自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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106. 新しい登別漁港を前景に ・室蘭本線/登別-虎杖浜


〈0001:30-110:掘り込み式で開港した登別漁港〉
30-110:フンベ山からの登別漁港の俯瞰・室蘭本線(登別-
〈撮影メモ〉昭和48年5月頃撮影。
 太平洋に面したフンベ山からの登別漁港の俯瞰風景。港の向こうを登別駅を発車した c57牽引の下り普通列車が伏古別トンネルを目指してダッシュして行く。ここは新たに掘り込み式で築造された最新鋭の漁港であって、水揚げされた海の幸は近くの登別温泉の宿泊客の夕食に供されることだろう。

〈0002:35-72:内浦湾岸での昔ながらの漁村風景〉
35-72:ある漁村風景・室蘭本線

〈0003〉
登別漁港俯瞰(モノクローム)
【35】F-2-1:6X7.


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〈紀行文〉
 確か「蒸気機関車」誌上で見たのであったが、朝焼けに輝く室蘭湾の海を背景に白煙をたなびかせて室蘭駅を発車して行く一番列車を測量山の上から俯瞰(ふかん)した作品に魅せられて、私も試みたくなって昭和49年のゴールデンウイークにクルマで出かけた。そして、夜明け前に室蘭市街に接した測量山に登っては見たのだったが、アングル探しに失敗してしまった。そでにこりて、近くの東室蘭駅前にクルマを捨てて、白老駅までの約40kmを往復して車窓の風景を確かめたことが幸いをもたらした。それは持って来ていた古かった五万分の一地形図には記されていなかった新しく開港した登別漁港の朝の躍動する光景を登別駅の東側で発見したことであった。
 室蘭から苫小牧に至る太平洋の噴火湾(内浦湾)岸は西南から東北に向かって一直線を描いていて、海沿いを国道36号線と室蘭本線が走っており、狭い海岸部からは直ぐに濃い森林の台地から山地へと続いていた。そこには南から鷲別岳(標高 911m)、カムイヌプリ(750m)、オロフレ岳(1231m)、来馬岳(1,040m)などの山々が続き、それらから出た尾根が海に迫っていて、鷲別(しゅくべつ)岬、蘭法華(らんほっけ)岬、ポンアヨロ岬などが荒々しい岩の崖を海に突き出していて、その間には砂浜が続いていた。特に蘭法華岬とポンアヨロ岬の二つの尾根は登別温泉の「生みの親」であるクッタラ火山の大噴火により、河口の南西部から流れ出した溶岩が太平洋岸に注いで作り上げた地形であることが衛星写真からも観察されている。この山々の南東側(登別側)の斜面は、北海道最大の雨量を記録する斜面として知られており、胆振幌別川、登別川、ポンアヨロ川、白老川など多くの河川の急流が室蘭本線や国道の下をくぐって太平洋へ注いでいた。
 そして、東室蘭駅を出ると直ぐに広大な貨物ヤードが広がってきて、入れ替えに励む9600の姿が認められた。下り線の北はずれに室蘭本線のD51が多くたむろす鷲蔑機関区の脇を通り過ぎた。やがて、胆振幌別川の鉄橋の上からはカムイヌプリの山々の姿が展開しているうちに、登別市の中心の幌別駅に付いた。そして室蘭街道を挟み内浦湾を眺めていると、海辺に長く続く防潮林の緑が目に飛び込んできた。そして富浦駅を通過した。その先で、長尾根が海に突き出していて蘭法華岬となっている。富浦漁港は蘭法華岬の付け根にあった。富浦(昔は蘭法華)の集落から登る急斜面の道は険しかったので、室蘭街道の難所として知られており、アイヌ語の「ランポッケ」(坂・の下・の処)と呼ばれており、日本語で言えばさしずめ“坂本”とでも云う所であろうか。それに漢字を当てて“蘭法華”と呼ぶ地名になっていたのだったが、近年になって町集落は富浦と名を変えている。この辺りでは国道よりも線路の方が海側を走っており、室蘭本線は蘭法華岬への尾根の下を蘭法華トンネルで抜けると、砂浜に沿って走る。そして登別の名の起源となったアイヌ語の「ヌプル・ペッ(色の濃い・川)」である登別川を渡ると登り別駅となった。
