自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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にある送付先へドウゾ。)
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020.
こぶしの
花咲く
南インデアナ
・アメリカ
〈French rick West Barden & Southern Railway〉・インデアナ州
〈0002:〉
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〈紀行文〉
私がデトロイトに駐在していた1978年には、ここのSLが到着し、来年の春から稼働するだろうとの観測記事が雑誌に載った。その後、オハイオ州に移ったが、81年の晩夏の週末に南下してシンシナティに向かった。その市内に入る前に古い二車線の田舎道に等しい国道50号を2時間位ドライブを更に続けると、Bedfordの町に入った。この一帯はインデアナ州を南北に走る石灰岩ベルトであって,大きな大理石露天堀場を示す標識がちらりと見えた。そして、大きな上り下りを繰り返す道を飛ばして来たのだが、未だ知らないルート、特に闇夜のドライブはほんの僅かの距離であっても不安がつきまとうと同時に期待が交錯するものだ。坂を登った所、もう僅かと云う所で赤いネオンの“空き室あり”に誘われてモーテルに投宿した。翌朝出てみると予想をしていた以上に明るい谷,地元ではスプリング・バレーと呼ばれる谷の入口に当っていた。緑の濃い森林に覆われたHOOSIER国有林地域の低い丘陵地帯にはいったのである。曲りくねった道が急に街路樹の植えてある欧州調に変った所が南ドイツのローマ皇帝が開いた有名な温泉保養地BARDEN-BARDEN(お風呂-お風呂)の名をいただいたWEST BARDENの街である。メインストリートを1マイル足らずのドライブで、左手に平行していた鉄道が消えたと思ったら、踏切となって再び現われたのは大きなブラウンの温泉リゾートホテルの建物であった。踏切の右手は平行した数本の側線が広がり、その脇に取りすましている悠然たるふくフレンチリック駅の前にはFLWB&SRWYの案内が出ていた。
これは1960年代から地道な活動を続けていたインデアナ鉄道博物館を名乗るボランテアグループが、1979年に開設したばかりの保存鉄道であった。この時には駅が公開されていたけれども、お目当のSLaD97は修理中で、代役のDLは近くのショートラインAW&W鉄(インランドスチール社の工場専用線)から譲り受けたALCO製S-4が列車を引くとのことだった。実は、いつも沿線のロケハンを優先して、列車に乗る機会が中々訪れなかったから幸いとも思えた。客車は南インデアナにまで触手を伸していたミルウォーキー鉄道のコンバインなどの二輛である。
出札口脇の時刻表にはわざわざEST(東部標準時)とことわっている。
ここに来る人々が、東部からの人が多いこともあろうが、インデアナ州はCST(中部標準時)に属しているはずなのである。
車掌氏いわく、インデアナ州は夏時間(DAY LIGHT SAVING 日照節約時間、いわゆるサマータイム)を採用しないので、回りの州から来る人のため時差が混乱しないようにこのESTにするとのこと、この夏時間には笑えないトラブルが多く、その適用の時期、地域が市町村の自由に委ねられているために、僅かの旅行に数回も時計を合せ直すと云う笑えない話があるとか。
乗客のほとんどが温泉地でバケーションを楽しむ人々であり、ホテルのロビーに大きなSLのパネルが保存鉄道の旅に招いているのだ。US-56の踏切りの交通を止めている間に、ゆっくり出発である。大きくカーブを描いて街並みの南側を通って山裾にとりつき勾配を上り始める。この地方に良い粘土が産出するとかで、昔、大きな焼物工場があったと言う高い練瓦の煙突の残廃虚をかすめてゆく。夏の森は見通しが全く効かない丘陵を進むうちに、州内最長といわれるトンネルが唯一の名所であるが近くを通る道路はなく、アプローチは困難に思えた。
所で、保存されているた駅は腰回りを、この地方特産の大理石で積み上げ、長いひさしを持っているのは典形的な MONON鉄道の駅の出来栄えとでも云えようか。床は紅のじゅうたんが広い待合室と事務室に見事に復元されていた。また、古風な木製の電話BOXは元シカゴ市内の街頭にあったものが寄贈されたとか。出札回りの内装の木枠も重厚な飴色のニスが光り、最盛期ののリゾート地の駅らしい豪華さが一杯だ。勿論、大金持ちは直接ホテルのプラットホームへ私有客車で到着したりしたのだろうか。
所で、aD97の故障は今シーズン途中で、火室の損傷という事態になり、裏手の方で修理の最中で、この冬を掛けて煙管の交換、火室の綱板張り替え、練瓦の張りつけなどをこの基地で、しかも屋外で完了させようとの計画であった。
さて、SLaD97のことについてちょっと触れたい。
動輪径は小さく、重心の高そうなモーガル(2-6ー0)は典型的なショートラインのSLだ。1926年ボールドウイン製で、深南部のアラバマ州にあるモービル・アンド・ガルフ(Mobile&Gulf)鉄道の主役として、僅か14マイルのルートをたった1輛か 2輛の無蓋車を牽いて走っていた。名前はメキシコ湾とその海岸の港町の名をつけた鉄道ではあるけれど、内陸のイリノイ・セントラル・ガルフ(ICG)と接続していた。1960年代後半まで蒸機運転のショートラインとして鉄道情景写真ファンの間では有名で、“Dexie-Simplicity”(南部の簡素さ)の見本のような飾り気のない外観は今も同じであるとのことだ。
