自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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104. 「ユニオン・パシフィック鉄道 “ビッグ ボーイ”」

〈0001:〉
UP♯400

〈0002:〉
UP♯401

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〈紀行文〉
 アメリカに滞在して2度目の冬を迎えた1979年も3月の声を聞いてから急に思い立って、セントルイスにあるミュージアム・オブ・トランスポーテーション(Museum of Transportation) に出かけた。博物館リストを見るとSLのコレクションが多いことが案内されていたので下調べもそこそこに出かけた。午前10時頃にセントルイス空港につくと、直ぐ郊外の博物館へタクシーを飛ばすことになった。思いがけなく、昨晩に積もったという雪で白銀の世界となって居たのには驚いた。30分くらいも低い丘陵の続く田舎道を入り込んで、パット視野が開けた谷の南斜面に現れた博物館は門を閉ざして冬眠中のようだった。正面の門からは大型SLのフロント面が朝日に輝いて良くみえたのだが、門の中を覗いていると番犬がほえ出したりしてかんげいしてくれたのだったが。そこで気の毒がったタクシーの運転手が近くの家に出かけて様子を尋ねて呉れたところ、丁度 博物館の留守番を勤めている居る人が現れて、折角きたのだから見学させてくれるとの幸運に恵まれた。
雪晴れの青い空という絶好の転向のなかで、機関車の上に積もった雪は瞬く間に融けてしまった。しかし冬眠中であったことから、留置線にはギッシリとコレクションのSLが詰め込まれており、お目当てのユニオン・パシフィック鉄道の巨人記“ビッグ ボーイ“”を横から想うように全貌を捉えることは絶望的であった。そこで、何とか工夫して、ビッグボーイ ♯4006の正面だけはかろうじて撮ったのがこの一枚であった。ここれにはUP(ユニオン・パシフィック)の“X4006”の文字板が残されたままであった。そして、前面の鎧戸が印象的だったし、前後に長いために奥行き(遠近感)が出ていて、正面から眺めると迫ってくるような感じがする。
これを眺めていると、子供の頃に買ってもらった乗り物の絵本の中に現れた勇ましい蒸気機関車の姿を思い出すのである。今から想うと、正に この“ビッグボーイ”のようでもあり、または、フロントにエアーコンプレッサーを二台並べて取り付けたC&O(チサピーク・アンド・オハイオ)鉄道の“アレゲニー”のヨウナ気もしてくるのであった。後者はミシガン州のデトロイトにあるフォード博物館に屋内展示されている機関車で「東部のびっぐボーイ」と呼ばれて人気の高い機関車なのであった。
 この年の8月にアメリカのオートバイ工場が完成してお役ご免となって帰国してから、ビッグボーイのことが気になり出していたのだったが、その頃「トレイン」誌の発行元のプレスアイゼンバーンが刊行した「大平原の煙 -WITH BIG BOY OF UNION PACIFIC-」と云う写真集を知ったので、早速取り寄せて機関士であるという著者のウイリアム・T・ハーヴェイさん撮影の写真と臨場感有るキャプションに酔いしれたものであった。
そんなこともあって、次に渡米したら今度こそは全体をくまなく撮れるような機会を得ようと狙っていたのだったが、有り難いことに東部にはもう一両のビッグボーイ♯6012が東北のバーモント州のBellows FallsにあるスSteamtown USAに保存されており、しかも広々とした敷地であるから充分にアングルを楽しめることが判り、遠路オハイオ州から遠征することになった。
ここへの訪問記は
“30.ニューイングランドのカナデアン・パシフィック(アメリカ・バーモント州)”
に既に載せてあります。ただし、この♯4012は1984年にペンシルバニア州のスクラントンにある Steamtown National Historic Siteに移って、相変わらずの人気の的であるとのことのようだ。
