自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・Little River鉄道 ♯110を訪ねて・インデアナ/ミシガン州

087.  標準 軌最小のパシフィク “♯110” ・アンゴラ,インデアナ州

〈0001:〉
Little River Railroad・♯110.

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〈紀行文〉
 1970年代の末にデトロイトに冬を越しての駐在が続いたが、春の兆しの感じられる4月に入って近郊の鉄道インタレスト探しを始めたが、名を知られた観光地も無いことから保存鉄道は見当たらなかったが、路線通行権、傷害保険、乗務員の労組、線路のメンテなどの課題から屡々運転休止に追い込まれていた苦難の運営をしていた“Little River Railroad” (LRR)が今春には運行再開の見通しがついたとの2ュースが鉄道趣味雑誌から聞こえて来た。今まで運転していた場所のあるところは北のミシガン、西のインディアナ、東のオハイオの三州の境界が集まる地域で、トライ・ステーッと呼ばれ、そのインディアナ州の北西の角にあるアンゴラ市が、このLRRの活動の中心の用に想えたのだった。
こんな周境を旅するときには時差に気お付けろと云われたのを思い出して調べると、オハイオとミシガンの両州はEST(東部標準時であり、インデアナ州はCST(中部標準時)であるから1時間遅いことになる。それに加えて、夏時間(daylight saving time;日光節約時間)の季節に入ると、その適用地域は1時間早くなることになる。処がインデアナ州内には夏時間を採用しない町村がが入り乱れていることから混乱が生まれてくる。時差の計算も私を屡々悩ませたのが正直のところだった。
5月末のメモリアルディ(戦没者追悼記念日)の週末ともなると、どこの保存鉄道も動き始めるが、この時には夏時間の季節に入っているからである。
さて、ある初夏の日の出と共にデトロイトを出発、3時間余のハイウエイのドライブでアンゴラのインターチェンジに到着した。この地域の地図を入手するためと朝食を期待して、近くのモーテルへ向かった。駐車場には大きなモーターボートを牽引したトラックの一団が集まり、一方にはスポーツ姿の学生らしい一隊がたむろして大変な賑わいであった。
この五大湖のあるアメリカ中西部の平野には大小様々な無数の湖が散在しており、何れも氷河が残していった痕跡だと云う。この辺りの低い丘陵と氷河湖はスポーツ、キャンプに好適な近郊リゾートなのであった。このモーテルの食堂も小さな湖の上に張り出した気持ちのよい雰囲気だったが、肝心の地図は手に入らなかった。そこで“Little River”の所在をフロントで尋ねて見たが要領を得なかったのであった。それもその筈、後で判ったのだが、この河は南のテネシー河の大支流で会ったのだった。
そこでアンゴラのダウンタウンに向かうと中心のサークルの手前で踏切を渡ったことから様子が判り始めた。ガソリンスタンドで道順を聞いて、この鉄道の基地となっているPleasant Lake駅に向かった。
朝の10時、駅の構内では淡青色の煙がたなびき,石炭の香りが今日の運転“OK”を保証していた。古い貨物取扱い小屋が事務所と売店・出札口・待合室を兼ねている。この駅の周辺は未だアスファルト舗装のない泥道で、「財政上、そこまでは手がまわらないのよ」などと主宰者のテリーの愛妻が出札をしながら話してくれた。
もうすぐ発射だというのに促されて、2枚の黄色のパンフレットを手に客車に乗り込んだ。このパンフレットによれば、『ここの主役であるSL♯110の生みの親であるオーナーのW.B. Townsendさんは森林事業を国立講演に譲渡して得た資金を元手に、清涼飲料の会社の経営に乗り出しせいこうした。その名は “SEVEN UP”であったと云う。そこにはオチ」が書かれていた。「“セブンナップ”は君たちの喉の渇きをいやし,パシフィック♯110は君たちのHOBBY(趣味)の渇きをいやす…」と。』
赤いカブース(車掌車)を後尾につけて、長いドレーンを吐きながら一番列車はアンゴラに向かって発車していった。
ここからアンゴラへは南北に4.5マイルの直線距離を河岸段丘の縁を通って快走する。こ切り同志を進むと閑静な住宅街の裏にある跨線橋をくぐるが、列車が来る頃になると近所の子供連れの人々が集まってくる日常があるようだ。
アンゴラでは踏切の手前で停車し、側線を使って機関車を付け替えてから、一休みしたのち逆向き牽引で帰路に付いた。
Pleasant Lake 駅の構内でも同様な付け替えがおこなわれるが、その際にアンゴラ側に鉄橋があり、ここまで♯110は顔を覗かせてから、バックする作業が行われていた。
やっと全景に紫色の花を見つけて、三脚に望遠レンズをつけたローライで撮った習作である。
 この現在の運行場所の寂しさに引き替えて、ここの主役たる♯110の誕生から過ごしてきた栄枯衰勢の90年の歴史物語は多彩であるのには驚かされる。
そこで先ず生みの親である森林鉄王 W.B. Townsendさん、次いで命の恩人であるBloomさん一家の物語を語ることにしたい。
この♯110を誕生させたLRRの親会社であるリトルリバー木材会社の森林開発から話を始めよう。
