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002. D51・厳冬の常紋越え 石北本線 /田原−常紋(信)田生


〈0003:31-51-4:雪面に影を映して常紋峠を登る〉
右手の山の隙間から朝の低い陽光が射して雪原に煙の影が写った瞬間であった

〈0001:〉
常紋トンネル越

〈0002:カラー〉
雪の常紋峠越え(トンネル手前

〈0004:31-61-2:常紋トンネル近し〉
ヘッドライトが点灯した

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〈紀行文〉
 この旅は石北本線の常紋越えを撮影するものであった。この夜、旭川駅で出会った常紋越えSL撮影行の人々は6人であったが、そのうち半分が「カンジキ」を背負った大阪のベテランたちで占められていた。そして、いつの間にか彼らが先導する形になった。
乗り込んだ夜汽車は急行にもかかわらず決してスピードを上げない。石狩川を遡り、大雪山系を迂回して、石北トンネルと谷間を通り抜けて、オホーツク沿岸の遠軽(えんがる)に抜け出た。ここから晴れた日には北方に樺太(カラフト)や千島が遠望できることから、“北見(ひたみ)の国”と名付けられた。アイヌ語由来の地名の渦の中で、ほっとする日本的な響きである。
 この急行は目指す常紋トンネルの先の常紋信号場には停車しないので、既にホームで待っていた遠軽発、下り一番不通列車の最後尾に乗り換えた。そして信号号場に停車するやいなや、素早く地面に飛び降り,先ほど通って来た暗い狭いレンガ積みのトンネルを小走りで通り抜けに掛かった。
氷と石炭の燃えかすのシンダー(煤)の積もった泥海のようなトンネル内の線路脇を走ることは相当な難儀であった。そしてトンネル入り口の左側の積雪の丘の上にはい登って、三脚を立て始めた。初めて来た積雪の冬の常紋は、幸運なことに晴天に恵まれ、オホーツク海から吹き付ける季節風もさほど強くはなく、撮影は無事に終った。正月のためで貨物の量が少なかったのであろうか、後補機付きの重連SLにはいささか軽い印象であった。
帰途はトンネル通行組と山越え組とに分かれた。私は常呂(ところ)郡と紋別郡の境にある常紋峠の深い積雪を2時間半で踏破して信号場に戻った。
峠越えの最中の天候の悪化と、トンネル通過の場合のトラブルの発生とを比較することは出来ないが、行動と危険は常に背中合せである。
この常紋トンネルは常紋峠の下を貫いており、この峠を越えると北見市の盆地に入り、終点の網走は近い。
このトンネルを中心に両側とも勾配(こうばい)や曲線のルートが続いているために、トンネル直後の信号場は全列車が交換可能なスイッチバックになっている。
人家の全くない生田原駅と金華駅との区間は、今でも この石北本線の難所の一つである。
  ところで、今は旭川を起点に北見、網走を結んでいるメインルートとなっている石北本線は、元々明治時代に北海道に建設すべき鉄道の幹線を定めた北海道鉄道敷設法に所載の18路線には含まれておらず、その後に北見や網走への短絡ルートを目指して建設された複数の路線をつなぎ合わせて本線に昇格した路線なのである。それは、大正5年に開通した湧別軽便線(後の湧別線)の野付牛−遠軽間を、昭和7年(1932年)に全通した旭川−遠軽間の石北西線+石北東線が編入して石北線として旭川−野付牛(北見)を直結した。さらに昭和36年(1961年)に至って明治45年( 1912年)に開通した網走線の北見(元の野付牛)−網走間を編入して石北本線として旭川-網走間となったのである。この石北線と云うローカル線は遠軽地区の人々で作られた「“カボチャ”陳情団」の強力な請願が知られており、大正6年から着工して先ず、旭川-上川間が開通し、さらに北見峠を越えて遠軽へ達する短絡ルートの「旭遠線」が実を結んだものと云えよう。
ここでは、そのなかの常紋越えノある湧別軽便線の開通に至る経緯を述べてみたい。先ず、北海道の鉄道の建設の枠を定めたのは1896(明治29)年に制定された北海道鉄道敷設法であるが、それにはオホーツック海岸への鉄道予定線としては、厚岸網走線(石狩國旭川ヨリ十勝國十勝太及釧路國厚岸ヲ經テ北見國網走ニ至ル鐡道)と、