駅の東に登別漁港があり、南東方向に海岸があるはずだが、「フンベ山」という小さな山があって海への視界を遮っていた。この“フンべ”とはアイヌ語の「クジラ」の意味で、この山の形が「くじら(鯨)」に似ていることから付いたようだった。また登別駅のホームから東に500mほど先に、単線のトンネル坑口が二つ見える。これは「伏古別トンネル(延長約609.6m)」で明治25年(1892年)竣工の開業当初のトンネルはもとより、大正15年に完成した下り線のもうひとつのトンネルも五層に巻いた総レンガ造りである。この丘陵はポンアヨロ川河口北岸に続いておりポンアヨロ岬となって断崖をなして海に消えていた。そのトンネルを抜けると虎杖浜(こじょうはま)駅、次いで竹浦駅と進んで行く。その行く手の右側に、のっぺりとしたへんてつもない山が見えてきた。その山上には直径約3kmの真ん丸な海抜258m、最大水深が148mに達すると云うカルデラ湖を抱え込んでいるなどとは想いもよらないのであって、それは倶多楽湖の外輪山の山々のようであった。その湖岸へは登別温泉から東方へ僅か約2kmほどの距離しかない近さであるらしい。地形図には
窟太郎山(標高 534.3m)などとの文字が記されており、この「クッタラ」はアイヌ語で「いたどり」のある所との意味から来ていて、「いたどり」は漢字で“虎杖”と書くことから、近くの駅は虎杖浜駅となったとのことである。
本州でも、この「いたどり」は線路の築堤に良くはえていて、茎は竹のような形状をしていて、「スカンポ」と呼んで採取して遊んだきおくがある。この植物の北限がこの辺りであるとのことだった。
この山々は約五万年前に大噴火したクッタラ火山が大陥没してできた外輪山ということなのである。
やがて次の北吉原駅となり、大昭和製紙の煙突からは、沸き立つように白い煙が噴き上がっていた。短く停車して発車し、白老に着いて、再び室蘭方向へそ引き返した。
 そして、再びクルマを駆って国道36号線を北上し、登別駅前の先で右折して道道701号登別港線に入って登別漁港の岸壁に出た。早速、海側のフンベ山に登って俯瞰撮影を試みた。大漁旗を掲げた漁船の出入りのエンジン音などが賑やかであった。遠くの方に登別温泉のホテル群が霞んで見えた。
 この港は登別市と白老町の境にあって、漁港に流入している小さなフシコベツ川がその境となっている。そして太平洋への出入りは海に突きだした東西二つの防波堤に守られた水路が通じていた。そのむかし、北東の苫小牧から西南の室蘭にかけ、沿岸に漁港がなかったので、虎杖浜地区の漁民にとって、漁船を陸に引き揚げると云う危険な作業をしいられていたので、白老町・登別市の境界である「フシコベツ川」河口に漁港を建設しようとする運動が始まったのが昭和2年(1927)であったが、戦争などのため運動ははかどらず、着巧したのは昭和25年(1950)で、工期7年を目指していた。しかし掘り込んだ沼に玉石が多かったり、波により砂浜に設置した防波堤などの基礎が破損したりする難工事が続いた。漁船の出入りが可能になったのは昭和44年(1969)のことであり、その後も整備が続けられていた。ここは有名な観光地の登別温泉街を背後に持ち、それに道央圏へのアクセスが容易であることから、地元漁船の他、道内外からの漁船の陸揚げ基地として、また遊漁船などのの利用で活況を呈している。
小型の漁船による沿岸漁業が主で、「スケトウダラ」を中心に、「サケ」、「ホッキ貝」、「いか」、「毛がに」、「ぼたんえび」、「甘エビ」など多彩な海の幸が年間1万5千トン以上の水揚げを誇っている。また、カレイ、サクラマスなどの釣魚も豊富であること、それに最高級ブランドの虎杖浜産「たらこ」は登別漁港から出荷されていることも業界で知らぬ人はいないだろう。
 さて室蘭本線のことだが、そのその起源は明治時代、「北海道炭礦鉄道会社(北炭)」という会社によって新設された「室蘭線」に由来する。北炭は当初より炭鉱開発と石炭輸送を担って設立されたもので、明治23年(1890)には、当時話題の夕張に炭鉱を開設し、この年に道央で採れる豊富な石炭を良港である室蘭港まで輸送する目的を目指して、小樽港に通じていた手宮-札幌-岩見沢幌内の幌内鉄道の中間地点の岩見沢から室蘭までの鉄道建設に着工し、僅か2年後の明治25年(1892)に岩見沢〜室蘭の室蘭線と室蘭港仮桟橋を開通させている。その先の函館・青森への定期客貨航路も翌年には開かれている。時代が下って、石炭輸送が終わって、北海道の二大工業都市である室蘭と苫小牧を結ぶ路線として、さらに、他の路線と連携して札幌〜苫小牧〜室蘭〜函館を結ぶ路線としても重要視され、苫小牧〜室蘭間は昭和55年10月に電化を完了した。
 ところで、蘭法華(らんぽっけ)岬付近は室蘭本線の建設時に最大の難所となった場所のひとつだった。全長は短かったが、約5万年前のクッタラ火山の大噴火による火山灰土層があって、湧水がひどく工事は困難を極めた。
1980年10月の電化を前に新しい複線の蘭法華トンネル(322m)が完成し、古い上下二つの総レンガ造りのトンネルは現存しており、貴重な鉄道遺産である。それに前に述べた伏古別トンネルも同様な状態にあることも申し添えておきたい。

撮影:昭和49年(1974)5月