このリトルりばーはノースカロライナ州とテネシー州との境となっているグレートスモーキー山地の主峰である Clingmans Dome の北西斜面を水源として小さな流れを集めて流れ下ってテネシー河に注いでいる大支流である。この山地はアパラチヤン山脈の南端に位置しており、大西洋から吹きつける湿度の高い風がもたらす多量の雨が降ることから常に湿度の高い環境が保たれており、森林の豊かな地帯をはぐくんできた。正にそのリトルリバーの上中流域の二郡にまたがる76,000 エーカー(310 km2)に及ぶ原始林を開発するリトルリバー木材会社がW.B. Townsend氏によって創立、彼の名前を冠した基地の町が建設され、製材所と事業本部が設置された。その子会社として森林鉄道を担当するLRRが1901年に設立され、下流に向かってメインライン、上流には伐採キャンプの町が作られ、森林鉄道が延びて行った。その操業した30年間に敷設した伐採線路は累計150マイルに達しており、主としてシェイ型森林用SLが活躍していたが、一方メインラインは基地であるTownsendからサザン鉄道との接続点であるMaryvilleまでであり、客車列車はここを経由して州都ノックスビルまでの15マイルを往復していたと云う。この木材をを市場に運び出すための重要なメインラインは20パーミルの急勾配と半径50mの急カーブの連続する谷間のルートであり、ここを確実に往復できる新機軸を盛り込んだ運材機関車と旅客用機関車の注文がオーナーの強い意志で 最大手の BLW (ボールドウィン機関車製作所) に求められた。そこでLRRはこれに対応して通常は考えられないような豪華な二機種をBlWに設計させることになった。その結果、アメリカでの標準軌鉄道で最初の試みである、2-4-4-2 のarticulated Mallet(マレー式連接機)の♯148を1909年・34088号として製造し森林鉄道用に実用化することにせいこうしたことであり、一方の客車用としてはパシフィック型 4-6-2の車軸配置を採用した♯110は最小サイズで自重58トンを誇り、急カーブに適応するため第二動輪はフランヂレスとなっているのが特徴であった。それは1911年に、37303号として落成して入線した。そしてオーナーのタウンゼンド氏の愛妻のポートレート写真をキャブサイドに飾った “リトル・パシフィック”は、この地方の名物旅客列車となっていった。
しかし、グレートスモーキー山地一帯を国立公園にして保全しようとする市民運動がかっぱつとなったことから、1927年にTownsendさんは国立公園予定地境地までの森林伐採を続ける条件のもとで、ここの地域の森林開発事業を譲渡することをけついし、その結果LRRの操業は1939年に完了し配線となり、マレー機とレールはスクラップときえたが、線路跡は散歩路(トレイル)として講演のメインルートとして蘇っている。
一方、♯110は1942年に近くのショートラインのSmoky Mountain Railwayに売却されて、♯110として、DL化までの1950年代の速い時期まで走った。
そして、北東部の遊園地鉄道であるグレート・スモーキィ・マウンティン鉄道に買収されたが、輸送途中でトラブルに巻き込まれて、輸送は中止となり1960年代の初期に Shook’s Gap テネシー州、で廃車されて、他社の側線に留置された。その後、その線路も廃線となり、外界との連絡の線路を撤去されて、世の中から取り残されてしまった。そして12年間、雑草と共に暮らす不幸に見舞われるのであった。
 その最小のパシフィック ♯110に幸運の女神が微笑したのは、或る夏のことであった。フロリダにバカンス旅行に出かける途中の Bloom一家がこの田舎道の道すがら、息子の
Terry が♯110の姿をチラッと発見したことに始まる。帰りに再び朽ち果てる寸前の♯110を調べ、家族ぐるみの応援によって買収に成功し、1972年の5月にオハイオ州のBrooksville に運び、長い時間を費やして修理を進めた。その間に、アンゴラ市のトライステーッ大学を卒業し、電気技師となったTerry Bloomさんは大学の裏を通っていたローカル線で♯110を運転する夢の実現に全力を注ぎ、1974年に"LRR(リトルリバー鉄道)"と名づけられた非営利団体の結成に成功し、1975年には処女列車を走らせた。そして現在は137名のメンバーによるボランティア活動に支えられて、10月まで週末に3往復の運転と秋の長距離運転が行なわれるようになった。
しかし、機関車労働組合により、また線路の検査不合格、ある時には公共への運転に対する事故保険などでの立往生で屡々運転休止に追い込まれたが、1982年,不死鳥のごとくよみがえったのである。
 その後の動静は、インターネット情報をまとめると、
1985年に稼働中止となりその後20年間休止期間が続いた。2004年に、元owner Terry Bloomさんも参加して運用再開の活動に入り、2005年の春には近くのミシガン州のコールド ウォーターに根拠地を移して活動を再開した。2006年11月に♯110の誕生95年が祝われた
現在の運行はColdwater, MI →Quincy, MI.1時間、ここで機関車を付け替えて、30分停車後に戻る行程である。特別ニ25マイルも走るイベント列車も年中行事として行われるようになった。
一方の線路の通行に付いては、紆余曲折の末に、今はIndiana Northeastern Railroadが設立されて、インデアナ州北東部とミシガン州南部、オハイオ州西部の地域の鉄道各支線の通行権を一括して使用して、貨物サービスを行うと同時に、保存鉄道のリトル リバー鉄道の運行も可能にする対応が取られていることから♯110の将来は明るいようだ。
近いうちに♯110のポートレートを探して続編とする予定です。

