自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ保存 & 日本現役
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013.
「きらきら羽越」の走る笹川流れ
・羽越本線/今川〜越後寒川
〈0001:aF狐ヶ崎をバックのC57トップナンバーの牽く客レ〉
sl013. 0001. 縦位置
〈0002:a@:“蓬莱さん(ほうらいさん)”俯瞰・羽越本線〉
〈0003:a@:笹川流れを行く羽越線はC57の独壇場〉
〈0004:bR10915:旧県道のトンネルから〉
〈撮影メモ〉
この笹川流れに沿っていた日本海縦貫線の一環をなしていた羽越本線でSLが主役であった頃、道路は県道として指定されてはいたが、ご覧のような素掘りのトンネルが通じていただけであった。
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〈紀行文〉
私の郷里が新潟であったから、帰省の度に羽越本線沿線を新津から北へと撮影の足を伸ばして行っていたが、特に、山形との県境に近い「笹川流れ」の景観に執着していたことが想い起こされる。それは、昭和50年(
1975ねん)3月に埼玉県浦和市で催した個展での展示作品では、「笹川流れ」と題した全倍のモノクロームの写真を故郷の代表的景観として展示した。この制作には、暗室に通い詰めて十数枚も焼いた末に作り上げたのだった。それには、波立つ日本海の対馬暖流の潮流と、この地のシンボルである蓬莱山(ほうらいさん)の花崗岩(かこうがん)質の岩肌感と、白い砂浜の渚(なぎさ)に刻まれた足跡の模様、それに長い貨物列車を牽するD51の吐き出す白白煙の印象などをバランス良く写し込むことのためであった。
果たしてweb画像ではどのように表現できているのであろうかが、私の懸念なのだが。
昭和43年頃からのこと、新潟の実家を夜明け前に出発して、ひたすら国道7号を北上し、古い城下町の村上から海岸沿いの狭い砂利道の主要地方道 村上〜温海線に入った。この道は昭和40年になってやっと小さなクルマが何とか通り抜けられるようになったと云う難路の極みであった。やがて羽越本線と並走するようになり、村上市北部の漁村 桑川にたどりついた。
前に笹川流れの潮流を見ながら、断崖絶壁との間にある平地を漁師集落と狭い県道と羽越本線が並んで走っている辺りを過ぎると、1kmも続く白い砂浜が広がっていて、その眼前には、これまでよりひときわ巨大な岩山が、真っ黒な影となって迫ってきた。これは正に海岸に天を突く蓬莱山(ほうらいさん)と名付けられた巨岩であった。地形図を見ると頂上に三角点があって標高88mよ表記されたれっきとした山であった。この名前は古代中国の伝説にある、不老不死の仙人の住まう蓬莱山に形が似ていることから付けられたと云う。その半島状に海岸線に突き出した岩山と本土とを繋ぐ鞍部を鉄道がトンネルで貫いていた。これらの風光を一枚に収めようとして俯瞰(ふかん)撮影を試みることにして、線路脇で山を削って出来た格好の高い擁壁を見付けた。これはかなり垂直に近い角度で高くせり上げられているコンクリート擁壁(ようへき)であって、その縁をよじ登って頂上に生えていた松の幹に身体をロープで結んでから、手持ちのコニカプレスで撮ったのであった。今ではこれほど高い一枚の擁壁を作ることは極めて希れあって、それは作業員の転落時の危険軽減などのために一定の間隔ごとに犬走という水平部分を設けるようになっており、この高過ぎる擁壁は貴重な土木遺産となっているようだ。この撮影行は何回か繰り返して試みた覚えがあり、やっと選び撮った写真がこの一枚である。
