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だって、インターネット好きなんだもん


このサイトの左フレームに、
卒業論文というコーナーがありまして、
いつまで経っても、工事中のまま、
もう、5か月が過ぎてしまっています。

卒論のアップはできないから、
卒業論文に関する文章を書こうと思って、
やぁっと、余裕を持って書ける時間ができたというわけです。

さて、こうしてサイトを持っているくらいですから、
相当なパソコン好き、と思われているふしがあります。
ま、確かに好きではあるのですが、
むしろハードやソフトに対する興味は、
わたしがパソコンを使い始めたきっかけに過ぎません。

今、何が楽しいかとか、
何に興味があるかと問われれば、
新商品が出たとか、こんなに性能が上がったとか、
そういうことは、一番の関心事ではないのです。

メールで多くの人とコミュニケーションを図ったり、
自分のサイトに、どんなコンテンツを載せようかなぁ、
と考えたりといった、企業の論理からいえば、
まったく他愛もないことで、
面白い面白い、とよろこんでいるわけです。

自動車に例えて言ってみれば、
こんなに燃費がよくなったぞぉとか、
今度の新型車は、こういうときに便利だねぇとか、
そういうことよりも、この車でどこに行こうかとか、
せっかく車があるんだから、こういうことしたほうが、
おもしろいんじゃない?
と、そんなことを考えているようなものなんでしょう。

わたしが、こうしてパソコンそのものから、
というよりは、パソコンの持つ「利便性」から、
パソコンの持つ「楽しさ」や「可能性」へと
関心がシフトしてきたからこそ、
こうしてサイトを開いているのかもしれません。

といっても、パソコンが便利になっても、
それはそれで、まったく歓迎するべきことに変わりはないのですが、
そういう利便性をうれしく思う気持ちと、
コミュニケーションの楽しさを堪能し、
こんなにいいもんだよ、と人に宣伝したくなる気持ちと比べたら、
後者のほうがだんだん強くなっていっているのは、
確かなことです。

関心が「楽しさ」へ移行する決定的なことといえば、
とあるメーリングリストに入ったことでしょう。
そこでは、主にインターネット上で公開されている
フリーソフトウェアに関する情報交換が目的なのですが、
別に雑談用のメーリングリストもあって、
そちらにも「読むだけ」のメンバーとして参加していました。

自宅でインターネットができる環境になかった
ということもあったかもしれないのですが、
就職が決まるくらい時期までは、
知人とのメールやメールマガジンの購読のほか、
雑誌に掲載されているフリーソフトウェアを試してみたり、
あと、大学のパソコンでひたすらネットサーフィンをしていたり、
といった感じで、こちらから何かを送り出すというよりは、
情報の受信者として、インターネット上に存在していました。

しかし、今となってはそのときの心情を正確に
反芻することができないのですが、
雑談用のメーリングリストに初めて投稿をしたんですね。
それが、開設されてまもなくだったこと、
掲示板よりメーリングリストのほうが、親近感をもてたこと、
そんなことがうまく作用したのでしょうか。
惚れた女性に電話をするときのように、
緊張したことだけは、はっきりと記憶しています。

幸いなことに、そのメーリングリストの参加者の皆さんは、
いい人ばかりで、わたしはそこで、発言すること、
自分の思っていることを投稿することに、
楽しさを感じました。
新聞の投稿欄の常連さんが、
投稿することが楽しいと書いておられたのを、
新聞でよく見ましたが、
おそらく、それに似た感覚なんでしょうね。

このときから、わたしの中でインターネットは、
「便利で、あれば役に立つもの」から、
「自分が主体的に関わっていけるエンターテイメント」へと
大きくその性質を変えることになりました。

そして、インターネットの最も重要なことは、
参加すること、表現すること、
そしてそこから、何かをつくることにあるのでは、
と思い始めました。

つくるといっても、何も商品になるものだけではなくて、
自律という精神がその表現の中から
つくられてくるかもしれませんし、
あるいは、人と人との関係というものが
つくられてくるのかもしれません。

今になって、思い返してみますと、
それまでに読んでいた、経済学の文献(経済学部卒なんで)や
個人的に読んでいた遺伝子に関する知識などがあるなかで、
インターネットという経験が、引き金になって
こういう考え方に共感を抱くようになった気がしているのですが。

そんなわけで、わたしは卒業論文のテーマに、
消費者(もっと拡大解釈して言うなら、生活者)が、
インターネットの普及によって、
参加するという市場への関わり方が、果たして定着するのかどうか、
ということについて書こうと考えました。

しかし、このようなタイトルは経済の領域で注目されている
インターネットと市場における定着可能性をテーマにしてはいても、
従来の経済学の関心領域とは、なかなか整合性のとりにくい問題でした。

