自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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100. 越後平野の朝・“はざ木”のある風景 ・信越本線/前川−来迎寺


〈0002:〉
「はざぎ」赤色刷り、(文字なしし
〈0003はざ木のある風景・古典招待状用写真」




この画像はモノクロームプリントに赤色インクを印刷して仕上げたがぞうです。古典開催を知らせるはがきに使いました。
背後に薄く見える越後山脈の日の出をイメージしました。
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〈紀行文〉
 私が立っている所は、信越本線の上り列車が長岡駅を発車して、宮内、前川、そして信濃川橋梁を渡った来迎寺側の下流に当たる水田地帯の真ん中である。季節は初夏で、早朝なのだがとっくに陽は高く登ってしまい正に逆行の位置で遠くの越後山脈のやまなみに向かっていた。何とか木陰に入って直射日光の洗礼を避けて、三脚を立てて上りの普通列車の通過を狙ったのであった。
有り難いことに無風凝滞であったのだろうか、全くひとつの乱れもみせない長く尾を引いた黒い煙を従えたD51が牽引する旅客列車が信濃川に架かる橋梁を目指して築堤を駆け上がって来る光景であった。
私が個展を開くに当たっては、是非故郷の新潟のSLを招待状や展覧会のしおりの表紙に使いたいと前から願って射たのだったから、はからずも「越後山脈と越後平野の風物詩である「はざ木」を入れた構図が取れたことに大満足であった。
この写真はカラースライドでは初めから試みなかったので、新潟を象徴する日本海の夕陽、越後山脈の日の出をイメージさせて赤色をベタ刷りしたのであった。その招待状はSL写真展のトップページをかざっているものである。
 この撮影地点へは国道17号線を長岡から南下して、長岡機関区や貨物ヤードのある宮内を過ぎて、しばらくすると堀之内となる。ここから柏崎へ通じている剣道23号線への案内板が現れた所で右折すると間もなく幅の広い信濃川に架けられた有料道路橋の「越路橋(こしじはし)」を渡ることになるのだが、この直ぐ下流には信越本線の信濃川橋梁が掛かっていた。この鉄橋は全長 599mの下路ワーレントラス形式の橋梁であって、1952年(昭和27年)に架け替えられたばかりであった。
実は、これから渡ろうとしている越路橋は、この信越本線の信濃川橋梁が架け替えられた時に、用済みとなった初代の信濃川橋梁のトラスを拡幅改造して道路橋に活用した物であることが判った。
この初代の信濃川橋梁は通称「浦鉄橋(うらてっきょう)」と呼ばれ、信越本線の前身である私鉄の北越鉄道が宮内−来迎寺間の信濃川に架けた全長 470mを誇る長大な鉄橋であった。この桁の構成はイギリスのハンディサイド(Handy Side)社製のリベット結合の下路プラットトラス(スパン 62.7m)六連ト、プレートガーター六連であった。この橋の竣工により1898年(明治31年)末に北条〜長岡間が延伸開業したことにより直江津〜新潟間が全通したのであった。それから半世紀に亘って供用されたが、老朽化と、複線化などに備えてルートを一部変更することになって掛け替えが行われたのであった。そして1952年には潟県に道路用として払い下げられ、6連のトラスのうち4連が越路橋への転用がはかられ、トラスの幅を無理やり広げると云う難工事が行われた。これは下から覗くと良く判ったと云うのだったが、平成10年に上流に新しい橋が完成したため撤去された。しかし、役目を終えた一連の半分のトラスが、長岡市越路河川公園内に移設保存されているのは嬉しい。
また、その時に余った2連のトラスは近くの越路町の県道の橋に活用されている。
それは近くの信越本線の越後岩塚〜塚山間で車窓から眺められる所を流れる信濃川の大支流である渋海川(しぶみがわ)に架けられた「岩田橋」と、その上流にある「不動沢橋」と呼ばれる道路橋に転用されており、その鉄道橋風の細身の姿はアメリカで見かけるカバード ブリッジ(屋根付き橋)の印象を思いおこさせたが、これが製造時のオリジナルな姿を保った百歳のトラス橋として知られるようになっているとのことだった。その詳細は下記サイトを参照して下さい。
「CE/建設業界:社団法人 日本土木工業協会【土工協】」
http://www.nikkenren.com/archives/doboku/ce/ce0903/100nen_project.html
このイギリス生まれのハンデイサイド社製のトラスは明治期に多く輸入されて架設されたトラスの中で、僅か3箇所だけに架設された貴重な土木遺産なのだからであり、同型が大糸線穂高川鉄橋に現役で使われていることを付記しておこう。
 ここからは信越本線の下り列車に乗って直江津から長岡へ向かってみよう。しばらく間近に眺めてきた日本海の渚に別れを告げて頸城山地(くびきさんち)を抜けて信濃川流域へと北上すると、新潟までの車窓風景として旅人の目を引きつけるのは越後平野の風物詩である田んぼのなかのあぜ道に植えられた“はざ木”の並木が通り過ぎて行く姿であろう。本来なら並木の風景として撮るところだが、意表をついた構図を試みたのでイメージ不足をお許し願いたい。
日本一の米どころ越後平野を古くから特徴づけてきたはざ木」というのは、田んぼ脇のあぜ道に植えられた「はんの木」や
「トネリコ」(たもの木)などの並木をいうのである。ここに竹の棒など渡して刈り取った稲をかけ、天日干しにする。
つまり、稲を干すためだけのために、わざわざ木を育ててきたということだ。(はさ)木にハンノキを利用していたところは、日本海側でも南の方が多かったし、新潟県では、寒さに強いモクセイ科の「トネリコ」(「たも(田面)の木という木がよく使用されているから、それぞれの地方に適した木が利用されていると云うことになるのであろう。
昔は当たり前のように田んぼにはつきものの風景であった。秋になると、刈り取った稲が干され、あぜ道の黄金色の屏風(びょうぶ)といった風情となるのであった。
しかし、農業機械の導入により通路のじゃまであることや、稲刈りの自動化や籾の乾燥機などが普及するに至り、“はざ木”の価値もなくなり、現在はこの風景を見つけるのが困難となってしまった。
そこで、日本一の米どころ越後平野を古くから特徴づけてきた“はざ木”のある美しい農村景観を後世に残しているのが越後線岩室温泉駅のある元岩室村夏井地区(現新潟市)で、「とねりこ」を約600本を保存して農作業イベントを催している。全国でも珍しく現存する昔なつかしい“はざ木風景は農村景観100選に選ばれた美しい田園風景の広がる場所としてカメラマンの注目を浴びているスポットである。

撮影:1968年
発表:個展招待状・個展のしおり表紙写真(1972)
handy−Side社製のトラス