自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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001  「アパラチヤン山地の春」: Southern RWY 722・ バージニニア州


〈0001:〉
アパラチヤン山地の一角にあるブルー リッジ山脈に沿って南下する初春のSL列車のの




















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〈紀行文〉
 アメリカ大陸には大西洋岸に沿って形成されたメガロポリスと呼ばれる大都市圏が細長くベルト状に南北に並んでいる。南端の首府ワシントンに始まり、ボルチモア、フラデルフイア、ニューヨーク、ボストンに至っており、その西側に寄り沿うようにアバラチャン山脈が南北に続いている。冬の訪れと寒波の試練にも、じっと我慢を続けて来た汽車好きの都会の人々にも、やっと待ち兼ねた恒例のイベントが近づいて来た。それは、SR(Southern Railway、サザン鉄道)が運行する“Warrenton Winter Limited”と銘打った、動態保存しているSLが牽引する特別旅客列車の運転ツアーであり、今シーズンの幕開けであった。そのイベントは、首都 わしんとんの夜桜で知られるホトマック河の対岸にある古い港町のアレキサンドリアが出発点で、ワシントンから南部のアトランタに至るSRの本線を67マイルほど南下して、Calverton(カルばーとん)でワーレントン支線に入り、かっての別荘都市であったワーレントンで一日をゆっくりと過ごす旅であった。このニュースを私が知ったのは、厳冬のさなかに大西洋岸の港町 ボルチモア(メリーランド州)にあるB&O(ボルチモア・アンド・オハイオ)鉄道博物館を訪ねた時であった。
 金曜日の夜、11時にワシントン国際空港にたどり付いてみると、さすがにアメリカの首都、人のざわめきで大層賑やかなのには驚かされた。北のオハイオ州では、まだ雪が融けず、道路が凍っているのに、暖かいバージニア州にはもう観光シーズンが到来しているらしいのだった。早速、レンタカーで南へ20分も走ると、アレクサンドリアのユニオン・ステーションの駅のありかがが確かめられた。そこで、明朝の天候の好転を祈りながらモーテルに入った。
アレクサンドリアの港町が臨んでいるのは桜並木で知られるポトマック河がチサヒーク湾の奥に注ぎ込んでいる河口にあり、この辺りの大西洋岸は複雑に入り込んだリヤス式海岸が続いて南下していた。17世紀の中頃に、ジョン・アレキサンダーがタバコ畑を開いてから町が出来上がって、町の中心には赤い練瓦建の商館が今も立ち並んでいる古い港町である。市街のすぐ西に高さ60メートルの丘の上に、初代大統領 ワシントンの記念塔が古代エジプトのオリベスク形式で建立されており、それはナイル河口の港であるアレキサンドリアの古代灯台を模した威厳のあるデザインで168メートルの高さを誇っているとか。この直下にアレキサンドリア・ユニオン・ステーションがあり、今も尚、AMTRAK(アムトラック、米国旅客輸送公社)のニューヨーク発、ニューオルリンズ行きの
“Crecent”(三日月)と名付けられた看板列車がSRの伝統を引き継いで発着している。
ワーレントンヘの旅は朝9時発、第一日目は曇り空に今にも雪が降りそうな寒い日であった。駅を出ると市街の中で、RF&P(リッチモンド、フレデリックバーグ・アンド・ポトマック)鉄道がそのまま海に沿って南下するのに対して、SRのアトランタに向かう複線の幹線は別れて西に向かうのであった。出発するとすぐ丘陵地帯に取り付き、切り通しを通りながら登り勾配、sカーブの連続でマナサスに向かう。郊外は新しい住宅群の開発が盛んで、古い寒村があると思うと新しいショッピングセンターが現れたりして、ワシントンのベッドタウンとなっているのであるらしく、線路の脇まで美しい広い芝生の邸宅が迫っている。そこを過ぎるとマナサスまでの間には、古い駅舎が教会になっている村があったり、次のカリフトンの駅の跡は広々としており、大勢の鉄道ファンが♯722の通過を待っていた。
