自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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093. ゲティスバーグ古戦場を走るSL (ペンシルバニア州)


〈0001:〉
Gettysburg RR ♯7

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〈紀行文〉
 1978年の初頭から厳冬のデトロイトに滞在していた我々は、氷雪の消えるのを待ちかねるようにアメリカのハイウェーのドライブに慣れる努力をしていたかいもあって、初春の休日に南ペンシルバニアにある南北戦争の決戦地で知られるゲティスバーグ古戦場への刊行旅行に出かけた。この地は、ワシントンDCから北へ一時間半のドライブの位置にあり、メリーランド州との州境に近いところである。夜半にシカゴ〜フィラデルフラを結ぶ最古の有料高速道路(ターンパイク)を東進して、幾つかのトンネルでアパラチヤン山地を越えて、州都のハーリスブルグでターンパイクに別れを告げた。ここから38マイル(68 km)ほど西南に走ると緩やかな緑の丘に囲まれたアダムス郡の中心町 ゲティスバーグに到着したのだった。ともあれ宿を確保してからと、さその足でダウンタウンで知らぬ人のいない位有名な古色蒼然たる木造3階建てのホテルに泊まれたのは、未だ観光シーズンには多少早かったからでもあろうか。
そして国立軍事公園のビジターズセンターに出かけて案内地図をもらった。さし当たり、ゆかりのミシガン州とオハイオ州の慰霊碑を巡ってから、高台に設けられた展望台から古戦場とダウンタウンの町並みを眺めてからホテルに戻った。この古戦場の戦績を自動車や観覧バスで巡るツアーの経路が設けられており、さすがにアメリカ人の先ず最初に訪れる旅行先のトップナンバーであることもうなずけた。公園の中心には余りにも多くのアトラクションや博物館などが店を開いており、その多彩なことには驚かされた。そこで、ゲティスバーグの戦いや南北戦争の詳細はwebのウェスペリアにお任せすることにしたい。
私は市内地図をガソリンスタンドで入手して鐵道線路のありかを探しに掛かった。じつは今年のシーズンからは蒸気観光旅客列車の定期運行が再開されることが鉄道雑誌に予告されていたからで、早朝には偵察だけはしておこうと思ったのであった。所が朝になって出かけて見ると未だ観光鉄道のケティスバーグッ鉄道の方はひっそりと静まりかえっており、現役の貨物鉄道として活動しているWM(ウェスターン メリーランド鉄道のゲティスバーグ線を黄色とバーミリオンのオレンジ塗装のチェシーシステムカラーのDLに牽引された30輌ほどの貨物列車が一時停車していた。この路線は東海岸を南北に短絡する多忙なルートであると云われていた。そしてまたリーンカン大統領との深い関わりのあったことも後でゆっくり述べたいと思う。
その一日は、古戦場巡りとアトラクション見物に費やした。何と云ってもジオラマによるゲティスバーグの戦いは必見とのことで英語のアナウンスが判らないままに見物した。
ついで私はフロントに実物の個展客車をしつらえたリーンカーン大統領のゲティスバーグへの旅を演出する博物館に入った。閣僚達や大統領の蝋人形が執務する社内の情景を列車の走行音とスクリーンに流れる景色によって臨場感を高めていた。この社内で演説の原稿が寝られたとも云いたい所なのであろうか。
 それから やがて夏が来て、ゲティスバーグ鉄道の運行も順調に行われて居ることを確認してからは、あの古戦場の緑の芝生にたたずむ白いモニュメント像と1827年創立の大学街の雰囲気を背景に観光客で賑わうSL観光列車を撮って見たいとの衝動に耐えかねて一人で出かけた。古戦場を巡ると云うのは昔の話で、現在のルートは駅を発車して、鐘をならし、長く、しかも音階の変わる汽笛をならしながらモニュメントの立ち並ぶ丘を通過するのは僅かな区間だけであった。
このシーンのUチューブが公開されているのでここにリンクしておきます。
YouTube - Steam Train: Gettysburg 76  
http://youtube.com/watch?v=a5RH2cwVU8w&feature=related
私が訪ねた日の早朝に機関個を覗いてみると二輌のSLが並んでいて、元CPR(カナデアンパシフィク鉄道)のNo. 1278シャープはお休みのようであった。
このレギュラー運転にはシャープ76が専ら使われているようだった。これは1920年 BLW(ボールドウィン機関車製作所)の製番. 54265の