というのは、経済学とは稀少な資源の効率的な配分問題、
つまり以下に少ない資源で、人々に需要を満たすか
という問題を扱うものだと考えられている以上、
主体的に一人一人の消費者が参加するかどうか
ということは問題ではなかったんです。

さらに、経営学では、マーケティング論に代表されるように、
消費者行動分析が発達しているのですが、
経済学は、消費者に対してはこれまでかなり
無頓着であったといわざるを得ません。
関心の対象すらならず、合理的に行動する経済人の仮定のほかは、
扱われることが少なかったんですね。

まぁ、それでも卒業論文とはいえ、
やはり書きたいテーマで、書いていれば苦痛も少なくなるので、
このテーマで通すことにしました。

そこで、わたしが出した結論(おおげさな)は、
人々はそんなに主体的に行動したいと思うだろうか、
例え思ったとしても、自分の身の回りにのことすべてに対して、
主体的でいられるのだろうか、ということでした。

アメリカのプライスライン社のような逆オークションによって、
価格を消費者が決められるとは言っても、
航空会社のほうが、売れ残ったチケットを安売りすれば、
需要があると知れば、わざわざ自分で決めるということをせず、
直接、航空会社から買うでしょう。

わたしのサイトで紹介している「空想生活」や「たのみこむ」
に魅力を感じるのは、それは消費者として主体的に関わってみたい
と思うようなカテゴリであるからで、
やはり、主体的ではいたくない、
人任せにしたいけれども、でも人生には大切ということも、
厳然としてあるわけです。

なので、主体的に参加するという市場という
コンセプトは残るだろうけれども、
参加している楽しさをどれほどの人に
感じてもらえるかに自信がなくて、
小規模なもので終わってしまうだろう、
と結論付けました。

むしろ、現状がこのようであるならば、
自分で決めること、自分でつくること、
自分で表現すること、そういうことって楽しいよね?
と言い続けていたい、と思っていました。
現状が厳しいからこそ、
灯火を消さないようにせなあかん、というような。
自分にたいしたことが、できるわけではないですが、
少なくとも自分は、そういうことを大切にしたい、
そんな感じでしょうか。

それは、誰かのつくった作品を見て
感じたことでまったくよく、
むしろ一からは、誰も何も作れないことを考えれば、
ごくごく当たり前のことです。

そして、今です。
宝箱のなかみでご紹介した糸井重里さんの「インターネット的」や
橘川幸夫さんの、「インターネットは儲からない」など、
インターネットの本質は、主体的に参加し、表現することだ、
という主張の本が出版され、うれしいですね。
「やっぱ、そうでしょ」、という感じで。
もっと前からそのような本が、出版されていたのかもしれませんが、
1〜2年前は、インターネット・ビジネスの話
ばかりだったように記憶しています。

そこで、やはりそのインターネットの本質というか、
楽しい部分を詮索していくと、やっぱりこれからは、
何か変わるなぁ、ということが実感をもって感じられます。
価値観がフラットな状態で、つながっていて、
ほかの人の表現に刺激されながら、自分なりの表現をしてみる。
自分はそう思っていたけれど、
そういうことは、やっぱり楽しいやん、
という人は、やっぱり結構いるもんだな、と安心したり。

これが、わたしの短いインターネット・ライフで
感じたことそのままです。
それをもとにして、パソコンを使って、
主体的に参加し、表現する人が増えたらいいなと思って、
知り合いのパソコンに関する相談などによく乗るのですけどね。

ちなみに、絶対というわけではないですが、
先ほど書いた、

「価値観がフラットな状態で、つながっていて、
 ほかの人の表現に刺激されながら、自分なりの表現をしてみる」

ができるのは、今のところパソコンだけだと思っています。
パソコンに、人間の創造性を助ける仕組みがある以上、
パソコンがもっと人に何かを表現したい、つくりたいと思わせるような、
創造的な雰囲気を持つように進歩するでしょう。

そのとき、「パソコン」という名称が、消える日が来るかもしれませんが、
手軽に創造性を発揮させてくれる機械というのは、
決してなくならないだろうと思います。

その意味では、携帯電話とパソコン、PDAとパソコンが競合し、
いずれは、パソコンが消えてしまうというのは、
携帯電話やPDA、あるいはゲーム機・テレビといった、
インターネット端末になりうる機械が、
見ることしかできないじゃない、ということを
どうでもいいこと、と思っているからでしょうね。

インターネットの本当の楽しさに魅せられて、
楽しんでほしいという気持ちが、
自分の心に芽生えてくる人が増えて、
その人たちが、表現する人を何らかのかたちで、
支援していけば、既存のインターネット論を飲み込む
大きなうねりになるかもしれません。
願わくば、そうなってほしいもんです。

2001-8-29 神戸にて


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