このマナサスまでの路線は南部や中西部から東海のメガロポリスへの多忙なメインルートであって、良く保線された複線はSRとChissie System(チェーシー・システム、C&O・B&Oが傘下)が共同運用している区間である。それはマナサスが南北戦争の頃から鉄道の分岐点であり、SRの本線は南に向かうが、支線はそのまま西に向かい、アパラチアン山脈の麓の大地溝帯を平行に南北に走る鉄道に接続しており、その昔、B&O鉄道が北からバージニアに勢力拡大を企てた名残りとして運行しているとのことであった。
 深い森林地帯を通りながら Bull Run(ブルラン)の鉄橋を通ればマナサス到着となる。この辺りは南北戦争の古戦場で、自然公園になっており、蛇行する河と深い林のため線路に近づくことが困難であった。それに、
アレキサンドリアからは平行道路はなく、時々鉄道に直角に横切る田舎道が数本あるだけなので、陸橋や踏切りでの写真でお茶をにごさざるを得なかった。
この列車はマナサスから乗車する人も多く、広い構内で♯722は火床整理に忙しい。この機関車は古典的な手焚きのカマであるのだったが、ここで少し経歴を述べてみよう。
この♯722(2-8-0)は元SRのSkS-1クラスで、1904年のsボールドウィン製(47292号)であり、この2-8-0のコンソリデーション型車輪配置は80年もの長い間アメリカの典型的貨物機として使用されて来た。SRのDL化によって引退、その後はケンタッキー州の炭礦線の小鉄道に譲られていた。その後、SRに戻って動態保存機に蘇ったと云う幸運のカマであった。そして1979年夏には、NRHS(全米鉄道歴史協会)の年次総会がワシントンで催された際に、姉妹機♯660と重連運転でバージニア州の山岳地帯を走り、帰りは別々のルートでワシントンに戻ると云う快挙でホストslの大役を果たしたとのことだ。
 さて、ここからは州道28号が並走して南へ向かう。3月とはいえまだウインターと名づけるだけに、ヴァージニアの山々は冬の名残りをのこしている。ゆるやかなうねりの続く丘陵地帯を一直線に走る。所々で、河の流れる谷を通過する所で橋を渡ると登りになる。見送っていると、展望車で手を振る少女がいつまでも見え、遠ざかるドラフトが遠くの山々に吸い込まれて消えてゆく。両側は広い牧場地が続き、まだ葉が出ていないけれども、青紫色に霞んで見えるのは、正に“ブルー リッヂ”の名の通りである。
 やがてワーレントン支線の分岐点であるCalverton(カルバートン)に到着したようであって、DLの補記が付くのであった。ここでサザン鉄道の社史に書かれているワーレントン支線の歴史を受け売りしたい。
サザン鉄道の前身の一つであるOrange & Alexandria RailwayのCalvertonからWarrentonまでの"9マイル区間の"Warrenton支線が3年がかりで1853年に完成した。分岐点のカルバートンには小さなヤードと機関区と転向のためのデルタ線が設けられ、ワーレントンの終点には機関車のブレーキ用圧縮空気を使って動かすターンテーブルが設けられた。そして、西の末端には貨客サービスのための駅舎が作られた。最盛期となる1899年には、ワシントン別荘地として人気が高まり、一日五本のワシントン直通列車が運行され、政治家や政府の高官たちが終末を過ごすためにやって来たと云う。この100年以上も前に作られた単線区間には、途中に石英採掘場があるくらいであった。ワーレントンは馬の郡(ホース・カウンティ)の中心地であって、秋の馬祭りには大勢の人が集まるから、昔の列車は、その時には牧場の真中で汽車を停めて、切符を車掌が全部集めてから駅に向かって出発したと云う。今(1978年頃)、この支線の利用は、数回の鉄道ファン・トリップと年に数輛の貨物到着くらいとのことで、枕木も朽ちて列車が通ると沈みむと云うような所も多く、最除行でゆっくり進むのであった。
