自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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028.
原始SL“チャールストン最良の友号”
(アメリカ・サザン鉄道)
〈0001:〉
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〈紀行文〉
1970年頃から、鉄道誕生150年の祝祭行事が英国をスタートして、ヨーロッパ各国やアメリカを巡って催されていた。 どこの国にも最古の蒸気機関車と称される原始SLが記念物として、大切に保存されているようだ。イギリスでは石炭を消費地に運ぶために馬車軌道やぶ重力軌道が盛んで、これに代わるためにR・トレビシックによりsLが発明され、1825年に至って有名なストックトンーダーリントン間のロコモーション号による旅客列車が始まり、発展して行った。アメリカではイギリスに遅れることわずか六年ほどで、蒸気機関車で旅客輸送が始まったのだから、イギリスにはおよばないが変わった原始機関車が保存されたり、レプリカが走っているのも不思議ではないのだった。しかし、日本では明治5年(1872)の新橋-横浜の開通の文明開化の際に、すでに近代化したSLがイギリスやドイツ、アメリカなどからやって来ているし、それ以前にも、ペルリ提督の献上した模型蒸気機関車(1854年アメ
リカ・ノリス製)や長崎の造船所の構内SLが知られているが、何しろイギリスでのR・トレビシックがSLを発明してから六八年も後だから原始機関車はなかったのも無理はないだろう。
その昔、イギリスからアメリカ大陸に渡ったSLの技術は、サウスカロライナ州の チャールストン(Charleston,SC)で六年遅れの1830年のクリスマスにサウスカロライナ運河鉄道が旅客列車の定期運行のサービスを始めたことにより開花した。この鉄道の創立100年を記念して作られた実物大模型(レプリカ)の走行を見る機会が偶然にも訪れたのだった。それは1979年7月の或日曜日、ケンタッキ州にあるサザン鉄道のケンタッキー河の深い渓谷にに架けられたハイブリッジを撮影に出かけた帰り道で、州都レキシントンのさざん鉄道のブロードストリート駅まえで、サザン鉄道展示車輛(バーラーカー)が来ていて、その記念SLである“チャールストン最良の友号”が集まった市民を試乗させると云う地元への企業PRをしているのに出遭ったのであった。
このような風景を見ていると、自然科学を応用した近代的工業原理について、学習する時には、このような原始機関車のような古典期における科学の実体を身をもって、理解できるような機会を提供する場として、博物館や記念物の果たすであろう役割は誠に貴重ではないかと思ったものである。その意味で、この赤と緑でペイントされた原始機関車の運行の仕組と、今では見られない古典的な服に身を固めた、ベテラン達、それはエンジニあー(機関士)、ファイヤーまん(助手)、車掌などの人々の細々したしぐさなどには、乗車している人々の心をゆったりと和ませる余裕さえ感じさせているからである。
処で、アメリカで初めて走った蒸気機関車は東海岸に沿った低い山地に炭砿が開発され、その輸送のために、イギリスから輸入されたものである。石炭は二九マイル離れた波止場に重力軌道で運ばれ、運河を経て各地に出荷されていた。そこで、このペンシルバニア石炭会社は、イギリスで使われているという蒸気機関車を使えば、経費と同時に時間も節約出来るのではないかと考えていた。そして運河を持つハドソン運河会社はH・アレンを代表としてイギリスに送り、四輛の蒸気機関車を買ってこさせたのである。
当時のイギリスは、時速八〇キロのスピードを出したといわれるロケット号の頃であって、各地の炭砿では多くの“グラスホッパー(バッタ)型蒸気機関車”が、ボイラーの上に大きなてこを動かして活躍していたのであろう。
四輛のうちの一輛がペンシルバニア炭砿に買われ、アメリカで最初に走った機関車(勿論、イギリス以外では初めて)として名を残したが、残りの三輛の行方は判っていないのである。この名前は製造したイギリスのフォスター・ラストリック社のあるスターブリッジの地名とこの機関車の来た炭砿の作業者の一人が煙突の前面にブライトレッドのペンキでライオンの顔を描いたことで、ライオンと名付けられたのである。
この機関車はイギリスで1813年にB・ヘドレイが作ったバッタ型であって、ボイラーの上に踊るように上下するテコのある、原始的な姿の炭砿用SLであった。試運転はH・アレンの手で行われ成功したのであったが、定置式蒸気機関に車輪をつけたようなもので、単煙管ボイラーを積んだ八トンもある重さのゆえに、木製の重力軌道にはあまりにも重すぎ、レールを破損することが起きたのである。会社はレールを変更するのは大変だとして、機関車は車輪を外され定置工ンジンとして炭砿で使用されることになったのである。これは1804年のトレビシックの蒸気機関車が、成功したにもかかわらず鋳鉄製のレールを折損したため消えてしまったのと同じ運命をたどったのであった。車輪を失ったがゆえに幸運にも長く使用され、今ワシントンのスミソニアン科学博物館に保存されている。