2-8-0の車輪配置を持った動輪径51 インチ、全重量68米トンの小型の貨物機コンソリである。数々の経歴を経て、1976年にMississippian Rwyの貨物機からGettysburgにやって来たのである。その後1999年まで働き、休止中のOhio Central where it sat on the rrに買収され保存中であるとか。
実はお休みだったCPRの4-6-2の. 1278は軸重が大きすぎて、この路線には適合できなかったことから1982年に、ペンシルバニア州のスクラントンにある“スチームタウン USA”(アメリカ最大のSLコレクションを誇る博物館)が保存している元CNR(カナダ国鉄)の2−8−0の. 3254との交換交渉が成立して、現在は唯一のSLとして活躍して居るとのことである。おそらく、これが♯76の放出に関係があるのかも知れない。
さて、Gettysburgに初めて鉄道が来たのは1859年の南北戦争の直前であった。それは首府ワシントンの桜並木で知られるポトマック河の上流に当たるCunberland(カンバーランド)からペンシルバニア州のYork(ヨーく)とを結ぶ鉄道が1851年に開通し、そのメリーランド〜ペンシルバニアの州境から分岐するHanover Junction, Hanover & Gettysburg RrがGettysburgに旅客駅を建設して、旅客列車のさーびすを開始した時からである。
その後間もなく更に北方のYorkとの路線も開通して、南と北への交通の便が開けた。
そして、1853年の財政危機によって大合併が成立して1854年にNorthern Central Rwyが作られ、1861年のゲティスバーグ戦いの直前にはPRR(ペンシルバニア鉄道)の配下の子会社となっていたのだった。
確かに、ゲティスバーグの争いの歴史書の冒頭には、「ゲティスバーグは、南北を結ぶ鉄道と放射状に集散する12本もの街道が合流する交通の要所になっており、両軍に取って軍隊のの集結や補給が迅速に簡単に出来るとされていたから、それ故に両軍の指揮官が遠くにあって、この地での決戦を望まなかったにもかかわらず、成り行きで戦いが始まってしまったのです」とある。
そして、このメインストリートに面した駅舎は病院トして使われ、戦いの後には南軍の負傷兵たちを故郷へ帰還させる列車の出発駅でもあったのだった。今もWMのトラックサイドニ保が行われ、公開されている。
それに北軍の食料や兵器、更に兵士を北方の軍事訓練基地から南の戦場へ送るメインルートとして重用されたことは記憶されるべきであろう。
その戦時中に破壊された橋梁の復旧は陸軍の手で速やかに行われたと云う。また戦戦中の傷病兵士の後方病院へ、戦傷兵の帰還への輸送、戦後の兵士の撤収などに大活躍したことは云うまでもない。鉄道が戦争に深く関わったのは初めてのことであったと云えよう。
 さて、次は南北戦争を指導していたリーンカーン大統領とこの鉄道とのエピソードの番である。
 1863年11月18日、祝賀祭風に飾り立てた大統領専用列車には閣僚たちと外国の大使らが乗り込んで首府ワシントからB&O(ボルチモア アンド オハイオ」鉄道のシカゴへ向かう本線を通って、Cunberlandを経て、NC(ノーザン セントラル )鉄道に入り理、Hanover Junction からGettysburg へ向かった。そして間もなく大きなダイアモンド煙突をつけたアメリカンタイプの蒸気機関車に引かれた大統領列車がCarlisle Street(現在のビジターズセンターの場所)に設けられたゲティスバーグ国立戦没者墓地の奉献式場の駅端に到着し、リーンカーン大統領の一行が降り立った。
実はゲティスバーグの戦いはは北軍の勝利に終わったが、戦争は1865年まで続いていた。前代未聞の死傷者数に厭戦感も漂う中でおこなわれたのがこのイベントであり、ここでの大統領の演説が「ゲティスバーグ演説」なのである。この演説の目的は全ての市民に真の平等をもたらす「自由の新たなる誕生」のため、国家統一のためとされている。翌年には大統領選が迫っており、戦争継続を掲げて再選を狙っていたからでもある。
たったの2、3分で終了したスピーチで、「人民の、人民による、人民のための政府をこの地上から絶やさない」と云う最後の部分が日本では良く知られている。
 次に、1865年の4月14日にワシントン市内でで起こったリーンカーン大統領の暗殺事件に続いて、彼の生前のゆかりの地を巡る葬式列車は彼の遺体を載せて故郷に戻る1,654マイルの旅の話題である。