そして、次の訪門は帰国の迫った82年のオープニングの日で、元MONON鉄道の駅本屋も更に磨きがかかっており、その裏手には紺色の私有客車(パーラーカー“BIRMINGHAM”)が復元展示されたし、新しいDLも入線し、その発展振りは眼を見晴らせるばかりである。
入れ替え作業中のbX7は豆粒になるくらい遠くに転線、短い列車が編成されてきた。
春の早い南インデアナには、4月の末ともなれば、葉の出ていない丘陵の裸の樹々には、州の花であるチューリップトリーやドッグウッドの白い花が見え隠れするのである。何とかして早春の葉の出ていない高木に咲いている白い花を全景にSLを撮ろうと探し回ったあげくにやっと見つけたのがこの場所であった。オープニングの一番列車には監視のための人が乗り込んで慎重な運転でトンネルを目指して登って行った。
ここで蛇足だが、“Frenchlick”(フランス人、なめる)と云う奇妙な地名の語源考とと 鉄史に少し触れたい。実は、アメリカ新大陸への探検には二番手であったフランス人達は北はカナダノセント・ローレンス河を遡上して五大湖方面への進出と、もう一方は、メキシコ湾からミシシッピー河中流域のルイジアナ地方への進出を果たした。前者はカナダの一部にフランス文化が依然として勢力をたもっているし、後者はミシシッピー河口にあるニューオルリンズがフランスの情緒を残す港町として知られては居るが、ナポレオンがルイジアナ地方をアメリカに売却してからは、専らアメリカ人の西部開拓によって開かれ、フランス人の痕跡は消えてしまっているのだが。しかし、ここでは、フランス人達が湧き出す温泉の湯が傷の療養に良いことを見つけ、それに、温泉の水を引用薬として売り出すなどがせいこうして次第に有名になっていた。また、この近辺に大きな岩塩の露頭が分布していて、それをなめたり、砂浴びをするために集まってくる動物たちの多いことでもしられていた。その後に、やって来たアメリカ人達は、“フランス人”と“なめる”をあわせた地名で呼ぶようになったと地誌は語っている。
今は、温暖な気候と、豊かな自然を売り物にしたと豪華なヒルトン・ホテルがFrenchlickに、数々のイベントコールが立ち並ぶWest Baodenから成り立つリゾートはかなりの賑わいを誇っているが、1946年のカジノ禁止まではWest Bardenにあった賭博状は大陸最大の歓楽地であったと云う。
20世紀の前半の鉄道全盛期の時代には、この保養地で開催される政財界のコンペンションには、その世界の大立て者達が、それぞれの私有客車(プライベートカー)を駆って参集した。そのための鉄道施設は充足しており、それにふさわしい豪華な駅と多数のプライベートカーが来訪しても決して狭くない線路が用意されているのには驚かされる。
この温泉地に鉄道の便がもたらされたのは19世紀も終ろうとする頃であった。文化の入口であるオハイオ河の北岸にはニューオーバニーの港が繁栄していた。この頃は未だ交通の主役は運河で、鉄道は運河の通れない山岳地での補助用途思われていた時代であったが、町の有力者はオハイオ河北岸の石灰岩の断崖と内陸の丘陵の続く地形から鉄道によるオハイオ河と遠く北のミシガン湖とを結ぶ州の交通大動脈とする夢を描いていた。そして、1847年になると内陸のセイラムに向って軌間4 フィートの鉄道が建設され始め、それは州内初の鉄道であるNA&SRR(ニューオーバニー・アンド・セイラム鉄道)であった。その建設のスピードは速く、1852年にはBedfordに、更に北方へ勾配の少ないルートを選びながらミシガン湖畔のミシガンシテイに到達した。その時に既にシカゴが交通の中心地として重きをなしており、一方州都が鉄道から外れた所に建設されたことから、早速シカゴと州都とへの連絡する鉄道の建設を始めた。そしてき1881年に合同してCHICAGo, INDIANApoLis,&,LOUisviLLE 鉄道、別名MONON ROUTEが成立した。同時にPRR(ペンシルバニア鉄道)との協力のもとでオハイオ河を渡りルイズビルへの乗り入れに成功している。
さて、フレンチリックに鉄道が敷かれる契機は,西インデアナに発見された露天掘りの石炭を輸送するためにL,NA&C鉄道のorleansからフレンチリックを経由した鉄道の免許が取られた。それをL,NA&C鉄道がこの計画を買収して、僅か9マイルの支線がフレンチリックまで開通したが,その先は都合により放棄されてしまった。
そして、この支線は専らフレンチリックを訪れる大勢の人々の足として、各地から直通列車が設定された。いずれのばあいも、MONON自慢のK-6型パシフィックがその仕業を一手に引き受てていた。また、フレンチリックから南の鉄道は,Mononは延長をしなかったが
イズビルからセントルイスに至る鉄道が SOU(サザン)鉄道になった後、その中間点の Huntington からの支線32マイルが建設されフレンチリックに南から乗り入れた。
何んと言っても最大のイベントは、6月の第一水曜日のケンタッキー・ダービーの週の賑いであろう。シカゴ、セントルイス、シンシナティ経由でワシントン、にゅーよーくなどから20本余りの列車が到着し、さしもの広いヤードから引込線に至るまで100輛を越える私有客車のパーラーカーなどがひしめき合ったのである。ある富豪は自分の楽団をひきつれ、ブルマンカーで到着するのであった。そして当の朝一斉にルイズビルに出掛け,夕方になると戻って来て勝っ人も負けた人も今一度力ジノで再び運を試すのであったと言う。
その後、旅客列車は廃しとなり、1976年になると親会社となった L&N(ルイズビル・アンド・ナッシュビル)鉄道は物量のないPoali以南を廃止した、すると、SOU側もDubois 以北が廃止された。今 FL,WB&S RWYの運転している18マイルがこの廃線部分にあたるのである。
撮影:1982
発表:年賀状、文章は「レイル)誌・1984年7月号