名寄網走線「天塩国奈与呂ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道)が規定されていて、いずれも北海道の屋根であるけわしい大雪山系の横断を避けて、遠回りであるが標高の低い峠で、その支脈を越えるルートが選定されていた。その当時、名寄網走線の方は第二期予定線であって、しかも宗谷線の名寄から天塩と北見の国境の北見山脈を越えてオホーツク海岸に出てから南東へ進み湧別に至る名寄線が道央とオホーツク沿岸を直結するルートとして優先的に予定され、その先の湧別−網走間の湧別線は経由ルートも決まらぬまま次の予定線と位置付けられていたのであった。このように湧別が名寄線の当面の終点として定められた理由には、先ず網走へは厚岸網走線の建設が先行していたこと、それに湧別が江戸時代からオホーツク海岸の船運の中心港町であって、湧別川河をさかのぼって白滝から北見峠を越えて石狩川流域の川上盆地への交通の起点であったからであろう。一方の第1期予定線であった厚岸網走線は根室本線の池田から分岐して池北峠を越えて野付牛(現・北見)を経て網走に至るルートを明治45年(1912年)には早くも全通してしまった。
当然、それに呼応して網走から名寄に至る鉄道建設にも熱がはいったが、この当時の法律には詳細な路線ルートは明記されていなかったから、そのルートに当たる地元ではその誘致運動が高まった。この頃の時代は鉄道の敷設の主導権が鉄道当局から新興資本家とそれを代弁する政党に移りつつある時期に入っていた頃である。
これに刺激された湧別線をめぐる路線争いは、湧別、常呂、網走などの人々が「網走を起点として常呂から佐呂間湖畔を通り、湧別〜紋別を経て名寄に達する名寄線の海岸線案」の採択と建設の促進の運動を高めて行った。それに対して遠軽と野付牛の人々は「網走から野付牛〜留辺蘂(るべしべ)、そして常紋峠を抜けて、遠軽〜湧別を経て紋別から名寄に達する名寄線の山手線」を推して運動を始めた。やがて、明治42年(1909年)の後藤新平鉄道院総裁の来道を機に陳情運動が激化し、山手派はこの両案の比較調査の約束を取り付けた。そして、その8月に森安・安田両技師が調査を実施したが、その時の様子を伝える記録が遠軽町史に載っており、常紋越えノ大変さが伝わって来る。
『 調査隊は先ず、サロマ湖沿岸を縦断して海岸線の調査を終え、上佐呂間を経て留辺蘂(るべしべ)に到着した。 野付牛の有志は馬をとばして一行を迎え、その夜は温根湯(温泉)に調査隊と共に宿泊して翌日調査隊に同行、乗馬による30人くらいの一行となって、ポンムカの沢(現在の金華近く)から常紋郡境の人跡未踏の原始林に踏み入り、老樹うっそうとしてほとんど太陽の光線をみることができない昼なお暗いところを川伝いに、人の背より高い熊笹を踏み分け山中に馬を進めたが、背の低い土産馬では越えることもできない大きな風倒木の重なりあいや、ぶどう蔓や草のつるなどがからみあっているのに行く手をさえぎられ、進むにも退くにも容易でなく、それに案内するものも不案内のところがあったため、いつか知らず知らずに沢違いにふみいってしまい、夜になっても予定の郡境に達することができなかった。
 樺皮をはぎとって松明(たいまつ)がわりとしてわずかに足元を照らしながらたどって馬を進めた。 後送の糧食補給隊とようやく真夜中に連絡がつき、明け方近くに夕食をとるような状態であった。一行の疲労は大変はなはだしかったが、野営の夢まどろむ間もなく出発した。生田原方面では到着予定時刻になっても踏査隊が姿を見せないので山中に馬で連絡を出し、猟銃の空砲を放ってようやく一行と連絡がなり、ついに580余メートルの高嶺を踏破することができ、昼近くに上湧別同志会員(鉄道誘致運動に熱心な団体)などの迎えるイクタラ原野に到着することができたが、その困難は筆舌につくせないものがあった』
この結果から鉄道院は山手線を不利としたのは当然であった。翌年の帝国議会でサロマ湖畔経由の海線案が採択され予定線に編入された。
しかし、この頃になると鉄道の敷設ルート選定の権限は政治の問題となってしまっていたのだった。そこで、遠軽や野付牛の人々は、その決定にも屈することなく、磁力で常紋峠の地形調査を続けて、有望なトンネル掘削地点を記載した資料を添えた上で、この山の手線案が開拓の面からも緊急であり、それに加えて旭川〜遠軽間の旭遠線の建設への請願も含めて協力に進めた。この山手線の請願が認められ、鉄道院は再び山手線敷設の調査を慎重に行った。そして、明治44年に山手線の沿線は多くの村落を有しており、また拓殖上や保安上からも、北海道鉄道敷設法に定めた18線中、最も急を要する路線であることが認められ予算が付いた。これにより湧別−野付牛間が湧別線として、名寄線との連絡を前提に海線よりも先に建設されることになった。