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創造への情熱と自分を信じる強さ、そして現実。


最近、デザインへの関心が自分の中で高まりつつあります。
もちろん、自分の好きな造詣をしたものに
囲まれて生活するということが
心地よいせいもありますが、もうひとつ理由があります。
それは、デザインに関わる人の心性に、
興味があるからです。

先週(9月8日)に、新宿パークタワーで開催されていた
「PD(プロダクトデザイン)の思想展」
に行ってきたのですが、「思想」と銘打つだけあって、
考えさせられることがいろいろありました。

そこで売られていた、「プロダクトデザインの思想」
という本に書かれていた、こんな内容が印象に残りました。

デザイナーが自らの信念に従ってデザインしたモノに
絶対の自信を持っていたとしても、
彼ら(=マーケティング担当者や営業)の
お気に召さなければ、結局は泣く泣く、
お許しが頂けるまで、自分の意に反した手直しを
加えていかなくてはならないハメになる…

一般人から見れば、デザイナーがあまりにも
凝りすぎているようにも思えます。
でも、自分が納得したものをつくる
ということは、創造の源泉であることは、
間違いのないことと思うのです。

素人感覚でしかないんですけれど、
自分で納得のできないモノ、
自分が欲しくないモノを作っているより、
自分が欲しくて欲しくてたまらないモノ
を作っているほうが、モチベーションが違う
と思うんですよね。

しわができた紙袋のような陶磁器、
クリンクル陶磁器の作者は、

 プロダクトデザインには思想も必要なのだろうけれども、
 なにかおもしろい物を作ろうとする
 単純素朴な動機が必要であり、それが強ければ
 強い程いいと確信する。

と書いています。

若者向けなら、高校生や大学生が。
初心者向けなら、使ったことないひとが。
シニア向けなら、シニアの方が。
モバイルPCなら、モバイラーが。

当の本人が作ったほうが、一番いいに決まっている。
そう誰もが思うのだろうけれど、
実際は、そうはならない。
だから、消費者という得体の知れない存在を
メーカーは追い求めているのでしょう。

しかし、自分ではない誰かのことを
どれだけよく知っているでしょうか。
身近な友人でさえ、自分が自分のことについて知っているよりは、
はるかに情報量が少ないでしょう。
他人の目を通して、初めて分かる「自己」像
というものもあるでしょうが、全体像からすれば
小さな割合のことではないかと思います。

翻って、デザイナーが商品を考えるとき、
あたかも、自分の好きなものについて考えているかのように、
絶対に納得のいくところまで考える人たち
のように、わたしには思われます。

だから、デザイナーには自分の発言の影響力が上がるよう、
がんばってください…とそれだけいかないところが、
困ったところなんですよね。

デザイナーが言うことも確かに一理あることですが、
売れないと話にならない、ということもまた
真実であるはず。

ところが、「販売効率しかみない」、「マーケットに媚びる」
といった言い草からも読み取れるように、
自分の信念をしっかり持っている余り、
自分が社会に広めたいと思うものを
広げていく手段を考えている人間と
穏やかな関係を築いていこう、という意思に
欠けたところがあるように思えてなりません。

逆も然りでしょうけど、
広い視野から、物事を見ることができるということが、
よいことだと思われてはいる一方で、
実際は、デザイナーとマーケッターという
社会のほんの一部の関係をとってみても、
実現されていないわけです。

デザイナーが社会から評価されるのは、
自分の信念に従って表現しているからだけではなくて、
「ほかにない何か」を評価する人が、
いるからに他なりません。

デザイナーが自分の信念に基づいて
創り、愛着があるのなら、
これを広めるためには、どのようにしたらいいか
を考えるのではないでしょうか。
こんないいものを、自分とその身近なところだけのもの
にしておくのは、もったいない、と。
そうすれば、どうしたら売れるかを考える、
営業部門との接点も出てくると思うのです。

不自然な光に反抗したPHランプを創った
ポール・ヘンニングセンの項目では、
単に現状の市場に流される状況を批判するだけではなく、
良質な光を追求した結果としてできた、
良質なデザインを主張し続けることで、
きちんとした評価を受けているようです。

デザイナーの考え方が異質なのは、
誰か別の人に向けてというつくり方ではなく、
まず自分が納得するものを、
という姿勢があるからかもしれません。

そして、少数であるがゆえに、
結果的には、いつもデザイナーが
メーカーの進める方向に、
飲み込まれてしまうのかもしれません。

であればこそ、そういうことをきちんと
言って欲しいと思うのです。

WiLLFAXというスタイリッシュで、機能が絞り込まれた
FAXの開発がとある雑誌に載っていましたが、
もちろんスタッフの方が理解されなくて、
苦労をされたのでしょうけれど、
それでも、納得させようと必死になって
それで実現したのだと思います。

数が少なければ、仲間を増やす。
数字で説明を求められたら、数字を出す。
自分の信念でつくっているという自信を
なにがなんでも、通してやるという気概があれば、
ことは動くような気がするのは、わたしだけでしょうか?

寡占化している市場は今いっぱいあります。
寡占市場では、相手がどう出るかばかりを考え、
ユーザにとって、どうあるべきかが
見えないことがあるような気がします。

相手に「追いつけ追い越せ」の機能競争で、
問題とならない機能以外のポイントは、
無難な横並びに終始する…

これは、経済学が教えていない、
モノづくりの現場における「寡占市場」の
弊害であると思います。

メーカーは、作りやすいモノをつくりたいでしょう。
営業や販売店は、売りやすいモノを作りたいでしょう。
これでいいのか、という考えの下、
割って入っていける数少ない立場の一つが、
デザイナーではないでしょうか。

一般に営業や販売店の意見は、
消費者の意見を代弁しているとされますが
それで消費者が商品を目にしたときに考える、
すべての意見、思考回路を網羅したことにはなりません。

「プロダクトデザインの思想」の冒頭には、
デザイナーがメーカーとは違った視点で、
モノづくりに関わっていかなくてはならない、ということのほかに、
もうひとつこんなことを書かれていました。

もっとデザイナーが自分の言葉で、
自分たちのことを表現するということを
やっていかなくてはならない、と。

これは、わたしが言いたかったことを、
ずばり表しています。

消費者は、自分の信念に従って、
自分の納得のいくものを創った創造者が、
自分の言葉で表現することを待っていると思います。

営業の立場を「卑しい商売根性」と言い放つくらいなら、
営業が気持ちよく自分の考え方を受け入れられるような、
説得の方法を模索するべきではないでしょうか。

創造への情熱と自分を信じる強さという点では、
デザイナーの人たちは、誰にも負けないプライオリティのある
立場の人たちだと思います。

だからこそ、現実に広げるということに、
もっと関心を持って欲しいというのが、
展覧会の率直な感想でした。

ちなみに、本サイトでも掲載している
エレファントデザインの「空想生活」は、
販売とデザインのコミュニケーションの溝を埋める
おもしろい実験だと思います。

2002-9-17


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