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すべてを等しくみるこころ


ずいぶんと間隔があいてしまいまして、
ちょっとネタとしては、遅い気がしますが、
小・中・高の週休完全二日制が実施されました。

テレビなどで取り上げられるのは、
ゆとり教育を推進する文科省と、
学力低下を不安に思う父兄側との軋轢が、
多いように思いました。

しかし、わたしにはそのどちらにも
違和感を感じながら、その話し合いの場を
テレビで見ていました。
それは、当事者である小中学生が、
どういう気持ち、どういう感覚で、
学校の勉強に取り組むのか、ということです。

お役所いわく、一までは詰め込み型の教育で、
どのように生きていくのかをじっくり考える機会や、
地域と触れあう機会が少なかった、
なので、それに向けた時間として、
土曜日を休みにする、ということだそうです。

一方、親としては、そうはいっても、
高校・大学に進学することが、
以前ほどではないにせよ、
重要なことであることは変わりなく、
将来のキャリア形成や就職に不安が残る、
ということでしょう。

しかし、必ずしも知識を詰め込むことが、
悪いことではないですし、
むしろ、記憶力が豊かなときに、
知識を獲得しておくことも、重要なことです。

また、勉強を将来に役に立つものとしてしか、
見ることのできないひとは、その内容を軽視しているという意味で、
基本的には、勉強すること自体を見下しているのかもしれません。

何度か書いてきたとは思いますが、
わたしは、比較的に苦労をせずに
学校の勉強や受験に取り組んできました。

苦労をせずに、とはいっても、
塾に通い、帰っても勉強し、何度も何度も模擬試験を受け、
作業としては、それなりの苦労をしてはいます。
たまたまか、何らかのきっかけがあったのか、
勉強に興味があったので、自分の学力を上げていくことを
あまり努力したとか、がんばったという気にはならなかったのです。

こういうわたし自身の経験とは違って、
どういうわけか、学校で習う勉強は、
将来のためにやらなくてはならないが、
興味の持てないもので、できればやりたくないもの、
つまらないものと決めてかかるような風潮があるように、
感じるときが多々あります。

しかし、やらなくてはいけないからやる人と、
おもしろいからやる人と、どちらが能力を伸ばせるか、
どちらが「将来のために」なるかを考えれば、
おもしろいからやると答えた人に違いない
とわたしは、思います。

加えて、これは勉強だけではなくて、
地域活動やボランティア活動でもそうですし、
スポーツやゲームなどでも同じことです。
遊んでいるように見えても、自分の興味に従って、
やっていることは、将来のために全くならないことはない、
と思っています。

学校の勉強も、地域とのふれあいも、
プレステ2をすることも、インターネットをすることも、
サッカーをすることも、バンド活動をすることも、
すべてがおもしろくも、つまらなくもなりうるし、
将来に役に立ったり、立たなかったりするものです。
どうして、これが大事だ、ということを
どれかひとつに決めてしまおうとするのでしょうか。
それが、この問題に関する大きな疑問です。

今、将来の目標が決めにくい時代になっています。
言い換えれば、何に興味を持ったらよいのか、
どうしても、これがしたい、
という気持ちになりにくいということでしょうか。

一度就職した人も、これがやりたい仕事ではない、
でも、何がしたいか分からない人が多いようです。
だとしたら、義務教育では、将来に役に立ちそうだと思われる
可能な限りのあらゆることを一通り経験させる
環境を提供することではないでしょうか。

勉強も、地域活動も、クラブ活動も、
ほかにはあまり思いつきませんが、
いろいろなことがあります。
さらに、経験した上で、どのようなことをしたいのか
を考えられること、優先順位をつけられる人間を
育てる教育も必要でしょう。
そう考えれば、時間が全然足りません。

すくなくとも、ゆとり教育という名の下に、
どんな活動をするか分からない、
休みにしてしまうのは、下策といわざるを得ません。

本来ならば、やっぱ受験が大事で、
大学に入ってもらわないと、と考えている親たちに対して、
いや、本当に大事なのは、そういうレールに乗っかることではなくて、
自分で自分の道を決められる人に育てることなんです、
そのために、学校ではこういう活動をこういう計画で進めます、
という説明をしなくてはいけないはずなんですが…

さらに、自分の過去を振り返った場合、
文科省に申し入れをするなら、
勉強の内容に興味を持つ小中学生にとって、
自分の好奇心を発揮できる環境を作ってほしい、
ということです。

なにも、大それたことではありません。
勉強は重要なことであるといい、、
勉強のできる子はすごいと褒め、
きちんと教科を教える時間をとり、
教科の内容を省かず、充実させることです。

これは推測にすぎないのですが、
ゆとり教育委を論じる際に、従来の詰め込み教育は…
という言い方をよくされて、わたしが経験してきたような
勉強を否定する含みが見られます。

しかし、本当に勉強に興味を持った子供は、
興味のもったことに関する知識をどんどん詰め込みたい、
と思うはずであると思うのです。

そういう子供たちは、義務教育を受ける
すべての子供たちのなかでは、
少数派かもしれません。
とはいえ、世の中には、いろいろなことに
興味を持つ人がいます。
その「いろいろなこと」のなかには、
当然ながら学校の勉強だって、
対象に入る可能性があるわけです。

今度の指導要領の改訂やゆとり教育の推進によって、
わたしが心配するのは、決して学力の低下ではなく、
国語や歴史や理科(…自分の興味もったものですが)
に興味を持った学生が、肩身の狭い思いをするのではないか
ということです。

長々と学校の勉強の例を見てきましたが、
今までの固定観念を破棄して、
すべてを一度、同列に見て新たに検討する
「すべてを等しくみるこころ」をもつことが、ということが、
どれだけに難しいことかということを痛感します。

すぐに考えつくところでは、
IT革命に諸手をあげて賛成する人と
コンピュータを否定的にしか見ることのできない人との
大きな溝も、同じような問題を抱えている
といえると思います。

IT関連のビジネス書などは、気持ちが悪くなるほど、
ブロードバンドやユビキタスやなんだといって、
インターネット関連のビジネスを賞賛してきました。
もともと革命なんて起きるはずもなく、
漸進的に従来のリアル世界との調和しながら、
定着していくはずなんですが…

何かを手放しで賞賛する側と、それを批判する側。
古くは、資本主義と社会主義の
対立構造にも見られます。
結局、社会主義が後退する格好になりましたが、
資本主義が勝ったということではなくて、
資本主義とは、どうあるべきか
が問われ直されているのをみると、
やはり対立している両の端には、
答えがないものだな、と思わずにはいられません。

2002-5-20


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