途中に急勾配があり、二日目にはここでDLを切り離して、“Photo−Run-By”(ほとらんばい)を行った。これはパンフレットにも、その実施がうたわれてはいたが、どこで行うかは秘密であるとされていたようだ。結局の所、支線に入ってから勾配の強い箇所で、線路脇が広く土手となっている所が選ばれて、乗客を全部降ろして、♯722は一旦、後退してから、全力発進を演じて見せるのであった。ここでは、特別に煙や蒸気を噴き出すと云う配慮が払われるので、現役時代には見ることの無かったであろうような超ど迫力のシーンを撮影することで、誰もが大満足であった。主催者は自動車で列車を追いかける人々が入れない場所を選ぶのであった。それにしても、私のように地理も判らぬ者が、これに出会って胸を躍らせてこのショットヲものにしたのは幸運の一言に尽きると云えるだろう。
やがて側線の多数ある鉄鋼商の倉庫を通り、終点の駅前広場に到着した。広場の真中に本線が一本だけ、駅とは云っても1908年建築の練瓦造りの駅がが北半分だけ残り、レストランになっており、線路の車止めまでは広々としている。七輛の客車からは大勢の人々が降り、SLに乗せてもらう人々の行列や街へ散歩に行く人々、露店で軽食を買う人、南北戦争のモニュメントに向かう人々、それぞれ思い思いに二時間半の休憩を楽しんでいる。
♯722は伝統のグリーン色のペイントが施され、客車はダークグリーンにペイントされた重そうな鋼製客車で、一部の車輛はNRHS支部の所有のものらしく、大きなマークのデカルが貼られてあった。中には三軸ボギー台車を備えていた数量が混じっていた。やがて、太い汽笛が鳴らされ、帰りの時間が迫って来た。DLのタイフォンにより、ゆっくり鐘を打ち鳴しながら帰途について行く。分岐点で転向しDLを切り離すと、一目散にアレクサンドリアへの帰りを急ぐ。
私もハイウェーに乗り、先回りして駅で到着風景を撮ろうと、もくろんだったのだが、五車線と広いハイウェーも、アレクサンドリアに近づくとノロノロ運転となり、ワシントン記念塔の見え始めた頃には、遠くに白い蒸気を吐いて駅に進入する列車を横目でにらむばかりであった。そして、ワシントン記念碑の丘に登った時には、既に♯722は機関区に帰るべく、街の家並の中を右に左に白い蒸気のみを残して去り行くのであった。もうポトマックの河畔には短い冬の日が終わろうとしているのであった。
このワーレントン支線は1941年には旅客列車サービスが廃止され、1972年に駅が廃止されて、採石場のみが生き残っていた。2008年の現在、インターネットによると、この支線のレールが撤去され、“グリーン・トレイル”と名付けた散歩路として蘇ったとのことであった。
 蛇足だが、♯722は2−8ー0の車軸配置を持った貨物機で、日本の元JNRの9600クラスに匹敵するSLであった。昨今のイベントは大規模となり牽引SLには大型機をリースして運転する傾向になっているようである。その意味では、この冬のイベントでは、やや小ぶりな♯722がホスト役となったのであろうか。
実は、このホームページのURLの〈stmlo9600〉は、この巻頭の写真に因んで、〈蒸気機関車9600〉を採用している訳である。
ここで遅ればせながら、日米の仕様諸元・性能の比較をしてみると、
SR・KS−1        JNR・9600  
ボイラー圧      13.4            13.0    kg/平方センチ
シリンダー      610X762         580X610     MM
動輪径          1415            1250        mm
牽引力          21.18           13.92       ton
機関車重量      97              60      ton
であり、9600の1.5倍と云うところであろうか。

撮影:1979年
発表:「塗装技術」誌・1991年新年号表紙、「蒸気機関車」誌.