自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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099.「柿の里」・田川線/内田(信)→油須原
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〈紀行文〉
南九州の日豊本線の高鍋鉄橋の夜明けを撮ろうとして晩秋に四連休を作って出かけた。その週末は鈴鹿市に出張していたので、早速神戸から小倉まで夜行フェーリーに乗り、夜明け前の豊前路を南下した。そして日豊本線の行橋駅の広い貨物線で入れ替えに精を出している9600の汽笛を聞きながら夜明けを待った。
そして、福岡と大分の境にある英彦山(標高 1、200m)の北麓を水源としてほぼ北東に流れ下って周防灘に注いでいる今川に沿って遡る田川線に導かれて、この線のサミットにある油須原に向かった。ここで今川筋から離れた線路は大きくカーブする形で東から北西へ向かって内田信号場(油須原から 4.4km)、そして勾金(まがりかね)駅を経て田川伊田駅への長い10パーミルの下り坂をなしている。ここは9600形蒸気機関車1輌では坂を登りきれず、後藤寺から補機が付くのが通常であった。午後の貨物列車の中には前にも補機が付き3重連となって黒煙が谷間を埋める奮闘振りであり、油須原で後補機を切り離して、苅田港まで重連でゆくと云うのが石炭全盛期の田川線の情景であったのだと云う。
それに引き替え現実は、早朝に1本だけ貨物が有るとのことでかろうじて撮れたのがこの一枚である。秋に実った柿がそのまま水分を失いつつ未だ赤い色彩を残して前景の役目を果たしてくれた。あの筑豊の黒ダイヤの替わりに石灰石を積んだ北九州専用のセラ(17トン積みの2軸石炭社)を連ねた苅田港行きの貨物列車が軽ろやかに白煙をなびかせて登って来たのは意外であった。この時は、残念ながら筑豊のシンボルである高さ511mの全山石灰だと云う香春山(かわらやま)をバックに撮る所までは気が回らなかった。このロケーションは雑誌などで先輩たちが発表していた田川線の勾金(まがりかね)か→油那須原での重連9600の活躍のばだったのだが、黒ダイヤから白い石灰石やセメントと替わって久しかったのである。
それも そのはず、
私がSLを撮り始めたのが1967(昭42年の秋頃からであったから、もう既に日本の石炭鉱山はエネルギー革命の影響を受けて、効率の高い石炭鉱山を近代化させることを優先し、それに該当しない鉱山は閉山へ向かうと云うスクラップ アンド ビルド制作が進められていることは知っていた。それで北海道では幾つかの炭鉱山の専用線を訪ねたが、九州までは手が回らなかったのであった。
そして、スクラップへ向かう炭山の中でも筑豊は特に、戦中戦後日本の石炭生産の40%を担ってエネルギー源を支え続けて来たのであったが、過酷な生産と設備の老朽化と新鉱脈の枯渇により急速に衰退してしまって、昭和48年には露天掘りの貝島炭坑を除いて全て消え去ってしまった。それに取り替わって、豊富な石灰石を原料とするセメント工場が活動しているだけであった。
ここで、この田川線の建設の歴史を述べるに辺り、九州の鉄道黎明期の状況から始めよう。
日本の鉄道の建設は官営で始められたが資金的困難から地方の要望を同時に満たすことが出来なかった。しかし、鉄道民営論を是としていた伊藤博文が首相になると各地の私鉄建設の認可がなされた。九州でも半官半民の九州鉄道が創立され、各地点での建設計画の立案とドイツ国鉄からの技術導入を進めようとしていた。しかし折からの資金難のため鹿児島線と軍港である佐世保ふきんを通る長崎線が優先的に建設が進められ、1889年12月11日に博多〜久留米間が開通した。そのような中で、間もなく田川付近で豊富に産出する筑豊炭を周防灘に面した苅田港へ輸送する豊州鉄道が創立され、6年程遅れた明治28年に行橋から豊洲、油須原、香春(今の勾金)、伊田(今の田川)までかいつうさせたのが田川線の始まりである。この時には将来の輸送量増加を見越してトンネルや橋梁を複線化が可能な容量に設計して工事をしていた。この建設には九州鉄道に顧問技師として招聘されていたドイツ国鉄の機械監督ヘルマン・ルムシュッテル(九州の鉄道建設の恩人として新幹線博多駅にレリーフが顕彰されている)の設計と工事の指導に大きく追う者が有ったと伝えられる。
その後九州鉄道が日豊本線となるルートを大分方面に延伸する段階になって、6年後の1901(明治34)年に豊州鉄道を合併することになり、更に1907(明治40)年には国有化された。そして筑豊炭田の全盛時に入った戦時中に行橋〜苅田港の貨物船と石炭埠頭が完成し田川線は終戦後の復興を支えたエネルギー源としての筑豊端を京阪神へ供給することに貢献した。
一方、小倉から筑豊炭田を目指して1896年(明治29年)に創立された小倉鉄道は東小倉〜上添田間を1915(大正4)年に全通させた。1943(昭和18)年に国有化され添田線となった。
その後には紆余曲折があって、1960(昭和35)年に城野(日豊本線)−伊田−彦山−夜明
(久大線)を結ぶルートは日田英彦山線となった。コレにより田川線の利用価値は一気に衰えていった。田川で産出される石炭の多くは小倉へ運ばれるようになったからである。それは田川から油須原への山越えを走る路線の煩わしさもえいきょうしていたのであろう。それ以降、田川線から石炭輸送列車が激減するのは早かった。
また戦前から計画されて進められていた、漆生線から上山田線を経て田川線の油須原を結んで苅田港への石炭輸送の短絡ルートとして期待された油須原線も70%完成しながら廃止に追い込まれてしまった。1989(平成元)年からは第三セクターの平成筑豊鉄道田川せんと云う、うら寂れたローカル線として存続している。
私が田川線を訪れる時は南九州へ向かう時の「行きがけの駄賃」であったから、午後に運用されていると言う9600牽引の後補機付き変速3重連の石灰専用列車にお目に掛かったことがないのが今にして心残りである。
撮影:1974年
発表:田辺幸男写真展「蒸気機関車のある風景(日本縦断)」、1975年・埼玉快感(浦和市)。