次に、アメリカで最初の定期旅客列車を牽いたSLの話は鉄道が輸送手段としての地位がやっと判り始めた頃に、サウスカロライナ州の大西洋に面した港町チャールストンにサウスカロライナ運河鉄道会社(South Carolina Canal and Rail Road Company)が1827年に生まれたことに始まる。
ここで最初に、この街に鉄道が生まれる必然の背景を述べておこう。17世紀半ばバージニア植民地の南方に設けられたカロライナ植民地の中心となっタチャールストン開拓地も、イギリス国王 チャールスU世 の名に因んでおり、自然の良港であったことから西インド諸島を初めローロッパ諸国や先進植民地との交易に便利だったことで急速に発展し、植民地全体の政府所在地となった。
初期にはアフリカ奴隷の受け入れと同時にインデアン奴隷の移出港としてにぎわったし、アフリカで稲作に熟練した奴隷がチャールストン近郊で収穫されるカロライナ米は西インド諸島での砂糖きびプランテーション労働者の食料としてちんちょうされたし、次第にタバコや綿花の農園栽培が内陸に進展するに従い、南部一帯の産物の積み出し港として莫大な富を謳歌したのであった。そのうち、広大なプランテーションのオーナー「プランター」達は、この町に豪邸をかまえて生活するようになった。そのため、ここには、教会、州の劇場、州の博物館、公立学校、市立大学などが次々と建ち、文化の面でもめざましい発展をとげていたのだ。
とにかく、当時のアメリカの中では、このチャールストンは、最先端を行く町だったのには違いない。そこに登場するのが鉄道であったのである。
そののようにして、次第に増える輸送をまかなうための動力源として、風力、馬力、蒸気エンジンなどの中から何かを選択をする必要があった。この会社の若き主任技術者はH・アレンは蒸気エンジンの採用を強く推奨していた。彼こそ前に途べたライオン号をイギリスから輸入して来たその人であった。そこで、会社は400ドルの大金を投じて蒸気機関車を作ることとなった。先ず線路は、木材に鐵板を張ったレールを軌間5ふィートでチャールストンから6マイルを1930年までに完成させた。一方、蒸気機関車は、当時の炭坑の水揚げポンプや機械工場の動力として定置ボイラー式蒸気機関が多く使われていて、それらの製造をしていたニューヨーク州のウェストポイント鋳物工場に注文された。そしてアレンも、その設計に参画して製造が進められ、1930年10月には海路チャールストンに到着して、かんせいした6マイルの路線を走ったのである。この試運転は大成功であったので線路は次第に延長されて行った。この繁栄する港町チャールストンのの将来を束する象徴としての内陸からの運送路を走る機関車には「チャールストン 最良の友号(The Best Friend of Charleston)」と名された。そして1のクリスマスにァメリカ最初の蒸気機関車牽引の定期旅客列車が開業したのである。この日は時速二四キロのスピードで走り、市民の大歓迎を受けた。機関車はボトル型のボイラーが立ち、B型車輪配置で、フレーム内側の二本のシリンダーにより後軸のクランクを駆動する形であって、アメリカで作られた機関車の特徴の一つである軽量なものであった。開業後、間もなく不幸なことに、神経質なボイラーマンが安全弁からシューともれる蒸気の音が気になり、ひもでしばってしまったためにボイラーは破裂しバラバラになってしまった。残った部品を集めて直ちにフェニックス号が作られ、鉄道は発展していった。
その後、蒸気機関車の前に1輛のフラットカー(平貨車)を連結して、その上で薪を焚い
て夜間列車を走らせて有名になった。
そして南部の山沿いのピートモント台地に広がる農園からのタバコ・綿花などの農産物の港への輸送を狙って線路は延伸され、Charleston、SCから H
amburg, SCまでの136 マイルが1833年に開通し、その年の10月に初のま旅客列車が全通を祝った。この鉄道はCharleston and Hamburg Railroadと言う子会社が運営しており、当時世界最長の鉄道だった。一方貨物の経済効果は河川ボートに比べて半分の輸送コストとなった。それに気を良くしてオハイオ河畔のシンシナティまで路線を延ばす計画を立てるほどであったと云う。
この「チャールストン 最良の友号」のレプリカ(実物模型)は、運河鉄道会社開業100年を記念して、1929年に、この会社の後身であるサザン鉄道が自社工場で制作したもので、オリジナル設計に基いており、軌間とブレーキなど、ごくわずかの部分が近代化されているだけである。
そして長年にわたって、サザン鉄道の記念行事や
夏休みの頃、サザン鉄道の走る各都市を訪問するのが通例となっているようだ。
その後このレプリカはチャールストン市に寄贈されていたが、2005年8月再びノーフォーク・サザン(Norfolk Southern:NS)鉄道に5年間リースされることになり、自社のチャタヌーガ工場でお化粧を施されてから、2005年12月から
アメリカ鉄道175年史を記念してニューヨーク商圏取引所の前に展示された。2008年現在アトランタにあるNS本社前に公開展示されている。
又、これとは別の実物模型(れぷりか)が州都コロンビアにある「South Carolina State Museum」に展示されている。
撮影:1980年
発表:「塗装技術」誌・1991年七月号表紙