自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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007.  白銀の岩木山遠望 ・奥羽本線/五能線/川部駅

〈0001:15-4-10:朝のスナップD51452〉
15-4-10:奥羽本線川部駅、早朝のスナ


〈0002:15-4-12:五能線から岩木山遠望〉
逆向き牽引の客レ 五能線・川部−


〈0003:15-4-7:奥羽本線からの岩木山遠望〉
奥羽本線 浅瀬石川橋梁からの岩木山

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〈紀行文〉
 “よんさんとう(昭和43年10月時刻大改正)”の東北本線複線電化が迫ってきたので、その年の5月初旬に「みちのく」への撮影行に出かけた。先ず花輪線の竜が森、東北本線の奥中山、千曳旧線と浅虫温泉付近と順調に日程をこなして、5月1日の早朝に青森駅に到着した。そして夜明けを待って奥羽本線の矢立峠の手前の碇ヶ関(いかりがせき)へ向かうべく上り普通列車に乗り込んだ。間もなく早暁の青森平を西南に走り始めた。行く手には、北から津軽山地の南端にある梵珠山(ぼんしゅやま)、その山麓につながる大釈迦丘陵(だいしゃかきゅうりょう)、そして八甲田火山丘陵と続く山なみが近づいてきた。その鞍部の大釈迦峠を超えれば岩木山が山すそを長く引く津軽平野が広がっているはずであった。
この旅での峠超えは昭和38年に開通した勾配を緩和した新トンネルを抜けたのだった。その昔、明治27年の開業を目指した奥羽北線の青森〜弘前の建設の際には、この僅か標高100m強に過ぎない丘陵の大釈迦峠超えであったが、鉄路は北からは1.5km、南からは1.3kmも連続する25パーミルの急勾配をはい登り、そのサミットには長さ 271mの大釈迦トンネルを掘り進めると云う難所であった。この短いトンネルではあったが、地質が細砂であったため、地下水が砂層を透過して坑内に流出し、崩壊事故が発生して工期が大きく遅れると云う難工事に見舞われた。この古い隧道(ずいどう)も鉄道遺跡として大切に残されているようだ。
しばらくすると車窓から目指す岩木山の姿が見えがくれするようになった。山頂付近はまだ白い雲に覆われていたが、稲作業も始まった津軽平野からドーンとそぎえ立った山容を見ると、深田久弥さんの「日本百名山」の文句を思い出す。
『弘前から眺めた岩木山は津軽富士と呼ばれるだけあって、まことにみごとである。平地に孤立した山であるから、1600mの山とは思えないくらい堂々として、思う存分その裾を伸ばしている。この山は津軽地方では尊ばれているのである。』と。
この日本でも有数の広さを誇る津軽平野は南北ほぼ 50km、東西は20kmであり、その南西部には岩木山を望み、その南部の内陸にはリンゴの果樹園と水田が広がる中を昔の羽州街道、今の国道7号線と奥羽本線が東南から西南へと、津軽の中心都市である弘前を経て横断していた。
やがて川部駅を発車すると岩木山をバックに、五能線が右に大きなカーブを描いてリンゴ林の中に去って行き、続いて黒石方面から流れ下る浅瀬石川、続いて矢立峠方面から流れてきた平川の鉄橋を次々と渡った。そこで弘前が近づくと、ふと思い立って予定を変えて、弘前で朝飯にありついてから、再び下りの列車で川部駅まで戻って、その駅界隈(かいわい)で岩木山をバックに五能線の客レと奥羽本線の貨物列車を撮ることに決めたのだった。そこで弘前から川部までしっかりと乗り鉄を決め込んだ。
発車すると、貨物列車の引き上げ線を横目で見てから右にカーブし、市街地を抜けて北東に真っすぐに走ると、弘前バイパスをアンダークロスした。すぐに撫牛子駅(ないじょうしえき)となる。ここは難読駅名の上に、地名の由来も明らかではないらしい。
この辺りからは岩木山が良く見える田園地帯の中を北東に一直線に走る。最初に渡るのは長さ 117mの第1平川橋梁で、この川は青森県と秋田県の県境にある坂梨峠(標高 469m)の西麓に源を発し、矢立峠からの流れを合わせて北西に流れてきて、この鉄橋の先で津軽の母なる川である岩木川に注いでいる大支流であった。続いて渡るのは南八甲田山群の主峰である櫛が峰(くしがみね、標高 1516m)に源を発して西へ流れ下ってきた浅瀬石川鉄橋で、直ぐに五能線が左から近づいてくると、そのまま走って川部駅に戻ってきた。
 実は明治27年の青森〜弘前間の開通と同時に、川部駅も開業したのだったが、その陰では昔からの津軽平野の有力な町であった藤崎と黒石がそのルートから外れてしまったのであった。この藤崎町は、羽州街道の弘前の次の宿場であり、岩木川を下って日本海に面した十三湊(とさみなと)への舟運の起点と云う交通の要所であり、それ故に近くの平川と浅瀬石川との合流点に面した河岸段丘上には中世の津軽を支配していた十三湊の安東氏の発祥の藤崎城があったほどである。一方の黒石の町は浅瀬石川の渓谷の出口に位置し、弘前藩の支藩である黒石藩の城下町であった所である。
