自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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089.
「素描 初秋の区界(くざかい峠越え」
・山田線/区界
〈0001:〉
〈0002:〉
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〈紀行文〉
昭和41ねん頃から東北本線奥中山のD51三重連を撮るために足しげく東北へ通っていた。その時は大抵は、先ず先に花輪線の竜が森へ立ち寄ってから奥中山へ向かっていた。しかし、釜石線の足ヶ瀬駅や仙人峠、また山田線の沿線に付いては五万分の一地勢図を調べていたものの、その辺りの地形のけわしさからアプローチに自信が持てなかったこともあって敬遠していたのだった。
何がきっかけだったか忘れたが、山田線に区界(くざかい)と云う駅があって、近くに北上山地を越える区界峠(くざかいとうげ)のアルことを知った。これほど、旅情を誘う峠の名は聞いたことがなかったから、気になり始めていた。
たしか、昭和42年9月の初秋の頃だったと思うのだが、東北本線の小鳥谷の大カーブを撮りに出かけた際に、その帰途の一日を山田線の区界峠の探訪に振り向けたのだった。その時も、好摩駅近くの定宿に世話になって、翌朝の龍が森でのハチロク重連を撮ってから、区界峠への偵察に向かったのだった。
この峠は盛岡市と宮古市を結ぶ国道106号線(旧 宮古街道)が北上山地の稜線を越える峠であった。この辺りは北上川に沿って南北へ連なる平野部と、太平洋岸のリアス式のけわしい三陸海岸線、それに挟まれた紡錘形をした広大な高原状の北上山地が西から東へ並行している。その内陸平野部と沿岸部の間には北上山地を越える峠が幾筋もの街道として拓かれていて、この区界峠もその一つで、標高が751mと高い方であった。そこで、地形図を見ると、道路は盛岡から梁川に沿って東へかかのぼっており、それに対して山田線の方は、より北側の中津川の支流である米内川の谷をさかのごっていて、両者は全く異なるルートをたどっていることが判った。しかも国道から山田線の沿線までは林道を十数qも分け入らねばならないので、今回は取りあえずクルマで区界峠を目指すことにした。当時の国道106号は未だ改良が施されておらず昔の街道を踏襲した明治に拡幅された県道をなぞっている砂利道の山越えであった。現在は梁川ダムのための付け替えと、桟橋とトンネルによる近代化が完成して、私の通った国道は廃道に近い状態のようである。
盛岡で国道4号線から分かれた国道106号線は梁川に沿って一路東進する。そして緩やかだが、徐々に登り調子となる道を約9kmを走ると梁川集落(後にダム底に消えてしまったた)に入った。ここからは梁川はV字の狭い峡谷を伴って、蛇行を繰り返すようになる。
国道は、ここより本格的な峠の登りに取り掛かる。
江戸時代には閉伊街道と呼ばれた元々の道は、このまま梁川支流の栃沢にそって直線的に峠を目指したというが、明治四年に始まった馬車道への拡幅の際にはしばらくは梁川をさかのぼるものの、沢底からは次第に離れ、尾根に向かってつずら折りの上りさかを開いていった。
やがて、三方を広大な牧草地のなだらかな斜面に囲まれ、一方は梁川の源流である谷間の平坦地が全くない飛鳥の集落を通った。ここからは峠に近い岩神山(標高1103m)が迫って見えた。道は斜面に挑むように急勾配と急カーブが続く。やっと牧場を抜けて、緑濃い樹海をしばらくはしって、それを抜けると高原風の地形となっってきた。ここまで飛鳥集落からは約6km余りのの道程であった。やがて梁川の源流である栃沢を急カーブの下の暗渠で越えて坂を登り切ると、道路の左に寄り添うように山田線の鉄路に出会った。やがて線路に並行するようになり、砂利道の脇にクルマを止めて列車のやってくるのを待ち構えた。その先で踏切となった。ここを渡ってゆっくりと坂をを登ると切り通しとなり、区界峠の標高 751mの地点であった。右手は高原僕場が広がっていた。さかを下って行くと右手に区界駅の入り口であった。ちなみに、現在の国道は1975年開通の、標高 730m、延長 277m+東側スノーシュルター約300mの区界トンネルで通過しているのである。
そこで、区界峠のイメージをより明らかにするために山田線の沿線風景の描写を試みた。
この盛岡の市街は南北に細長く伸びているが、東西方向は山が迫り広がりは少ないようだ。ここの盛岡駅の1番線ホームを発車して、大きく右に進路を変えて、国道4号線を跨いで越えるとすぐに北上川の大きな鉄橋を渡る。左手に秀美しく裾野を引く岩手山を眺めながら、やがて上盛岡駅をを過ぎる。そして
宮古へ向かう国道106号から北へ大きく離れて、もうトンネルをくぐった。その次の山岸からは中津川の支流である米内川の谷に沿って走り始める。そして、