・注記:旅客用蒸気機関車 パシフィック
アメリカ・にほんの機関車の諸元比較表(田辺作成)

項目        リトル・リバー鉄道   サザン鉄道      日本国鉄
                ♯110        ♯1401      C51
所在        アンゴラ.インデアナ州      スミソニアン博物館    梅小路
タイプ      55トンナー        ps−4        2C1
動輪径(m)  1.2              1.85        1.75
重量     53.2            136          66.3  (メートル ton)
缶圧力      12.6            14.0        12.7    (kg/平方cm)
シリンダー  406X559             686X711         530X660 (mm)
軌間(mm)    1.435          1.435      1.067
製造/者  1911年BLW       1923年ALCO       1919年
設計        特別仕様           usra/重量pacific     国鉄制式

USRA:連邦鉄道協会制式機関車(戦時対応)
・参考資料:マレー式連連接機関車については下の本に詳しい。、
“Articulated steam Locomotives of North America、Vol.T.”,1979-Sundance Publish.Ltd.刊。
この本によると、1909年にBLW(ボールドウィン)からLRRにL♯126(2-4-4-2)と♯148(2-4-4-2)の2両が納入された。しかし♯126は重量64tで少々重すぎたため返却され、ただちに軽量の♯148が納
入されて大活躍したとある。

撮影:1978年
発表 「鉄道 ジャーナル 、1984年7月号(209)から二回連載で、「デトロイト紀行として、 白黒写真と紀行文 を掲載した。
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