自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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086.
岩舟山麓を走る
・両毛線
/大平下-岩舟
〈0001:15-2-1:岩舟山を背景に684貨レ、大平下-岩舟〉
〈0002:15-1-1:2C58牽引の上り626旅客レ〉
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〈紀行文〉
関東平野の北の山すそを走る両毛線の小山-思川間にある思川橋梁での撮影を終えて帰宅しようと、足利(あしかが)へと向かった。やがて右手に「あじさい坂」で知られる太平山(おおひらさん、標高 341m)に続く山並みが近づいて来た。その西の端には岩肌が断崖絶壁となっている標高 172.7mの岩船山が見えてきた。次第に近づくと、北の方向に、山全体が一艘の船の形をした奇妙な山容が姿を現してきたので、手前を走る両毛線を前景に撮ってみようと立ち寄ってしまった。
この山は北関東の足尾山地の最南端に位置する低い丘陵で、南は渡良瀬川が流れ下る関東平野へと続いていた。この不思議な形をした山は「死者の山」として古代以来広く信仰を集めている霊山であった。死んだ人の魂が祖霊に帰るために天に昇るところだとされていて、奇岩や怪石に囲まれていて、その頂には岩舟山高勝寺と云う古い寺があった。
この寺は宝亀年間(770〜781年)に伯州(鳥取県)大山の僧、弘誓坊明願(ぐぜぼうみょうがん)が建立したと伝えられている歴史のある寺であった。駅前から標高差100mほどを垂直に切れ落ちた岩壁を見ながら600段余りの石段の参道を登りつめると、境内には卒塔婆の林、それに江戸時代建立の三重塔、仁王門を残し、地蔵尊を本尊とする天台宗の末寺があった。ここは日本の地蔵信仰の三大霊場として、青森の恐山、山形県の舟形町の猿羽根山地蔵などと共に数えられているとのことだった。
この岩舟山は「岩舟石」で知られる石材の産地であって、江戸城にも使用されたほどの歴史は古いようだ。この岩石は新生代(6500 万年前から現在まで)に珪石の上に噴出した安山岩(中性マグマが地表に噴出して冷却固結したもの)が風化により崩れて礫(れき)となり、造山活動にあたって付近にあった小石を巻き込んで火山灰と共に膠結したもので、「安山岩質角礫凝灰岩(あんざんがんしつかくれきぎょうかいがん)」が正式の名称である。この石材の特性は、酸・アルカリや水に強いことから河川の護岸等にも利用され、火に強い性質から釜(かま)などにも使用された。比較的柔らかいので、細かい細工が可能で道具の材料としても使われている。一方では、風化しやすく一年ごとに貫禄が出ることや、苔が付きやすい性質を持つことから、庭石などにも珍重されている。採石された石材は渡良瀬川の水運を利用して関東一円に送り出された。明治22年(1888年)に両毛鉄道が建設される時には、沿線の駅のホームにはこの岩船石を積む造成が行われたと云う。岩船石はこれまでの採石でほぼ取り尽くされたようである。かつての採石場跡地は、荒々しく削り取られ切り立った岩肌を背に舗装されていない地面 が広がり、時代劇もののセットや爆破シーン、アクションシーンなどの撮影に適していることから大いに利用されていた。
最後に蛇足として、両毛線の“毛”の由来を探索したので記しておいた。この文字は古代にこの地方に栄えた「毛の国」に由来しているようだ。日本の律令制以前の7世紀頃に関東に栄えていた文化圏の一つに「毛の国」があった。その名の起源には次の説がある。
1):大和王権下の人々よりも当地の先住民の人々は毛深かったので、毛人と呼ばれその地は毛国と呼ばれたが毛国名は二字表記なので「毛野」の字が当てられた。
2):毛は二毛作の毛、であって、すなわち禾本科の穀物を指していた。昔この地域が穀物の産地であったことから毛野の名が付けられた。
3):この地は豪族 毛野氏(けぬし)が治めていた。
そして、律令制下では毛野国は都に近い方から上毛野(こうずけぬ)国と下野(しもつけぬ)国に分かれて置かれた。そして、合わせて、あるいはどちらかを毛州(もうしゅう)と呼んだ。そして合わせて両毛(りょうもう)とも呼ぶようになった。現代では、この語は上野と下野の境界付近の狭い地域を指すことが多いようで、栃木県南西部から群馬県南東部に跨がる 一帯を指しているようだ。また、律令時代に都から関東、東北地方へ向かう官道である東山道(あずまやまみち)は都から美濃(岐阜県)、信濃(長野県)を経て上野(群馬県)、下野(栃木県)を経て陸奥(白河以北)のそれぞれの国府を通って通じていた。この両毛線の沿線はこの道筋に当たっていたから早くから開けており、それ故に岩舟産の高勝寺などが早い時期に創建されたのであろうと推察している。
撮影:昭和43年(1968年)4月20日。