自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|  HOME  | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………

016. 日和山(ひよりやま)暮色 ・羽越本線/加治側橋梁のDC


カッコ 〈0001:加治川の夕暮れ、SLが来ないうちに陽はおちてしまった。〉
日和山暮

…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
 私の故郷は新潟市である。40数年も前のことであるが、社会派の著名な写真家・浜谷浩さんの写真集「裏日本」が刊行され 、大変な好評であった。その中に、『21世紀の驚異の東京を夜汽車で出発して、朝になると、そこには18世紀の驚異があり、沿線を歩けば中世期の生活様式さえ見ることができる』と云わしめたものである。
この写真集の主題として撮影された冬の裏日本も、冬に強い上越新幹線や高速道路の開通で急速に消え去ってしまったようである。積雪の多い山間部はスキーのリゾート地帯に変貌し、海岸地帯にはシーフードを求める人々のためのグルメ街道が出現すると云った賑わいである。
 この写真集に見られる「裏日本」のイメージも希薄になっている今日、この半世紀の間に姿を消した新潟の砂丘のある海岸風景のことが思い出される。それは太平洋戦争たけなわの東京空襲が始まった頃、私は小学4年生であったが、父母の郷里である新潟に疎開したのであった。そこは新潟の古町十三番町と云う場末であったが、近くの海岸には砂丘のせり上がった日和山(ひよりやま)があり、その頂上には展望台があって、砂丘と信濃川との低地に柳と堀割りで仕切られた新潟の古い町並が見えたし、海岸の波打ち際の方向には晴れた日には佐渡ケ島が姿をせた。日本海の落日の美しさには定評がある。しかし、私の脳裏には落日のイメージは全く残っていないが、広い砂丘に茂っていた赤い実のなるグミ原の続いていたことと、波打ち際に打ち上げられる消し炭を拾って歩いた記憶のみが残っている。
 そこで、世界の落日を紹介した絵葉書を見ると、ハワイやバリ島など南の島で、椰子(やし)の樹を前景にした美しい水平線の色彩がクリヤーに感じられる。またインドネシアのシュガー・トレインを牽くロコを夕日の中に捕らえた写真をため息をついて見たときもそうだった。しかし、日本海のそれは、もっと鈍い感じのしっとりした情景の色彩のような感じがしている。これは、寒流系の支配している日本海に、黒潮から分離した対馬暖流が日本列島の沿岸を蛇のように流れて北上している海洋気象のためではないだろうか。
冬期に多く積もる湿った特徴のある雪は、スキーヤーにとってワックスの選択を手こずらせるのであるが、これも日本海特有の気象現象の働きとされている。
 さて、私には夕暮を背景にSLを撮ろうとしたことはかって無かったのだった。所が、落日の太陽の中に発着するジェット機を撮影した大阪人の写真家の発表があって以来、太陽の中にSLを影絵のように入れてみようと試みたことがあったが、成功はしていない。夕暮に対して、日の出を背景にしたSL撮影には数多く挑戦し、それなりの成果を得てきたことを考えると残念なことである。
い ずれ後に、展示の栄誉を与えられる筈の「笹川流れ」と云う新潟と山形の県境おなす日本海岸でSLを追った撮影行の帰り道で、狙ったのがこの落日シーンである。運悪くこの時刻にはSLの通過がなかったのは残念と云う他はない。
ここは越後山脈から流れ出て、広大な北蒲原平野の大水田地帯を灌漑(かんがい)して阿賀野川に注ぐ梶川の最下流の羽越本線の鉄橋である。
丁度、この季節は水田に水が不要なので川の水位は排水乗のフル稼働で意外に高かった。
この上流には桜並木が土手の上を長々と埋めており、桜名所として、また水害の頻発でも世に知られている。このスナップの落日は私が忘れてしまっている少年時代に見たであろう日和山の落日になぞらえて「日和山暮色」と題させてもらった。

撮影:1969年
発表:「塗装技術」誌・1990年11月号表紙