この羽越国境(山形と新潟の県境)の日本海岸は葡萄(ぶどう)山系が海に迫っており、鳥越山から狐崎までの全長11qは岩礁の荒々しい海岸と白い砂浜が交互に続き変化に富んでおり、それに多くの岩礁が海中に続いていたから、海も陸も交通の難所が続いていたのであった。ここは津島暖流の潮流が岩礁の多い海岸近くを しぶきをあげて盛り上がるように北流している所で、この海に面している集落 笹川の名に因んで「笹川流れ」と呼ばれており、日本海への落日、透明度の高い澄み切った碧い海と白砂のコントラスト、それにどっしりとした莱山を初めとする奇岩などの景勝を合わせて昭和4年に国の名勝天然記念物となり、国定公園となっている地域なのである。この地域を羽越本線ならば、越後早川駅の直ぐ北にある馬下集落から海岸風景が良くなり、桑川駅→今川信号場(1987年に駅に昇格)、そして越後寒川駅の南にある脇川集落で海岸風景は終わるのだが、これを街道筋の集落で云うならは、馬下〜桑川〜笹川〜板貝〜今川〜脇川と云うことになる。こんな狭い地域に“川”の付いた地名が七箇所も現れて来る異常さには驚かされる。
かて、昔から越後(新潟県)と出葉(山形県)とを結ん道筋には村上城下と鶴ヶ岡城下を結んでいた出羽街道が知らけていて、参勤交代には利用されていない街道ではあったが、古くから軍用道として使われ、江戸後期は出羽三山への参拝者や物資の流通、1古い温泉で鶴岡の奥座敷と言われた
湯田川温泉への道として賑わったと云う。
この越後と出羽との国境の越後側には朝日飯豊(いいで)連峰から分かれた葡萄(ぶどう)山塊(主峰は 葡萄山:標高 795m)が日本海に迫っていたから、その葡萄山塊の東に位置する鞍部の葡萄峠の山越えの難所を通り抜けなければならなかった。この本堂を利用するのが常であったが、それとは別に、出羽街道浜通りと呼ばれる道筋も古くから存在していた。これは新潟の沼垂(ぬったり)を起点に海沿いを村上城下へ、さらに海岸沿いを北に向かい出羽国との国境「鼠ヶ関(ねずがせき)る至る路であった。その昔、「義経記」によれば頼朝に追われて陸奥(むつ)へ北上する義経一行は沼垂から浜通りの松原、岩船を通ったとされているのは、この道筋とされている。ここの荒れた波に侵食された岩肌、多数の奇岩が並ぶ海岸の桑川集落から笹川、そして板貝までの2kmは最も険しい岩礁で「笹川流れ」の中心でアり、その昔、ここは人が歩いて通ることも困難な「難所」として知られており、山をよじ登って越える険しい板貝峠を抜けるのか、または渡し舟を使わなければならなかったことが物語っている。だからこの道は訪れる旅人は少なく、道は街道と云うよりは、浜と浜を、集落と集落を、細い糸のように繋いだ生活道路としての役割が大きかったのだろう。今も部落の中をジグザクに通る狭い道や、岩礁の海岸線を迂回する山の峠やトンネルを抜ける道、断崖を渡る「へつりの渡し」などの古道の痕が残っているのだった。
そんな場所に旅の途中に訪れたのが、江戸末期の文人・頼山陽の子で、詩人・幕末の志士でもあった頼三樹三郎だった。彼は舟上から眺めた景観を松島と男鹿の美観を併せ持つすばらしさと感じ取って、「松島はこの美麗ありて此の奇抜なし、男鹿もこの奇抜ありて此の美麗なし」と詠んだとのことである。この詩は「海府游記」の一節として残されており、この詩を刻んだ「頼三樹三郎記念詩碑」が笹川に作られているとのことである。
それに反して、この浜通りを避けて、鼠ヶ関を越えて本街道である葡萄峠を通って越後へ向かった芭蕉の「奥の細道」があるのだが、記録は乏しいのが残念だ。
『鼠の関を越ゆれば越後の地に歩みを改めて、越中の国 市振の関に到る。この間九日、しょしつ(諸疾)の労に心を悩まし、病起こりて事を記さず。
「ふみ月や六日も常の世には似ず
あらうみや佐渡に横タウ天の川 芭蕉』
芭蕉は、この越後では途中の葡萄峠越えや、村上や今町での俳句会、それに弥彦にも立ち寄っておるのにも係わらず、この越後路を省略してしまったのはどう云う訳であろうか。葡萄峠の困難も予想されるのだが、その理由は不明であるようだ。しかし、その後に、芭蕉の足跡を訪ねる人々、例えば柳田国男は北国紀行で鼠ヶ関を通る前に芭蕉も通った越後側の葡萄峠を越えているが、この山中には大規模な牛飼いありと記しているし、また文人の田山かたえ は大正7年に芭蕉の跡を辿る旅で葡萄峠を越えているが、羽越本線の開通によって寂れた峠道の変貌振りを「葡萄峠を度る」大正8年8月刊)で書いている。どちらを読んでも、決して楽な道筋では無かったように想われる。もしも芭蕉が「笹川流れ」を鑑賞したならばどんな名句が残されたのであろうか。