しかし、財政難もあって、着工中の名寄線の建設が優先されてしまい、中々湧別線の工事は始まらなかったが、それでも明治44年(1911年)に野付牛から着工し、大正元年(1912年)には野付牛−留辺蘂(るべしべ)間が軌間 1067mmで開通した。しかし、その先への延伸工事は進まなかった。そこで、開通を急いだ地元では、明治43年(1910年)に施行された軽便鉄道敷設法に規定された軽便線の建設を進める運動を鉄道院に働きかけた。そこで、鉄道院が用いたのが「軽便線」の制度である。軽便線は鉄道敷設法で敷設が予定されていない路線に適用される路線規格で、軽便鉄道法に準拠し施設の簡易な支線として建設することを条件に、帝国議会で予算承認を得るだけで建設できた。そのため、これをうまく使ってこの急な建設具体化に対応しようとしたのである。そして、湧別線の網走線の野付牛(今の北見)から分岐して下湧別(今の湧別)に至る鉄道を軽便線として予算を取って建設することになった。そして留辺蘂から先は建築定規は1067mm規格とするものの、軌条は軌間 762mmで敷設することに決まった。これは国有鉄道が建設した唯一の軌間762mmの路線となったものである。その経路は留辺蘂から奔武加(今の金華)を経て、25‰の上り勾配上に常紋信号所を設け、常呂・紋別両郡境に常紋トンネル(507m)を堀り、それから17‰の下り勾配で上生田原(今の生田原)へ着く。生田原川を3度橋梁をわたって下生田原(今の安国)へ付く。また湧別川第一橋梁を渡って遠軽を通り社名渕(今の開盛)を設けた。湧別第二橋梁を渡り上湧別・中湧別をへて、下湧別(今の湧別)に至るルートであった。この野付牛から下湧別までは81.2qの延長であった。
そして、常紋トンネル工事は大正元年から両方法から着工し、多量の湧水を見ると云う難工事であったが大正3年には完成した。そして留辺蘂からトンネルを抜けて下生田原の間が開通し、野付牛からの路線は湧別軽便線と統一された。しかし、留辺蘂駅は1,067mmの軌間と762mm軌間の接続駅となり、旅客の乗り換え、貨物の積み替えと云う不便さが生じた。さらに、大正4年11月には遠軽を経て社名渕(今の開盛)まで開通し、
オホーツク沿岸へのルートが開けた。
ところが、帝国議会では、この線区は全区間を「軽便線」ではなく「幹線格」であるべきであるとの判断となり、本来の当線の規格である「本線」として建設することが決定された。そのため当区間は開業した直後からいきなり改軌を迫られたのである。そして翌大正5年(1916年)に軌間762mmが1067mmへと改軌された。その後続いて社名淵−中湧別−下湧別(後の湧別)間の全線が開通した。その後、軽便鉄道法が廃止となり、湧別軽便線は湧別線となった。さらに、1921(大正10)年には湧別軽便線の中湧別まで名寄線が開通して、旭川から網走、函館野付牛への直通列車が名寄回りでりで走った。そして昭和7年に旭川と遠軽を直結した石北線が開通すると道央と北見、網走へのメインルートは石北本線へと移り大幅な時分の短縮が図られた。
 さて、常紋コエノ山回りれルートの工事は、標高約300b、全長507メートルのトンネルを掘るのに3年もの長い期間を要し、1914年(大正3年)にやっと開通したのを考えると、人跡未踏の地での難工事ぶりが偲ばれる。特に、地盤の悪さと、それに悪水の湧出に悩まされたとの記録がある。
 一方、このトンネル工事は凄惨で過酷な「タコ部屋」労働の手で建設されたことでも有名である。1968年の十勝沖地震の際に、トンネル内の壁面が損傷し、その改修工事(1970年)の時に、壁から立ったままの人骨が発見された。また、信号場の急行通過を容易にする工事の際にも、入口付近でも大量の人骨が発見された。人骨の一部には外力による損傷が見られたという。これにより「常紋トンネルには人柱が埋まっていることは確かノヨウダ。この紋信号場が開駅してから誰言うとなく、「火の玉が出る」「信号が消える」などのうわさも出たり、常紋に居住している歴代の鉄道職員に病人が多く出るのも怨霊のためではないかといわれた。昭和34年6月24日、これら痛恨で眠れぬままさまよい迷える魂の供養を営むべく、留辺蘂町長をはじめ当時の中湧別保線区の協力により、歓和地蔵尊を建立牛入魂地蔵祭が執行された。それ以来、毎年6月24日には地蔵祭を行っている。これは隣の金華駅近くにある元金華小学校の跡には、常紋トンネル工事の慰霊碑がひそかに立っている。これらに関する話題は小池喜孝著「常紋トンネル―北辺に倒れた労働者の碑」(1977年朝日新聞社刊)に詳しいので一読をお勧めしたい。

撮影:1971年
発表:「塗装技術」誌・1991年3月号表紙