新興住宅地のある上米内駅を出ると、もう人跡未踏ではないかと思われるような山の中に分け入って、蛇行しながら高度を稼ぎつつ登って行く。そして次の大志田駅手前でS字トンネルを描き、大志田駅のスイッチバック線に入った。その先で第一浅岸トンネルなどをを抜け次の浅岸駅と連続する山の中のスイッチバック駅が続く。
これらの駅は山田線が上米内 - 区界間を延伸開通した1928年(昭和3年)2通過可能型のスイッチチバック駅として開業している。ちなみに、この上米内〜区界間は約25qしかないが、完工まで5年を要すると云う難工事であった。そして、1982年(昭和57年)になると列車本数の減少によりスイッチバックは廃止となり、そのポイントの所に1つだけのホームが設けられた。とくに、浅岸駅付近では、戦後の林業の盛んだった昭和30年代には戸数60戸、人口250人を越えていたのだったが、今は周辺に人家もほとんど無くなってしまい、無人駅は貴重な“秘境駅”となっている。この辺の勾配は“25‰”であり、これは限界値33‰に迫るものであり、曲率半径のきつい急カーブが連続しており、盛岡から峠の区界までの間に何と22ヶ所のトンネルが設けられていると云う難路であったから、このルートは機関士泣かせだったといわれたとか。浅岸を通過して25‰の勾配を2qほど行った所に山田線最長の第1飛鳥トンネル(2263m)を通り、第2・第3飛鳥トンネルを抜けると、盛岡から35.6qを最大 25‰、平均 17‰の勾配を走破して東北地方で最も標高の高い744mの区界駅に到着した。
この駅と僅かな集落のある辺りは正に峠に近く名前の如く、県都盛岡市と下閉伊郡川井むらとの境界であり、またと北上川水系と閉伊川水系との分水界でもあった。ここから盛岡方面を臨む北西の斜面の険しさに引き替え、峠の上の東南斜面はなだらかな広々とした牧野の広がる高原と云う全く異なる地形的印象は予想外のものであった。そう言えば、この区界高原の田代放牧地は短角牛の南部牛(赤ベコ)の故郷でもある峠だったのだった。そして、手の届きそうなすぐ傍に、残丘の様な兜明神岳(標高 1,005m)がそびえ、それを取り囲むように広大な放牧地が広がっている。それに、ここからは遠く北上山地の盟主である早池峰(標高1914m)が見えた。
この川井村にはいる区界は最初の集落であるが、峠の頂上そのものであったのだ。こんな峠の上に集落や駅があるのも一件不思議なことだが、この街道が太平洋岸と南部藩の城下町盛岡とを結ぶ宮古街道の重要さから設けられたのであろうか。何しろ海産物と山の幸を運ぶ街道で有ると同時に江戸後期には三陸沿岸に出没する異国船への防衛のための軍事ルートとしての重要さが加わったと云えるであろう。
宮古に下る貨物列車を見送って駅に戻ると、盛岡に回想されるC58330はホームで休憩中であった。もう高原には秋の稔りの季節が来ているのであろうか。朝からの収穫であろう、ホームに広げられた茸などの豊富さには眼を見張った。
現在の駅の周辺には、道の駅からコンビニ、郵便局までそろっており、それに区界高原山の山歩きや谷川のいわな釣などに人気が高く、秋には「まいたけまつり」が盛大に催されるとか。
こで世の中に山田線の名を知らしめたエピソードがあるので歴史の一こまとして受け売りをしておきたい。
その第一は山田線の建設秘話とも云うべきものである。
岩手の県都の盛岡から陸中山田間は、盛岡と三陸地方を結ぶ鉄道として国が建設すべき幹線鉄道について定めた「鉄道敷設法(明治25年:1892年公布)の中で次のように規定された。
『一 岩手縣下盛岡ヨリ宮古、もしくは山田ニ至ル鐵道』
やがて第一期建設線の策定のためのルートの実地調査が行われた。この盛岡と峠(標高 751m)にある区界間は直線距離 20Km足らずだが、その高度差は620mもあった。ここに通じていた宮古街道にそって登ると約26qであり、鉄道の平均勾配は約24‰に相当して厳し過ぎた。そこで平均勾配を緩和するため距離を稼ぐ方法として盛岡市内の西側にある岩山周辺をループを描くルートが計画されたが、このルートでは橋梁の区間が多くなるため工事費の増加が必要となり保留となった。いずれにせよ、1000mの北上山地を越すための峠があったからで、比較線が検討されたが決定に至らず、そのままで年月が過ぎてしまった。そして、1920年(大正9年)にようやく第1期建設予定線に格上げされた。それには地元、岩手県の代議士であった原敬(はらたかし)さんが首相となったからこそ“陽”が当たったとも云われている。そして、改めて森林の中を大きく迂回するルートを採択し、難工事の末に昭和10年(1935年)までに全通したのだった。
