの銀ブームの始まりとなったレバノン銀鉱山を1860年代の姿で保存展示する歴史公園域となっている。ここには長年掘り進めた坑道の一部がが公開されており、見学ツアーも催されている。その他にも、1871年の精錬所の復元建物を初めとする多くの宝山使節が復元されている。
また、この鉄道のlocomotive maintenance buildingもここに置かれている。
ここから僅か登るとLEBANON 銀鉱山の住宅街として1870年に創設されたsilver Plumeに到着した。本来なら、この路線は更に谷を登って水分例をトンネルを掘り進んでコロラド高原の先の銀の都 leadvilleマまで延長される筈であったから、駅の構内は広く3本物側線が長々と敷かれていた。
私の訪ねた時には30分ほど休憩した後列車は戻るのだが、この後2本の列車が運行されるスケジュールであった。私は駅の売店で20世紀初頭に、ここから3000フィートの高さをよじ登っていた登山鉄道 アルゼンチン・セントラル鉄道(Argentine Central Railway:AC)の路線を描いた地形図を買ったそして私はI70ハイウェーに戻って坂の途中にある路肩に設けられた展望台から次の列車の谷を登る風景を俯瞰しようと考えて直ぐ戻りの列車に乗り込んだ。私の訪れた頃は未だ広々としたヤードには全く保存のための手が回らない状態で、余り立ち入ることができなかったからであった。しかし、1985年には歴史的なSilver Plume駅舎が昔の外観で復元されたようだし、国の産業遺産としての登録もなされたようである。
又私が訪ねた時は稼働していたシェェイ♯8の他にシェイ♯14とコンソリの♯40が在籍していたようだったが、1986年5月にはシェイ♯12が増備された。そのかんけいなのだろうか、シェイ♯8はボランテアーの手でペインティングや盛装が施されて、Silver Plume駅のヤードに長年転じされていた後、2004年からは街中の元ョージタンン駅に公開展示されている。
そこで参考にSilver Plume駅のヤードで展示中の写真と仕様諸元を記載しておこう。