さて、最後に羽越本線の建設の歴史に触れておこう。先ず、裏日本は江戸時代から北前船と呼ばれた海運が盛んであり、直江津、新潟・酒田・本荘・土崎・能代等の諸港から諸産物を津軽海峡または下関海峡経由で運んでいた。
ところが、明治の初期に計画された東京から神戸を結ぶ「中山道幹線」を建設を進めるためには、その建設資材を関西から日本海経由の開運で日本海に面した直江津港に陸揚げし、内陸の幹線の通過する上田付近へ運ぶための鉄道、すなわち信越本線の前身である官設直江津線を明治18年(1885年)に着工していた。
それは信ところが、その「中山道幹線」が「東海道幹線」へと変更されてしまった。しかし、直江津線は順次延伸して明治26年(1893年)には碓氷峠(うすいとうげ)をアプト式鉄道で乗り越えて高崎に達して、東京への直通列車が走るようになっている。
やがて、明治25年には国が建設すべき鉄道路線を査出せる鉄道敷設法が公布され、その3路線の中で日本海に沿った鉄道は次の二線が規定された。
1)北陸線:
一 福井縣下敦賀ヨリ石川縣下金澤ヲ經テ富山縣下富山ニ至ル鐡道、富山縣下富山ヨリ新潟縣下直江津ニ至ル鐵道。
2)北越線
一 新潟縣下直江津又ハ群馬縣下前橋若ハ長野縣下豐(豊)野ヨリ新潟縣下新潟及新發(発)田ニ至ル鐵道。
しかし、新潟の地元の誘致運動にもかかわらず予定線
の北越線は建設線への格上げが実現しなかったのは、当時の方針が、海運と競合する場合の鉄道の敷設はなるべく認めない方針であったというのである。
そこで地元の資本家が集まって民営の北越鉄道を創立した。そして官設鉄道の直江津線や碓氷峠(うすいとうげ)のアプト式鉄道を完成させた本間英一郎(ホンマ ヒデイチロウ、1854-1927)を技師長として招いて、直江津から新潟、新発田を目指して建設を始めた。終点の新発田は蒲原平野の中心にある旧城下町でありことから選ばれたものであるが、阿賀野川に長大な橋梁を架けねばならな買ったため新発田への全通は大正元年まで遅れた。
一方、国の建設すべき鉄道予定線に漏れた羽越線(
新発田〜秋田)の沿線では、冬季の日本海は荒天が続いて、舟運は途絶し勝ちでありことから鉄道の敷設の必要性を強く陳情していた。その後に行われた明治26年の全国鉄道線路調査に際して、新発田−秋田間の羽越線が最急勾配1/40として計上されている。これは日本海岸の断崖が海上に迫り、海岸線もかなり複雑化しているので、短絡するためにこのような計画にしたと思われる。
その後も地元の人々は何回か議会に請願していたが、明治45年になって、ようやく村上線(新発田〜村上」が予定線に編入され、大正3年末には村上まで開業した。そして、村上−秋田間は大正4年に法律を改正し、大正15年まで、12年計画で建設することになった。そして北からの工事が先行した。最後に、「笹川流れ」が含まれている村上−鼠ヶ関(ねずかせき)間が大正10年に着工し、三年後の大正13年7月31日に開通して前線が完成した。
この時には、かって再急勾配 25‰が予定された山越えのルートから海沿いのルートに変えて再急勾配を10パーミルとして、当時の先進土木技術を駆使して日本海に迫っている山塊の断崖を通りぬけている。これにより補機を必要としない平坦センで完成している。
ここで羽越線が全通したことによって、奥羽本線北半分・羽越線・信越本線・北陸本線などを通じて京阪神地方と北海道を結ぶ物流の最短ルートが完成して、多数の直通貨物列車が設定されるようになった。さらに、昭和6年(1931年)9月に上越線が全通すると、京浜地方と北海道との輸送の一部も分担するようになった。それで1965年からは貨物時刻表にも、前々から部内で使われていた「日本海縦貫線」の路線表記がなされるようになったし、レールも50sレールへと強化されて裏日本を縦貫する幹線の役割を立たしている。それに昨今は、日本海への落日を眺められる沿線として脚光を浴びている。
撮影:1970年
発表:1975年個展「SLのある風景 日本縦断」
雑誌掲載:『レイル』 95号 (2015年夏の号)。