dark-garlanded carで編成した葬式列車は1865年4月21日にb&o鉄道のワシントン駅を午前8時に出発、35マイル北上してボルチモアに停車したのち、再びシカゴへの本線上をCunberlandまで行き、ここでNC(ノーザン セントラル)鉄道を経由して、あの5ヶ月前のゲティスバーグ演説の地であるゲティスバーグを巡って、58マイルの旅の末に午後10時にペンシルバニア州都のハーリスブルグに到着し、州議事堂に安置された。その後はフィラデルフィア、ニーヨーク、バッハローと巡って遂に故郷のイリノイ州スプリングフィールドに帰着したと云うのである。

 さてここからは現在、観光列車を走らせている一報の鉄道路線の歴史を語って置かねばなるまい。1963年に国立戦没者墓地が整備され、1965年に南北戦争が終結してから間もなく、ゲティスバーグは古戦場めぐりの旅行先として東海岸の重要な都市になりつつあった。そして観光開発によるゲティスバーグの町の革新を急ごうとする機運が高まってきていた。そのような状況のなかで企業家のDr.Powellは今の鉄道は船籍回りには不便な場所であることに目を付けて、近く開演する国立古戦場軍事公園への旅行アトラクションへの便を確実に提供できる列車を頻繁に発着させるための鉄道を得るために、Gettysburg & Harrisburg 鉄道会社を設立して既成の路線を取得しながら、新しい路線を古戦場の真ん中に乗り入れて、1884年には北ワシントン通りに面して新しい駅を建設して開通させた。これによって“フィラデルフィアのダウンタウンとゲティスバーグの北ワシントン通りのREADING駅とが、自室に居るような、便利さで、しかも活動的に”なったと宣伝に余念が無かったこの駅こそが、現在の観光列車が発着すている駅なのである。
それに加えて、その側線を延長して、東側の小高い丘の頂に至るまでの古戦場戦跡巡りのルートを建設して、有料のツアー列車を走らせた。そのために鉄道会社は13エーカー(53,000 m2)の土地を買収して終点の丘の頂上に講演を作り、ここに各種のパビリオン、キッチン、写真スタジオなどなどの多くのアトラクションを運営して多くの旅行客を集めると云う大盛況となり、間もなくジャブルやアルコールなどのトラブルが多発するようになってしまった。そこで1898年に鉄道会社はここを国立講演局に売却して廃業することになった。そのご、周遊路線は自動車道路に替わり整備され戦績巡りにとなって今も盛況である。
それに変わって市内にはトロリー電車がはしり、鉄道も観光列車を走らせるアトラクションが始まった。その頃には、この鉄道はReading鉄道のGettysburg-Harrisburg 支線となっていたのであった。
時は下って、鉄道斜陽の時期には多くの路線が大鉄道網に吸収されたり廃線の憂き目を見たのであったが、この路線は連邦政府の鉄道局の支援の下で破産鉄道を糾合して出来た“Con-Rail”の傘下に入りいきのび、その後メインラインはNS(ノーフォーフホ サザン」のシステムの傘下に入り、一報 GettysburgからMount Holly Springsまでの25マイルのゲティスバーグ支線は Cornell familyの手で買収されて、1976年の秋には Gettysburg Railroadとして通暁貨物輸送をDLによって行うショートラインに蘇った。そして更に10輌の客車と一両の2階建て客車、2輌の蒸気機関車を準備して1978年のシーズンからGettysburg〜Biglerville間の往復16マイル、90分の定期観光列車の運行がおこなわれている。別にや夏や紅葉のシーズンには往復50マイルの遠足列車では、標高差540フィートの峠越えを含めた自然の豊かなツアーが催されるとのことだった。
私が撮影したのはその第1年目のシーズンの定期観光列車だった訳であった。
その後の動静をインターネットから拾うと、2001年にGettysburg Northern Rr会社が後継会社として設立され、傘下に観光鉄道のPioneer Lines Scenic Railwayが伝統の観光列車を運営しているとのことだった。
だそくだが、ゲティスバーグの近郊に“The Dobbin House”と呼ばれる1776年に植民して建てられた山荘風の家が保存され、訪れる人が多く、説明には“Underground 
Railroad”(地下鉄道)の家だったとあった。これは19世紀前半に行われた奴隷州から自由州やカナダへの黒人奴隷の逃亡を助ける非合法な秘密ネットワークのことで、宿を提供する家、移動を助ける鉄道の車掌たち、資金を拠出する人々などの連携によって機能していたものであった。勿論、逃亡は多くの鉄道を乗り継いでのルートであったろうから、その案内役は鉄道の車掌たちのボランテアー活動に頼っていたのであろうか。さすがに交通の要所である Gettysburgの面目躍如とでも云うべきところか。

撮影:1978年
発表:「蒸気機関車」誌、“アメリカ 東部の煙”