この盛岡〜宮古間は山の中である。この路線を敷設するかどうかを帝国議会で審議した際、野党憲政会は猛烈に反対し、同党議員からの「こんな所に鉄道を敷いて、首相は山猿でも乗せるつもりか」という非難に対し、原敬首相(当時)は、「鉄道規則を読んでいただければわかりますが、猿は乗せないことになっております」と平然と答弁した、というエピソードがある。だが開業後、盛岡〜宮古間は満員で座ることができず、立ち通しのことも少なくなかった。また、釜石からの日夜を通しての貨物輸送に貢献したこともゆうめいである。
さて第二の秘話は感動の名画 「大いなる旅路」と山田線との関わりである。先ずJR宮古駅前にたたずむ一つの顕彰碑 『超我の碑』をご覧ください。この碑文は当時の鉄道建設審議会長だった鈴木善幸氏(元首相・岩手県山田町出身)の揮毫によっていた。その文面は、
『 昭和19年3月12日、この地方には珍しい豪雪のさなか、山田線を宮古へ向かっていた機関車C58283は、平津戸、川内間で雪崩に逢い脱線転覆した。この時、責任感の強い加藤岩蔵機関士は瀕死の重傷を負い乍ら自分に構わず、この事故を最寄りの駅に知らせるよう前田悌二機関助士に指示した。前田機関助士は、その命令に従ったが、ことの外の積雪の為進路を失い且つ又、加藤機関士の身を案ずる余り再び現場に戻り、厳寒の中で自分の着衣を機関士に着せ必死の看護に当たった。しかし、その甲斐もなく救援隊到着の時は已に尊い命は奪われていたという。正にこの行為は「超我と友愛」の精神によるものであり、我々の理想とする処でもある。よって、そのナンバープレートを刻み、2人の行為を永遠に伝えんとするものである。』
当時は戦中だったから、この事故は世の中には知られなかった。ところが、昭和30年頃に、盛岡鉄道局管内のの労働組合が刊行した「殉職者頌徳帳」が読まれて知られるようになった。ここには、山田線列車脱線転落事故と関係者の手記が載っていたからである。これが奇しくも脚本家・新藤兼人氏の目に止まり、「大いなる旅路」の映画化への契機となった。そして、1960(昭和35年)制作の東映映画となった。そのストーリーは東北地方を舞台に盛岡機関区の機関士一家の若き日から戦中戦後を経て定年(55歳)で国鉄を退職するまでの激動の時代を生き抜いた人生のドラマを描いており、主演は三国連太郎であった。この山田線沿線が映画のクライマックスの舞台となった列車脱線転落のシーンは、山田線浅岸駅構内の引き込み線を使い、実際に蒸気機関車(18633号機)を脱線転覆させて撮影されたことでも知られている。
さて、最後に盛岡から区界峠の路線は限界近い25パーミルの片急勾配、急ーかーぶと長大トンネル、それに続くスウイッチバックなどの連続する条件は
当時の蒸気機関車の運転に付いては乗務員の窒息事故などの危険がつきまとう過酷なものであった。特に落ち葉が空転を誘うと云うこともあってここを担当する宮古機関区の鉄道魂には磨きが掛かったと云う。
あの長い間繰り返された蒸気機関車を操るクルーたち(機関士/助士)の腕が思いっきり試された区界峠越えの難所に挑む仕業も遂に昭和45年(1970年)2月28日の無煙化によって終焉を迎えた。私にとってもあの力闘の情景を撮るチャンスに恵まれることなく終わってしまった。今はSLに替わって、山田線には、国鉄の黄金時代に製造されたキハ52、キハ58と云うディーゼルカーが走っており、しかも2001年に、その車両の一部を、国鉄時代の塗装(クリームと赤)に復元して、多くの鉄道ファンから喝采を浴びているのである。
そこで、山田線のC58の仕業を担当していた宮古機関区の方々の苦闘を回顧した座談会の記録を紹介させて頂きます。(著者証人済)
『「大いなる旅路」〜宮古機関区魂は消えず』
〈 http://www.karamatsu-train.co.jp/aomori/miyako.html 〉
その一部を引用させて頂いた。かんしゃ申しあげます。
『話の焦点はどうしても勾配のこと。
空転をすると線路が凹むって知ってるか?多少削れるぐらいじゃないんですか?
下手な機関士は同じところで何度も空転を起こす ひどい場合はそのあと走ればすぐわかるらしい。C58がぼっこんぼっこん上下したらしい。
空転の一番の原因はなにかと聞くと?落ち葉の油だと口を揃えて答える。そう油だ。 葉っぱの中に含まれていて実に参ったと・・。いっそのことドシャブリの方が楽だったとも。どうもこの油と付近を流れる川から発生する夜露にも似た霧状の水分があいまって薄い膜を作ってしまうことが原因らしい。
本気で空転をはじめてしまった場合粘るだけ。粘るがだめな場合、結構すっぱりと諦めた。列車を止め機関助手車掌たちが目一杯
砂を撒きに走った。約50メートルぐらい撒いてからの再アタックだった。宮古区のカマには常に非常用砂袋が別途積み込まれていた。
もうひとつスイッチバックでの折り返しでは引上線の長さが短く、勢いよく入りすぎれば激突するし、甘すぎれば入りきれない。誘導員が手旗であと5メートルあと2メートルと合図を送るがいっつもそううまくいくかよって思っていた。』
撮影:1967年
昭和