それ故に、大釈迦峠を超えてから弘前に至るルート案には藤崎経由案や黒石経由案なども浮上したが、結局、岩木川水系の支流である浅瀬石川と平川の橋梁建設の面から妥協がはかられて、現在の川部を通る田舎館(いなかだて)経由に落ち着いたという。実は、その頃既に地元では、弘前と五所川原を結ぼうとする津軽鉄道(初代)の建設運動が盛んにおこなわれており、川部を経由することが決まっていたことも影響していると推察される。その後、やがて川部駅からは、大正7年(1918)に五能線の前身である陸奥鉄道が藤崎を経て五所河原へ開通しており、一方の黒石へは大正元年(1912)に国鉄の黒石軽便線(後の黒石線)が約6kmを開通している。
 当時、この駅には2面4線のホームがあり、奥羽本線と五能線と黒石線との接続駅であって、一番線が五能線、4番線が黒石線の発着に使用されていた。そして、お互いのホームは、明治時代の古レール(1884の刻印がある)を用いて作られた年代物の跨線橋で連絡していた。それに、五能線の分岐駅であったことからか、構内は結構な広さであった。ちょうど、駅で待避していた貨物列車がいたので、構内を駆け回って撮ったのが最初の写真である。早朝の低い光線が足回りやテンダーを光らせた。もう少し位置がよければ足回りがギラリとなったのだったが。ここのD51452号機は昭和15年(1940)に汽車会社で製造され、主に東北で活躍していた。1971年の奥羽本線無煙化により、青森区から竜華区(りゅうげく)へ転属し関西本線で活躍した。廃車後、昭和47年の鉄道百年祈念で保存されることになり、青梅鉄道公園で余生を送っているとのことだ。
 ここで駅の外へ出た。大きくどっしりした木造の駅舎に、入口部分が小さい三角屋根になっているのも懐かしい。駅前では目の前に岩木山がお出迎え。そして国道7号に出て、五能線の跨線橋の上から付近の様子を伺って、撮影ポイントの目星をつけた。
もしも5月中旬だったらリンゴの白い花なのだが、花にはまだ早い林檎畑の向こうに 白い残雪に覆われた岩木山を狙って歩き回った。
先ず五能線列車を撮るべく線路に沿って歩いてリンゴ園を前景に撮った。今でこそ青森と云えば「リンゴ」と連想されるのだが、そのルーツは意外と新しい。それは明治8年に、新宿御苑の中に設けられた内務省勧業寮から苗木三十本をも配布されたのが最初である。弘前に試殖したものが明治13年になって結実した。丁度、明治天皇が青森へ巡幸されたので、そのリンゴを献上し「ミカド」と名づけた。それから急速に進歩して行った。この先のルーツは、薩摩人の岩山敬義さんがアメリカから持ち帰って勧業寮で育苗したものとされている。
 それから気を取り直して、目を付けていた浅瀬石川の土手に向かう。現れたのは全長 66mのプレートガーダーの4連の鉄橋で、三脚を据えて、今度は望遠レンズで山を引きつけて撮った。橋梁と荒れた河原を入れるアングル探しに手間取って妥協した産物となってしまった。さすがに日本海縦貫物流るーとだけあって貨物列車は重厚であった。
そして、大きく迫る岩木山の山容を眺めている内に、この神々しいほどの白銀に輝く端正な姿のの岩手山が津軽人の崇敬を集めていると云うのも納得だが、逆にそれは、天明三年(1783)に起こった大噴火が一員とされる東北を襲った 世に云う“天明の大飢饉の悲劇”を恐れているからではなかろうかとの雑念がよぎった。そこで弘前を素通りして矢立峠の麓の碇ヶ関へ向かった。
 蛇足に後日談を述べよう。この旅で後まで気がかりであったのは、再三ここにも現れている“大釈迦(だいしゃか)”と云う大それた地名であった。
いまは青森市の浪岡の大釈迦となっているが、昔から大釈迦むらであって、羽州街道が通っている峠であり、しかも五所川原や黒石の町へ通じている津軽の交通の要所でもあったのだ。
この峠の北へ続く尾根は梵珠山(ぼんしゅやま、標高 469m)に至っており、この山頂からは津軽平野が見渡せたし、逆に津軽平野の村々から見えるので、昔から信仰が厚く、聖山としてあがめられてきた。したがって仏教にまつわる伝説が多い。この山名は奈良時代、道昭上人が釈迦・文珠・普賢の三尊をこの山に祭っており、梵珠の名は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)から出たものと云う。そして、“大釈迦”という地名は、桓武天皇が鬼門封じのため、この麓の村に堂舎を建立し、釈迦像を安置したことに由来している。そこで“大”の意味についての伝承 「盆珠算山から消えたお釈迦さま」が浪岡町史 別巻に見えるので紹介しておこう。
『その釈迦堂にはとても見事な釈迦像が納められていて、遠く秋田県からも拝みに訪れる人がいたほどだった。ところがある日、釈迦像は台座を残して忽然と姿を消してしまったのである。釈迦像が乗っていた台座だけが残ったことから村名を「台釈迦」とするが、お釈迦様に逃げられたのでは具合が悪いとのことで「大釈迦」に改めたのだとか。
しかし暫くして事態は急展開を迎える。なんと秋田県の釈迦内村(現在の大館市釈迦内)に住む人が、盗み出して自分の村へ持ち去っていた事が判明した。
直ぐに秋田県へ怒鳴り込んで釈迦像を取り返して来たと云う。
ところがこの話、秋田県側では全く逆のパターンで言い伝えられているのも面白い。
お釈迦様が奪われて無くなってしまった。ゆえに「釈迦無い」転じて「釈迦内村」(しゃかないむら)となった。
いずれにしろ双方の村に盗難騒動の話が残っているのは確かなようだ。』
この文面は、〈梵珠山から消えたお釈迦様〉:
http://www.infoaomori.ne.jp/~yamada/gsx/legend/fil
を転載させてもらったことを付記し感謝致します。

撮影:昭和43年5月1日