・Georgetown Loop RR ♯8
製造者・製造年:Lima Locomotive Works、1922年
製造番号:Shop Number 3176
発注者:West Side Lumber Co.(カリフォルニア州)
クラス: C、70-3(70トンクラスのbig boyグルーブ)
トラック数:3 
シリンダー:[#-Diam x Stroke]3 - 12 x 15
う歯車比(Gear Ratio):2.25 
車輪直径:34" 
軌間:36"
ボイラー:[Style - Diam.]:E.W.T. - 50" 燃料タイプ:Oil 
燃料タンク容量: 1200 Gals. 
水容量:3000 Gallons 
空車重量: 130,000 建造時
このジョージタウンへの旅はループ橋が未開通であったことへの失望から、満たされぬ意欲を抱えながらデンバーから帰途についた。
 帰国してから、しばらく経った頃に、「レイル」誌へへ投稿を続けていた「アメリカ保存鉄道訪問記」の原稿作成の資料をあさっている時に、このAC鉄道が「星への階段」と云うキャッチフレーズでコロラドのツーリズムの一角を占めていたことを知った。しかし資料が集まらず、それに加えて私の撮った又ループ橋の写真もなかったことから遂にボツとなって忘れられていた。しかし、このシリーズのHPの制作に当たってweb検索で多くの知見を得ることができたのでここに紹介を試みた。
残念ながら買った地図は私の失明と同時に鉄道関係図書類の譲渡に際して一括処分してしまい手元にないので、コロラド州政府観光局から頂いた1900年初頭のコロラド州鉄道地図を拡大掲載して参考にきょうしていることをお詫びしておきます。
このジョージタウンでの銀採掘の主力はargetine mine District(
アルゼンチン鉱区)と呼ばれた地域に散在する豊かな銀鉱山群であって、その中心はBelmont MineのあるWaldorf(ウォルドーフ)とと呼ばれ、コロラド ロッキー山中の標高 4205 m./13,207 ft.の高所にあり、1868年に開設された銀鉱山町であった。ここは地図からはSilver Plumeのいくらか南に位置するように見えるが実は前山によってさえぎられており、Georgetownの西南隣の支谷沿いを9マイルほど登った所当たりになる。ここに集められ精錬された多量の銀鉱石はArgentine 峠(4205 m/13,207 ft.)をを通過する駅馬車道を経由してジョージタウンへ運ぶと云う難事であった。
このArgentine地区の61に及ぶ鉱区権のオーナーであるEdward J. Wilcoxが1902年に これらを合併してWaldorf Mining and Milling 会社を経営していた。彼は鉱石の運送の経済効果に加えて、盛況になっているツーリズムに誘われてジョージタウンを訪れたツーリストをロッキー山脈の前山中、最高峰 標高14,270 ft (4,350m)のグレイズ ピーク(Grays Peak)の頂上へのアクセスの便を提供させる目的でコロラド・アンド・サザン(Colorado & Southern)鉄道のSilver Plume
からのアルゼンチン・セントラル鉄道:Argentine Central Railway(AC)の実現を策した。その建設は1905年8月に開始され、1906年の末には開業した。ここでは軌間3フィート(914 mm)のナローゲージが採用され、Silver Plumeからウォルドーフ(Waldorf:1912年以来ゴーストタウンとなった)へ至り、更に目標のグレイズ ピーク(Grays Peak)の近くのMount McClellanの山頂直下まで到達した。それは標高差 3,941フィートを約16マイル弱の距離で登る路線であった。そのためには標準的に60パーミルの急勾配と、最小カーブは32°であって、この急勾配と急カーブに加えて6カ所のスウィチバックが必要としていた。そして7輌の2トラック型のシェイ式ギャード蒸気機関車が重用されたと云う。
特にウォルドーフで進行方向を変えて、Mount McClellanに向かう5 マイルの勾配路線には4カ所にスウィッチバックが設けられていると云うスリリングなルートであったという。この勾配は歯車式鉄道を除くと、粘着式鉄道としてのアメリカ最大の急勾配であった。
今も残っていると云う開業当時のオリジナルのカタログの表紙の文句には、
"THE STAIRWAY TO THE STARS,(「星への階段)
" The Argentine Central Railway -- The Gray's Peak Route”
(アルゼンチン・セントラル鉄道−−グレイズ ピーク るーと)
と書かれており、続いて、
列車で到達できる北米最高地点への旅は"Gray’s Peak Special"のルートで、氷の結晶の成長の姿や14,000フィートのロッキー山脈からの眺望が楽しめると誘っている。
 そこでカタログノ先頭にある(星への階段」と云う素晴らしいネーミングの出所は、低い谷底から山腹を眺めると山をジグザグに登って行く線路が7段にも見えることから名付けられたと云うのだが。先ず第1段目はジョージタウン・ループ・ラインの軌跡であり、
それよりうえはACの線路となるのだが、Silver Plumeを出発してから、やがて反転して南斜面を登り始める線路が第2段目となる。続いてヘアーピンカーブデ反転して2カ所のスウィッチバックになるわけで、合計7段が数えらレると云うのである。この先はぐいぐいと急坂を尾根まで登り、更に谷の奥まで上り詰めてウォルドーフに到達する。
この鉄道の人気は素晴らしく、最盛期には日に12本の列車が運行されたと云う。それに気を良くしたACでは目標のGrays Peakを目指すとともに、さらに先のスキーリゾートのKeystoneまで延長してナローゲージの Denver、south park & pacific railroaduへ接続する計画を企て、トンネルの掘削工事を進め、1914年には3/4まで掘り進んでいたのだった。
 所が、1907年に起こった銀相場の暴落から続く経済不況は鉱山と鉄道の運営に大打撃を与えたのであった。
1908年にコロラドのD.W.Brownが買収し、運転をつづけながら、ツーリスト輸送を拡大することを計画し、gray Peakへの開通を狙って工事を進めたが、資金不足で1911年には破産が宣告され、列車の運行は1912年まで止まってしまった。
そこで1912年になると地元事業家集団を代表する William Rogersが
買収して、「Argentine & Gray's Peak Railway」として際発足した。1913年の夏のシーズンの旅客事業は充分の利益をもたらしたのだったが、次第に凋落の傾向が現れ、1916年のシーズンからは蒸気機関車をガソリン内燃動車に置き換えて経営努力を図ったが、1918年に廃業の事態を迎え、1920年には全てがスクラップと消えた。
現在は「星柄の階段」のニックネームで呼ばれた鉄道路盤痕を活用して完成したオフロード四輪駆動車用の「Argentine Railroad Grade Trail」が整備されて昔と同じ自然と風景が、それに歴史的な建物などの遺構をのこすゴーストタウンへの訪問が楽しめるようになっているとのことだ。最近知ったのだが、2も005年には「星への階段」こと、アルゼンチン・セントラル鉄道の誕生100年祭がSilver Plume駅のヤードの一角で催されたとのことである

撮影:1981年
発表:初公開


参考さいとのリンク集
1. 地図と鉄道のブログ: 2007年2月  
「星への階段」、アルゼンチン セントラルレイルウェイ
http://homipage.cocolog-nifty.com/map/2007/02/index.html
2. Argentine Central Railway - Wikipedia, the free encyclopedia
 http://en.wikipedia.org/wiki/Argentine_Central_Railway
ここには当時の山頂へ登る列車の風景が写真として掲げられている。