 朝の太陽光の低い内に撮影をしようと開門を待ちかねてビッグ ボーイを探した。何と云ってもいかにも広い火室が目に付くのだが、ユニオン・パシフィック鉄道の質のよくないワイオミング産の石炭を燃やすために、広い火格子を持っているとのことだとか、このため重油焚きへの試験も行われたが重油バーナの炎が火室の一部にしか当らなかったことから歪みが起きて採用できなかったとか。それにしても、横から眺めると、ピストンや、動力を伝えるロッドや、蒸気を運ぶパイプが複雑に絡み合っている。こういうごちゃごちゃとしたメカニズムは見ていて飽きることがない蒸機の魅力だろう。
さて、名高い“ビッグボーイ”のことだから、web上には沢山の情報がちりばめられているので、特に気になっていることのみ記したい。
先ず、色々な観点から考えて世界最大の蒸気機関車と云うことには大賛成だが、屡々“マレー式蒸気機関車”とと紹介されていることがあるが、これは二2組の動輪群を支える台枠がヒンジ構造で連接していて、それぞれの持つシリンダーにはボイラーからの高圧蒸気がそのまま導入される単式膨張型連接機関車であって、マレー式のように後台車のシリンダーにはボイラーからの高圧蒸気を、前台車のシリンダーには後台車の使った低圧蒸気を再利用する複式膨張型連接機関車ではないことを指摘しておこうか。
 さて、太平洋戦争が始まるかもしれないと云う時期に、大陸横断輸送の覇者であるユニオン・パシフィック鉄道ではユタ州からワイオミング州までのロッキー山脈のワサッチ山地越えの11.4‰の勾配が283kmも続くルートを補機なしで3300トンの貨物列車をけんいんして通し運転ができる性能の蒸気機関車の開発を始めていた。しかも設計時のオーダーは牽引重量5000t、かつ最高運転速度は80マイル(129km/h)だったと云われ、実際に平坦線では60マイル(100km/hを安定的に出せたと云うから余裕を持っていたのであろう。
このために採用されたのが4−8−8−4軸配置で単式膨張型連接機関車となって、1941
(昭和16)年9月にビッグボーイ試作機♯4000が誕生し成功を収め、その後25輌が製造された。その活動は主にロッキー山脈越えを高速で貨物列車をけんいんすることであり、その典型的な仕業には100輌の貨車を牽引して、アメリカ最初の大陸横断ルートとなったCheyenne(WO.)からOgden(Utah.)を50 マイル/時でうんこうしたり、Sherman Hillと呼ばれるCheyenneから Laramie(Wyo.)の勾配区間を現車100輌、10000tのワンマイルトレインを牽いて活躍したと云われる。最終運用は1959(昭和34)年9月と云われる。
この“ビッグ ボーイ”の活動の基地であったCheyenneには♯4004機関車が市内の中央にあるHolliday parkに静態保存されている。
所で、ビッグ ボーイの大きさだが、長は日本のC62の21.4mに対し、40.7mとほぼ倍の長さであり、機関車本体整備重量は560t、それに対してC62は145t、エンジン部だけでも318tとC62の3.6倍もあるとのことだ。動輪の直径は、1,750mmに対し1,727mmである。それに、驚くべきことは、この大きな動輪群は20度曲線(曲率半径87.3メーター)を通過出来たとのことだった。
ここでスペックを転機しておこう。
車軸配置:4-8-8-4
全長:132 フィート 9 1/4 インチ (40.5 m)
テンダーを含めた重さ:1,200,000 ポンド (540 t)
動輪上重量:540,000 ポンド (245 t)
引張力:135,375 ポンド (600 kN)
シリンダー行程:23 3/4 インチ (600 mm) 直径 32 インチ (800 mm) 
シリンダー数 4
ボイラー圧力:300 ポンド/インチ (2 Mpa)
動輪直径:68 インチ (1.7 m)
MB型ストーカー

テンダーに積める石炭の重さ:28 トン
テンダーに積める水の量:24,000 米ガロン (90 m3)
最高速度:時速80マイル (130 km/h)
製造所:アルコ(Alco(the American Locomotive Company)、
1次車が1941年に20輌、2次車5輌が1944年製造

撮影:1978,1980年
発表:「レイル」誌・1980年12月、冬の号